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鬼胎
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女の子は、細い柱越しに僕を見ている。僕は怖くなってそれ以上近づけない。明かりに照らされて揺らめく女の子の表情は、蛇のようであった。でも普通の女の子だ。少し吊目だったけれど、鋭く尖って大きかったわけでもないし、口も裂けていない。長い舌を出していたわけでもないし、牙を見せつけてきたわけでもない。でもそのように見えた。蛇のように微かに笑っていた。
僕が後ろに下がろうとした時、女の子は、右手の人差し指を唇に当てがって、「しー」と息を吐いた。僕は固まった。女の子は怪しげに微笑んで、おいでおいで、と手招きをする。
僕が行かずにいると、女の子はにゅるーと動き出して、トカゲのように這いつくばって蛇がニョロニョロするような動きでこっちに来た。地面(天井の板)、柱、天井(屋根側の板)を伝って来た。そして、僕の鼻に吐息がかかる数ミリくらいの距離に顔を寄せて、鼻と口で同時に息を吸って、僕のにおいを嗅ぎまわる。
「ああ・・・ああ・・・」女の子は声を出した。「このにおい、懐かしいわ」僕の顔を撫でまわす。とても冷たい手だ。「慎吾・・・。慎悟なのね。会いたかったわ」
女の子の声は、少し高くて悲鳴のように聞こえた。そして一音一音ごとに間延びしているようだった。言葉が溶け落ちていくみたい。
僕は、恐る恐る訊いた。
「どうして僕の名前を知っているの? あなたは誰?」
「覚えてないの? そう、覚えていないのね。無理はないわ。仕方がないもの」
女の子は、ねちっこく僕の顔を撫でまわしながら、更に続ける。
「わたしはあなたのお姉ちゃんよ」
僕はびっくりした。
「うそ。僕にはお姉ちゃんなんていないよ」
「いいえ、いるわ。まさに今ここに」
「おかしいよ。どうしてこんなとこに住んでいるの?」
実際住んでいるは分からない。でも、古い割れた食器や、咬み砕かれた何かの骨や肉片が落ちている。だから僕はそう思った。
名前を幸子と名乗った女の子は言う。
「仕方がないの。ここに隠れていなければ、あの人たちに殺されてしまうから」
「あの人たち?」
「あなたが家族だと思い込んでいるあの人たちよ」
言っていることがよく分からない。
女の子は続けて言った。
「わたしたちの家族は殺されたのよ。あの人たちに。あの人たちは、あなたの本当の家族ではないの。騙されているのよ。
あの人たちは、わたしたちの家族を裏切った。本当はわたしたちのお家に仕える従僕なのに」
「信じられない」僕は、女の子の言葉を遮った。
「信じられなくても事実よ」
女の子の話は続いていたけれど、僕は後退りして天井裏に入ってきた穴のところまで戻った。女の子は追いかけてこない。気持ち悪く見えるけれど、喜んでいるように、こちらを見つめ続けながら笑っている。
僕が押入れの中に下りようとした時、女の子がなるべく大きな声を出そうとしたかのようなかすれる小声で「絶対に誰にも言っちゃだめよ。言ったらわたしは殺されてしまうわ」そう念を押した。そして、身をかがめて唇に人差し指をあてがい「しー」と口を鳴らした。
僕は静かに深く頷いて、押入れに下りる。思いのほか布団が下のほうにあって、下りた拍子に僕は舌を嚙みそうになった。さっきまでたくさん積まれていたのに。そう思って、少しふすまを開けて和室を見る。電気をつけっぱなしで押入れに入ったはずなのに、オレンジ色の豆電球以外消えている。五組の布団が敷いてあって、もうみんな寝ていた。いつの間にか、お父さんも仕事から帰ってきていて、もう寝ている。僕は、空いている自分の寝床に静かに入って、そのまま寝た。すぐに寝られた。
それからというもの、僕が怒られていじけていると、和室の天井の隅にある点検用の板をずらして、女の子は僕を見ているようになった。目が合うといつも手招きをする。僕はいかないようにいていたけれど、ある時僕は押入れから天井裏に入った。お母さんにこっぴどく叱られたからだ。
僕は女の子の前に伏せって、ワナワナ震えて、息を押し殺すように泣くのを我慢していた。もしかしたら泣いてしまった方がよかったのかもしれない。我慢していたせいで、色々と心に刺さっていたものが、僕の心臓をえぐっていったからだ。
女の子が、震える僕の背をさする。そして言った。
「そう、あの女に『もううちの子じゃありません』って言われたの。なんて厚かましいのかしらね。初めから慎吾の母親ではないのにねぇ。
我慢しなくていいのよ。テレビの音で聞こえやしないわ。嗚咽を飲み込んだりしなくていいのよ。咽び泣きなさい」
「あああああああ~」僕は泣いた。着物越しに女の子の暖かくて柔らかい内ももに顔をうずめて。
女の子は、揺れる影が喋るような怪しくも優しい口調で、僕に言った。
「慎吾、お姉ちゃんを助けて。そうすればわたしはこの影ばかりしかない塵の積もった狭くて息も詰まるような天井裏から出られるの。そうしたら、わたしはあなたを守ってあげられるわ。誰よりも大事に誰よりも優しく」
僕は鼻をすすりながら、顔をあげた。女の子はにんまりとほほ笑む。そうしてから、底なし沼のように言った。
「あの人たちを殺してしまうの」
僕はビクッと震えた。
「本当のお父さんとお母さん、おばあちゃんの敵を討つのよ。そして、わたしとあなたの敵を討つの。あの人たちを破滅させてしまいましょう。わたしなら出来る。死んだあの人たちの魂を呪縛して地縛霊にして、永遠に苦しませてあげるわ」
僕は縮こまって言った。
「そんなこと出来ないよ。人殺しなんて犯罪だし」
「あなたがこれまでの十年間で、どんな苦しい思いをしたの? 毎日毎日虐げられてきたでしょう? それに本当の家族の恨みはどう晴らせばいいの? とても苦しめられて死んだのよ」
女の子は、懐中電灯の灯りに揺らめき出された屋根板を見上げて、瞳を漂わせる。震える両手の指を掲げて、続けて言った。
「わたしには分かる。お母さんもお父さんも苦しんでいるわ。ああ、鼓膜を破ってわたしの中に流れ込んでくる。とても苦しい思い。息苦しい。はぁはぁはぁはぁ、息苦しい」
女の子は、急に身を悶えさせて臥せって、小さく丸まった。僕は怖くなって、和室に逃げた。
僕は事あるごとに天井裏に行ったけれど、女の子はその度に、僕に殺人をそそのかす。でもある時、女の子はそそのかさなかった。日曜日のことだ。代わりに本当の家族の話をしてくれた。
その日は、家族みんなで千葉にあるのに東京と名乗る大きな遊園地に遊びに行く予定だった。前日の夜に夜更かしして対空戦車のプラモを作っていた僕は、朝起きられなくて、お父さんにこっぴどくひっぱたかれた。お母さんからは、絞っていないびしょ濡れの手ぬぐいを顔に叩きつけられ、弥紗にお腹を踏まれた。冬で寒いのに布団を剥がされ、無理やりパジャマを脱がされる。
僕はそれに抵抗して、頑なに起きなかった。電車に乗り遅れる、と思って諦めた家族は、僕を見捨てて家を出ていった。僕は本当に捨てられたような気分になって、ぐしゃぐしゃの布団にくるまって泣いた。
しばらくしてお腹が空いた僕は、布団から出た。時計を見るともうすぐ十二時だ。食堂に行って冷蔵庫を開けたけれど、食べられる物は何もない。塊のキャベツやニンジン、生の鶏肉と卵、調味料の瓶が並んでいるだけ。僕は何も食べる気になれなかった。急に空腹が遠くに行ってしまった。代わりに悲しみがやって来た。僕は冷蔵庫を開けたままそこに立ち尽くして泣いた。
冷蔵庫を静かに閉めて、もう一度和室に戻って布団にもぐる。そしてまた泣く。
不意に視線を感じた。僕が布団から目だけを出すと、天井の隅の板をずらして、女の子が目だけをこちらに向けている。にんまりしたと弓なりの目だった。僕と目が合うと、ゆっくりと手を見せて、手招きをした。
つづく
僕が後ろに下がろうとした時、女の子は、右手の人差し指を唇に当てがって、「しー」と息を吐いた。僕は固まった。女の子は怪しげに微笑んで、おいでおいで、と手招きをする。
僕が行かずにいると、女の子はにゅるーと動き出して、トカゲのように這いつくばって蛇がニョロニョロするような動きでこっちに来た。地面(天井の板)、柱、天井(屋根側の板)を伝って来た。そして、僕の鼻に吐息がかかる数ミリくらいの距離に顔を寄せて、鼻と口で同時に息を吸って、僕のにおいを嗅ぎまわる。
「ああ・・・ああ・・・」女の子は声を出した。「このにおい、懐かしいわ」僕の顔を撫でまわす。とても冷たい手だ。「慎吾・・・。慎悟なのね。会いたかったわ」
女の子の声は、少し高くて悲鳴のように聞こえた。そして一音一音ごとに間延びしているようだった。言葉が溶け落ちていくみたい。
僕は、恐る恐る訊いた。
「どうして僕の名前を知っているの? あなたは誰?」
「覚えてないの? そう、覚えていないのね。無理はないわ。仕方がないもの」
女の子は、ねちっこく僕の顔を撫でまわしながら、更に続ける。
「わたしはあなたのお姉ちゃんよ」
僕はびっくりした。
「うそ。僕にはお姉ちゃんなんていないよ」
「いいえ、いるわ。まさに今ここに」
「おかしいよ。どうしてこんなとこに住んでいるの?」
実際住んでいるは分からない。でも、古い割れた食器や、咬み砕かれた何かの骨や肉片が落ちている。だから僕はそう思った。
名前を幸子と名乗った女の子は言う。
「仕方がないの。ここに隠れていなければ、あの人たちに殺されてしまうから」
「あの人たち?」
「あなたが家族だと思い込んでいるあの人たちよ」
言っていることがよく分からない。
女の子は続けて言った。
「わたしたちの家族は殺されたのよ。あの人たちに。あの人たちは、あなたの本当の家族ではないの。騙されているのよ。
あの人たちは、わたしたちの家族を裏切った。本当はわたしたちのお家に仕える従僕なのに」
「信じられない」僕は、女の子の言葉を遮った。
「信じられなくても事実よ」
女の子の話は続いていたけれど、僕は後退りして天井裏に入ってきた穴のところまで戻った。女の子は追いかけてこない。気持ち悪く見えるけれど、喜んでいるように、こちらを見つめ続けながら笑っている。
僕が押入れの中に下りようとした時、女の子がなるべく大きな声を出そうとしたかのようなかすれる小声で「絶対に誰にも言っちゃだめよ。言ったらわたしは殺されてしまうわ」そう念を押した。そして、身をかがめて唇に人差し指をあてがい「しー」と口を鳴らした。
僕は静かに深く頷いて、押入れに下りる。思いのほか布団が下のほうにあって、下りた拍子に僕は舌を嚙みそうになった。さっきまでたくさん積まれていたのに。そう思って、少しふすまを開けて和室を見る。電気をつけっぱなしで押入れに入ったはずなのに、オレンジ色の豆電球以外消えている。五組の布団が敷いてあって、もうみんな寝ていた。いつの間にか、お父さんも仕事から帰ってきていて、もう寝ている。僕は、空いている自分の寝床に静かに入って、そのまま寝た。すぐに寝られた。
それからというもの、僕が怒られていじけていると、和室の天井の隅にある点検用の板をずらして、女の子は僕を見ているようになった。目が合うといつも手招きをする。僕はいかないようにいていたけれど、ある時僕は押入れから天井裏に入った。お母さんにこっぴどく叱られたからだ。
僕は女の子の前に伏せって、ワナワナ震えて、息を押し殺すように泣くのを我慢していた。もしかしたら泣いてしまった方がよかったのかもしれない。我慢していたせいで、色々と心に刺さっていたものが、僕の心臓をえぐっていったからだ。
女の子が、震える僕の背をさする。そして言った。
「そう、あの女に『もううちの子じゃありません』って言われたの。なんて厚かましいのかしらね。初めから慎吾の母親ではないのにねぇ。
我慢しなくていいのよ。テレビの音で聞こえやしないわ。嗚咽を飲み込んだりしなくていいのよ。咽び泣きなさい」
「あああああああ~」僕は泣いた。着物越しに女の子の暖かくて柔らかい内ももに顔をうずめて。
女の子は、揺れる影が喋るような怪しくも優しい口調で、僕に言った。
「慎吾、お姉ちゃんを助けて。そうすればわたしはこの影ばかりしかない塵の積もった狭くて息も詰まるような天井裏から出られるの。そうしたら、わたしはあなたを守ってあげられるわ。誰よりも大事に誰よりも優しく」
僕は鼻をすすりながら、顔をあげた。女の子はにんまりとほほ笑む。そうしてから、底なし沼のように言った。
「あの人たちを殺してしまうの」
僕はビクッと震えた。
「本当のお父さんとお母さん、おばあちゃんの敵を討つのよ。そして、わたしとあなたの敵を討つの。あの人たちを破滅させてしまいましょう。わたしなら出来る。死んだあの人たちの魂を呪縛して地縛霊にして、永遠に苦しませてあげるわ」
僕は縮こまって言った。
「そんなこと出来ないよ。人殺しなんて犯罪だし」
「あなたがこれまでの十年間で、どんな苦しい思いをしたの? 毎日毎日虐げられてきたでしょう? それに本当の家族の恨みはどう晴らせばいいの? とても苦しめられて死んだのよ」
女の子は、懐中電灯の灯りに揺らめき出された屋根板を見上げて、瞳を漂わせる。震える両手の指を掲げて、続けて言った。
「わたしには分かる。お母さんもお父さんも苦しんでいるわ。ああ、鼓膜を破ってわたしの中に流れ込んでくる。とても苦しい思い。息苦しい。はぁはぁはぁはぁ、息苦しい」
女の子は、急に身を悶えさせて臥せって、小さく丸まった。僕は怖くなって、和室に逃げた。
僕は事あるごとに天井裏に行ったけれど、女の子はその度に、僕に殺人をそそのかす。でもある時、女の子はそそのかさなかった。日曜日のことだ。代わりに本当の家族の話をしてくれた。
その日は、家族みんなで千葉にあるのに東京と名乗る大きな遊園地に遊びに行く予定だった。前日の夜に夜更かしして対空戦車のプラモを作っていた僕は、朝起きられなくて、お父さんにこっぴどくひっぱたかれた。お母さんからは、絞っていないびしょ濡れの手ぬぐいを顔に叩きつけられ、弥紗にお腹を踏まれた。冬で寒いのに布団を剥がされ、無理やりパジャマを脱がされる。
僕はそれに抵抗して、頑なに起きなかった。電車に乗り遅れる、と思って諦めた家族は、僕を見捨てて家を出ていった。僕は本当に捨てられたような気分になって、ぐしゃぐしゃの布団にくるまって泣いた。
しばらくしてお腹が空いた僕は、布団から出た。時計を見るともうすぐ十二時だ。食堂に行って冷蔵庫を開けたけれど、食べられる物は何もない。塊のキャベツやニンジン、生の鶏肉と卵、調味料の瓶が並んでいるだけ。僕は何も食べる気になれなかった。急に空腹が遠くに行ってしまった。代わりに悲しみがやって来た。僕は冷蔵庫を開けたままそこに立ち尽くして泣いた。
冷蔵庫を静かに閉めて、もう一度和室に戻って布団にもぐる。そしてまた泣く。
不意に視線を感じた。僕が布団から目だけを出すと、天井の隅の板をずらして、女の子が目だけをこちらに向けている。にんまりしたと弓なりの目だった。僕と目が合うと、ゆっくりと手を見せて、手招きをした。
つづく
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