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シーツの下に蠢く夜話
轢かれた女
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雨の夜の峠を、男が運転する1台の車が走っていた。山1つ越えた町にある大きな病院に身重の妻を診察に連れて行った帰り道、男は妻と2人で、これから生まれる子供に思いをはせていた。
夫は楽しげに言った。
「名前は、男の子だったらやっぱり拓哉、女の子だったら沙紀がいいな」
「そうね、でも1人目は男の子がいいわ」
「まあ、無事に生まれてくれれば、どちらでもいいけれどね」
そんな幸せな時間が、帰宅するまで続くはずだった。
強烈な雨にワイパーは全く役に立たず、雨粒が車体にあたる振動が、社内にまで響く。街灯はあるが1本1本の間隔が長すぎて、夜道は全く見えない。ヘッドライトが無ければ、1m先を視認することさえ困難だ。
不意に、トレンチコートを来た赤いセーターが、ライトに照らされる。夫は急ブレーキを踏むが間に合わない。強い衝撃が車体から身体へと伝わる。
「今、女の人だよな、大変だ、轢いちゃったよ」
震える声でそう言った夫は、オロオロしながらも、救命しなければと、急いで傘をさして車外へと出た。しかし、いくら被害者を探してもどこにもいない。
ヘッドライトの先に真っ暗な車道が伸びていて、真後ろにも反対車線にも轢いてしまった女性はいなかった。
夫は慌てた。
「いない、どこにもいないよ」
しばらく探していた夫が車に戻ってそう言うと、タオルを渡してくれた妻が言った。
「そんなはずないよ、確かに轢いたんだから」
「でも、いくら探しても見当たらないんだよ」
夫は消防に電話をかけようとスマホを取るが、電波が来ていない。
「もし生きてたら、大変よ。もう1度探して来た方がいいよ」
妻に促されてもう一度車外に出る夫であるが、やはり見つからない。
「一度家に帰ろう」夫は運転席のドアを開けて言った。「せめて電波の通じるところまで行って、救急車を呼ばないと、助かる命も助からない」
自宅のある村に走るより、今までいた町に戻る方が近い。どがもう少し進めば、電波の通じるところまで行ける。少しでも早く助けを呼ぶべきだと判断した夫は、エンジンをかけようとした。
シュルルルルル、シュルルルルル、と情けない音を車が発する。
「あれ?・・・あれ?」
「どうしたの?」
「エンジンがかからないんだ」
不安がる妻に夫が言った。
何度も何度も、エンジンをかけようとするが全くかからず、2人は諦めた。仕方がない。ここで一晩過ごすことになった。
「ねえ、起きて、朝、陽が昇ったよ」
妻の声で起こされた夫が時計を見ると、5時前だった。スマホを見るとやはり圏外だ。昨日轢いてしまった女性を探そうと背もたれを元に戻して、夫が声を上げた。そして、慌てて起き上がった妻も叫ばざるをえなかった。
車の前に道が無い。左の車輪は宙に浮いていた。ここは、峠で一番の急カーブの難所だ。あと1m、いや、50cm進んだだけでも、谷底に転落してしまっただろう。
「やだ、どうして? 助けて」妻が慄く。
夫は、すがる妻の肩をさすって落ち着かせてから、外に出てみた。ガードレールが引きちぎられたように破損し、黒く汚れている。崖下を覗き込むと、1台のミニがひっくり返って潰れていた。
夫は、その車を凝視したまま妻に言った。
「車が落ちてる、まだ新しいぞ。ガードレールが千切れて無くなっているのは、あの車が落ちたからだ」
カーブに設置されていた反射板の殆どが、巻き込まれて落ちてしまっていたから、昨日は気が付けなかったのだ。
そう言いながら車内に戻った夫は、何度もエンジンをかけようとする。2人の願いが通じたのか、ようやくバックすることができた。
Uターンして町に下りた夫は、そのまま警察署に乗り付けて交通課のカウンターに走り、事の次第を説明した。その間、妻は消防に電話をかけて、救急車を手配する。
2人が警察と共に現場に到着した時には、既に救急車が到着していた。
調書作成に協力的だった2人の証言をもとに、警察は現場の状況を踏まえて総合的に判断して、過失致死の容疑で夫を逮捕することを2人に伝えた。
後の実況見分や検死の結果によると、夫が女性を轢いた同じ日の少し前の時間に、轢かれた女性も事故を起こしていたようだ。
ガードレールに引っ掛かった車が崖下に落ちる前に、運転していた女が抜け出す。そして、走ってきた車に助けを求めるが、気が付かれることなく轢かれて、がけ下に転落して、死亡したと推測される。
夫の罪は容疑ではなくなり、過失致死で書類送検されることになった。
当時は激しい雷雨であったことと、濃霧であったこと、とても反省していることと、親御さんが、娘は死んだが、それと引き換えに2人が死ななかったことがせめてもの救いだ、と情状酌量を訴えたため、禁固刑は無かった。
刑務所に入らなくていいということになって、2人は安堵したが、事件はそれだけでは終わらなかった。その後、峠の急カーブは、事故の名所と変貌していったのだ。
多発する事故の生存者の話によると、長い黒髪の女を轢いたとか、ボンネットに長い髪の女が落ちてきたとか、事実とは思えない証言ばかりが、まことしやかに囁かれた。
続々と流れる噂を耳にし続けて恐ろしくなった夫婦は、ついに生れた村を捨てて引っ越した。しかし、引っ越した直後、新しい自宅の前で事件が起こった。夫が運転する車で、3歳の娘を轢いてしまったのだ。
取り乱しながらも、なんとか救急車を呼んでいたちょうどその頃、大きく膨れたお腹をさすりながら生まれてくる我が子に思いをはせて、病院からの帰り道を歩いていた妻が急に産気づいて歩道にうずくまった。
「危ない!!」
「みんな!!」
「きゃー!!」
苦しみに耐える妻が、聞こえてきた叫び声に顔をあげると、逆走してくる暴走車が視野を埋め尽くす。
「轢かれた!妊婦が轢かれたぞ」
慌てて駆け寄って来た人々が見ると、流れる血とは別に、道路が水でぬれていく。明らかに破水していた。
娘の息は無い。夫は、自らが弾き殺した娘を抱きかかえながら、泣きわめく夫のもとに1本の電話が入った。
夫は愕然とした。
「そんな! まさか妻まで!?」
妻が交通事故にあって危篤だという知らせを受けた夫は、搬送される娘を見守っている最中にやってきた警察の求めに応じず、車に乗り込んで逃走を図った。
夫は恐怖で我を忘れていた。全身から汗が吹き出る。ハンドルを握る手が滑るほどに。
「復讐だ! あの人の亡霊が復讐に来たんだ!!」
あの時の事故でひき殺した女性を思い出した夫は、サイレンを鳴らして追跡してくるパトカーを何とか振り切りながら、県境を目指して走り続けた。あの峠へ行くためだ。
夫婦は、書類送検された後に献花に訪れて以来、あの峠に入っていなかった。事故とはいえ人を殺したことを思い出したくなかったからだ。
急いで車を降りた男は、土下座して何度も謝り、あなたのおかげで助かった、と感謝を叫び続けて妻と娘とお腹の子供を助けてくれるように懇願した。警察に取り押さえられてなお、謝罪と懇願を繰り返す。
呼吸停止していた娘は、病院に急ぐ救急車の中で、消防隊員の心臓マッサージと電気ショックによる蘇生術によって、息を吹き返していた。
同じ時間、別の救急車で運ばれる妻が生んだ子供は死産だったが、病院につくと息をし始めた。妻も一命を取り留め、3人ともなんとかなりそうだ。
同じ病院に入院した3人は、結局すぐに退院できる程度の軽症だった。
夫婦は、時がたつにつれて、やはり轢いてしまったあの女性のことは口にしなくなった。
もう一度手を合わせに行った後、4人でお祓いをしてお終いにしたのだ。
あの事故以来、家族には何事もない。2人の娘が成長するにつれて、その顔が双子を妊娠した報告をするために里帰りする途中でひき殺された女の顔に似ていったこと以外は。
夫は楽しげに言った。
「名前は、男の子だったらやっぱり拓哉、女の子だったら沙紀がいいな」
「そうね、でも1人目は男の子がいいわ」
「まあ、無事に生まれてくれれば、どちらでもいいけれどね」
そんな幸せな時間が、帰宅するまで続くはずだった。
強烈な雨にワイパーは全く役に立たず、雨粒が車体にあたる振動が、社内にまで響く。街灯はあるが1本1本の間隔が長すぎて、夜道は全く見えない。ヘッドライトが無ければ、1m先を視認することさえ困難だ。
不意に、トレンチコートを来た赤いセーターが、ライトに照らされる。夫は急ブレーキを踏むが間に合わない。強い衝撃が車体から身体へと伝わる。
「今、女の人だよな、大変だ、轢いちゃったよ」
震える声でそう言った夫は、オロオロしながらも、救命しなければと、急いで傘をさして車外へと出た。しかし、いくら被害者を探してもどこにもいない。
ヘッドライトの先に真っ暗な車道が伸びていて、真後ろにも反対車線にも轢いてしまった女性はいなかった。
夫は慌てた。
「いない、どこにもいないよ」
しばらく探していた夫が車に戻ってそう言うと、タオルを渡してくれた妻が言った。
「そんなはずないよ、確かに轢いたんだから」
「でも、いくら探しても見当たらないんだよ」
夫は消防に電話をかけようとスマホを取るが、電波が来ていない。
「もし生きてたら、大変よ。もう1度探して来た方がいいよ」
妻に促されてもう一度車外に出る夫であるが、やはり見つからない。
「一度家に帰ろう」夫は運転席のドアを開けて言った。「せめて電波の通じるところまで行って、救急車を呼ばないと、助かる命も助からない」
自宅のある村に走るより、今までいた町に戻る方が近い。どがもう少し進めば、電波の通じるところまで行ける。少しでも早く助けを呼ぶべきだと判断した夫は、エンジンをかけようとした。
シュルルルルル、シュルルルルル、と情けない音を車が発する。
「あれ?・・・あれ?」
「どうしたの?」
「エンジンがかからないんだ」
不安がる妻に夫が言った。
何度も何度も、エンジンをかけようとするが全くかからず、2人は諦めた。仕方がない。ここで一晩過ごすことになった。
「ねえ、起きて、朝、陽が昇ったよ」
妻の声で起こされた夫が時計を見ると、5時前だった。スマホを見るとやはり圏外だ。昨日轢いてしまった女性を探そうと背もたれを元に戻して、夫が声を上げた。そして、慌てて起き上がった妻も叫ばざるをえなかった。
車の前に道が無い。左の車輪は宙に浮いていた。ここは、峠で一番の急カーブの難所だ。あと1m、いや、50cm進んだだけでも、谷底に転落してしまっただろう。
「やだ、どうして? 助けて」妻が慄く。
夫は、すがる妻の肩をさすって落ち着かせてから、外に出てみた。ガードレールが引きちぎられたように破損し、黒く汚れている。崖下を覗き込むと、1台のミニがひっくり返って潰れていた。
夫は、その車を凝視したまま妻に言った。
「車が落ちてる、まだ新しいぞ。ガードレールが千切れて無くなっているのは、あの車が落ちたからだ」
カーブに設置されていた反射板の殆どが、巻き込まれて落ちてしまっていたから、昨日は気が付けなかったのだ。
そう言いながら車内に戻った夫は、何度もエンジンをかけようとする。2人の願いが通じたのか、ようやくバックすることができた。
Uターンして町に下りた夫は、そのまま警察署に乗り付けて交通課のカウンターに走り、事の次第を説明した。その間、妻は消防に電話をかけて、救急車を手配する。
2人が警察と共に現場に到着した時には、既に救急車が到着していた。
調書作成に協力的だった2人の証言をもとに、警察は現場の状況を踏まえて総合的に判断して、過失致死の容疑で夫を逮捕することを2人に伝えた。
後の実況見分や検死の結果によると、夫が女性を轢いた同じ日の少し前の時間に、轢かれた女性も事故を起こしていたようだ。
ガードレールに引っ掛かった車が崖下に落ちる前に、運転していた女が抜け出す。そして、走ってきた車に助けを求めるが、気が付かれることなく轢かれて、がけ下に転落して、死亡したと推測される。
夫の罪は容疑ではなくなり、過失致死で書類送検されることになった。
当時は激しい雷雨であったことと、濃霧であったこと、とても反省していることと、親御さんが、娘は死んだが、それと引き換えに2人が死ななかったことがせめてもの救いだ、と情状酌量を訴えたため、禁固刑は無かった。
刑務所に入らなくていいということになって、2人は安堵したが、事件はそれだけでは終わらなかった。その後、峠の急カーブは、事故の名所と変貌していったのだ。
多発する事故の生存者の話によると、長い黒髪の女を轢いたとか、ボンネットに長い髪の女が落ちてきたとか、事実とは思えない証言ばかりが、まことしやかに囁かれた。
続々と流れる噂を耳にし続けて恐ろしくなった夫婦は、ついに生れた村を捨てて引っ越した。しかし、引っ越した直後、新しい自宅の前で事件が起こった。夫が運転する車で、3歳の娘を轢いてしまったのだ。
取り乱しながらも、なんとか救急車を呼んでいたちょうどその頃、大きく膨れたお腹をさすりながら生まれてくる我が子に思いをはせて、病院からの帰り道を歩いていた妻が急に産気づいて歩道にうずくまった。
「危ない!!」
「みんな!!」
「きゃー!!」
苦しみに耐える妻が、聞こえてきた叫び声に顔をあげると、逆走してくる暴走車が視野を埋め尽くす。
「轢かれた!妊婦が轢かれたぞ」
慌てて駆け寄って来た人々が見ると、流れる血とは別に、道路が水でぬれていく。明らかに破水していた。
娘の息は無い。夫は、自らが弾き殺した娘を抱きかかえながら、泣きわめく夫のもとに1本の電話が入った。
夫は愕然とした。
「そんな! まさか妻まで!?」
妻が交通事故にあって危篤だという知らせを受けた夫は、搬送される娘を見守っている最中にやってきた警察の求めに応じず、車に乗り込んで逃走を図った。
夫は恐怖で我を忘れていた。全身から汗が吹き出る。ハンドルを握る手が滑るほどに。
「復讐だ! あの人の亡霊が復讐に来たんだ!!」
あの時の事故でひき殺した女性を思い出した夫は、サイレンを鳴らして追跡してくるパトカーを何とか振り切りながら、県境を目指して走り続けた。あの峠へ行くためだ。
夫婦は、書類送検された後に献花に訪れて以来、あの峠に入っていなかった。事故とはいえ人を殺したことを思い出したくなかったからだ。
急いで車を降りた男は、土下座して何度も謝り、あなたのおかげで助かった、と感謝を叫び続けて妻と娘とお腹の子供を助けてくれるように懇願した。警察に取り押さえられてなお、謝罪と懇願を繰り返す。
呼吸停止していた娘は、病院に急ぐ救急車の中で、消防隊員の心臓マッサージと電気ショックによる蘇生術によって、息を吹き返していた。
同じ時間、別の救急車で運ばれる妻が生んだ子供は死産だったが、病院につくと息をし始めた。妻も一命を取り留め、3人ともなんとかなりそうだ。
同じ病院に入院した3人は、結局すぐに退院できる程度の軽症だった。
夫婦は、時がたつにつれて、やはり轢いてしまったあの女性のことは口にしなくなった。
もう一度手を合わせに行った後、4人でお祓いをしてお終いにしたのだ。
あの事故以来、家族には何事もない。2人の娘が成長するにつれて、その顔が双子を妊娠した報告をするために里帰りする途中でひき殺された女の顔に似ていったこと以外は。
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