Perfume

緒方宗谷

文字の大きさ
上 下
32 / 40

王手

しおりを挟む
 真一が正雄の手紙を見た時、本来なら家にいるはずのみのるは、だいぶ前から帰っていなかった。居場所は分かっている。陽子の家から帰ってこないのだ。
 もともと、それを望んでいた部分もあるのだが、実際にいなくなってしまうと、とてつもない寂しさに襲われる。
 思い返してみると、茨城に帰ってきてから、家に誰もいない事なんて無かった。結婚時代は常に妻がいたし、離婚後もみのるがいた。最近は早苗がいたから、いつも家庭は明るかった。
 家に誰もいないという事がこんなにも寂しい事なのか。玄関を開けると、しんと静まり返った我が家に、誰の気配も感じられない。真っ暗な部屋は、まるで幽霊屋敷の様だ。
 この期に及んで、急に後悔の念がこみ上げてくる。スーツのままソファに座った真一は、電気もつけない部屋で1人すすり泣いていた。
 どれだけの時間が経ったのかと思えば、まだ9時だ。いつの間にか泣き疲れて眠ってしまっていた真一が立ち上がると、チャイムが鳴った。みのるが帰ってきたのかと思ってドアを開けると、そこには聖子がいた。
 真一にとって、抱きしめる聖子の存在がどれほどに有り難かった事か。この様なつらく悲しい孤独の中にいた彼にとって、聖子はまさに救いの女神の様だ。偶然とはいえ、真一は、来てくれた彼女に心から感謝をした。
 しかし、実際は偶然などではない。聖子は計算ずくでここにいるのだ。ここ暫く、聖子は、真一に自分を抱かせはしなかった。彼が求めてきても、受け入れる素振りを見せつつも、最終的には何かしらの理由をつけて、ホテルには行かない。
 わがままを言う子供をあやすようにキスをしてあげて、腕を絡ませ胸を押し当て、見つめ上げる。自らの価値を高めるだけ高めてから、残っていた有給休暇を使って、真一の前からも姿を消した。
 「聖子、どうしてここに?」
 「真一さん、とても悲しそう。
  そうよね、分かるわ、だって1人なのでしょう?この暗くて静かな部屋を見れば、分かるわ」
 この家の主人に招き入れられるのは初めてであったが、聖子は全ての間取りを知っていた。
 「すぐにシャワーを浴びてくるね、私が何もかも忘れさせてあげるから」
 脱衣所に入った聖子の目に、3本の歯ブラシがとまった。何の躊躇もせず、水色とピンクグレープ色の2本をゴミ箱に捨てる。
 (ようやくだわ、長かったけど、真一さんが遂に私だけのものになるのね。
  緊張するわ、何度も抱かれていると言うのに、初めて抱かれるみたい。
  そうよ、私は処女なのよ、あいつに奪われたのなんて、初めてじゃないわ)
 聖子は、17歳の自分を思い出してワナワナと震えながら、ユニットバスの白い壁を睨みつける。
 父親は家庭を顧みる人ではなかった。いつも母親は泣いていて、お酒の入ったガラスのコップを投げつけられていた。
 大抵、幼い聖子は寝ている時間であったが、父親の上げる罵声に目を覚まして、襖を開けて繰り広げられる暴力を見ていた。
 リビングに聖子がいる時でも、父親は口を塞がなかったし、手も止めない。母親は、慌てて娘を別の部屋に避難させる。逃げる小さな背中にピシャリという乾いた音が響く。
 初めの内は怖くて泣いていた聖子であったが、慣れてくると、真っ暗な部屋で体育座りをして、静かになるのを待った。あの時代の最後の方は、少し襖を開けて、平手で打たれる母を見るようになった。
 ある日、聖子はある決意をして、押入れの下の段に入っていた遠足用のリュックを出して、服を詰めた。冷蔵庫にあったソーセージと、菓子パンを一緒にいれる。水筒を思い出して、急いでジュースを入れて畳の部屋に戻った。
 父親は夜まで帰ってこない。聖子は、買い物に出かけた母親をひたすら待ち続けた。いつも通りなら、2、30分もすれば、スーパーから帰ってくるはずだ。
 もう、こんな生活は終わる。お母さんと2人で生活しよう。お父さんがいなければ、お母さんは幸せになれるのだから。聖子は期待に胸を躍らせながら、にっこりとほほ笑んだ。しかし、母親は2度と帰っては来なかった。
 父子家庭になって、父親は暴力を振るわなくなったが、聖子にとって辛い日々だ。ひどい仕打ちを受けるお母さんを見て小さな胸を痛め、ようやく救われる方法を思いついたと思った矢先、その大好きな母親に捨てられたのだ。
 聖子は、過去1度も父親に殴られた事は無かったが、反抗すれば殴られるのではないかという恐怖が常に付きまとう。目の前で食事をする暴君の一挙手一投足を窺う生活に、心は殻を纏うようになった。
 2人になって8年、ちゃんとした会話は一度もない。向こうから話しかけてくる事はあるが、長くは続かなかった。
 あと少ししたら高校を卒業する。大学生になって一人暮らしをすれば、あの男から解放される。そう思うと、毎日カレンダーを見るのが楽しい。まだ1年以上あるが、解放までのカウントダウンは、着実に数えられている。
 いつか私の家族を作りたい。それが聖子の夢だ。物心ついた時から、家庭は無いに等しかった。唯一の家族だと思っていた母親も、自分を愛してはくれなかった。表面的には、父と2人家族なのだが、聖子はこの男を家族と認識していない。
 両親と仲良く歩く子供の姿を見る度に、自分の憧れを重ねて見つめた。自分は絶対に幸せになってみせる。ここから羽ばたき出しさえすれば、幸せになれると信じていた。
 だが、この男は、またも聖子から幸せを奪い去った。何故この男は、ささやかな幸せの夢を見る事さえ許さないのか。
 真夜中、人の気配を感じた聖子が目を覚ますと、ベッドの脇に父が座っていた。初めは抵抗したのだが、振り上げる拳を見て打ち叩かれる母を思い出し、硬直してしまった。数日おきに、この悪夢は1,2時間続いた。
 父は、聖子が東京の大学に行くことを許さなかった。理由は明白だ。この体を手放したくないのだ。
 聖子は狂乱した。言葉にならない叫び声をあげて、部屋中のありとあらゆる物をぶちまけて回った。
 「どうして!?どうして私をこんなにも不幸にするの?私は何も悪いことしてないのに!!
  お母さんを奪って!私まで奪って!私お父さんの奴隷じゃないのよ!もう解放して!!」
 「何を言っているんだ!お前は一生俺といるんだ!一人暮らしなんて許さないぞ」
 部屋中をうろつき回って行われる怒鳴り声が、近所まで響く。聖子は絶望のどん底にいた。この男がいる限り、私は幸せになれない。もう死ぬしかないとまで思いつめた。
 「!?」
 視界の端に入ったシンクの中に、鈍く光る鋭い物がある。
 (そうだ!お父さんさえ、お父さんさえ殺せば、私は幸せになれる!!)
 「待て、聖子、何を考えているんだ!」
 「死んで!死んでよ!お願いだから死んでよ!!」
 「やめろ!!」
 女の力では男に敵わない。だが、必死で食い掛かる聖子の体重を押しかえるだけの力は、この男には無かった。互いの怒声が響く中、玄関扉が激しく打ち鳴らされる。
 「どうしたんですか?西條さん!?開けて!ちょっと開けてくださーい!」
 「助けてくれー!」
 聖子が真一に魅かれ始めた当初、妻と別れた原因は知らなかった。だが、真一は、聖子にとって理想の父親像そのものだった。たまたま街で見かけた親子の姿は、とても深い愛情で結ばれている様であった。
 この人なら、私を幸せにしてくれる。私が欲しかった家庭を作ってくれる。聖子はそう確信した。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

量子幽霊の密室:五感操作トリックと魂の転写

葉羽
ミステリー
幼馴染の彩由美と共に平凡な高校生活を送る天才高校生、神藤葉羽。ある日、町外れの幽霊屋敷で起きた不可能殺人事件に巻き込まれる。密室状態の自室で発見された屋敷の主。屋敷全体、そして敷地全体という三重の密室。警察も匙を投げる中、葉羽は鋭い洞察力と論理的思考で事件の真相に迫る。だが、屋敷に隠された恐ろしい秘密と、五感を操る悪魔のトリックが、葉羽と彩由美を想像を絶する恐怖へと陥れる。量子力学の闇に潜む真犯人の正体とは?そして、幽霊屋敷に響く謎の声の正体は?すべての謎が解き明かされる時、驚愕の真実が二人を待ち受ける。

母からの電話

naomikoryo
ミステリー
東京の静かな夜、30歳の男性ヒロシは、突然亡き母からの電話を受け取る。 母は数年前に他界したはずなのに、その声ははっきりとスマートフォンから聞こえてきた。 最初は信じられないヒロシだが、母の声が語る言葉には深い意味があり、彼は次第にその真実に引き寄せられていく。 母が命を懸けて守ろうとしていた秘密、そしてヒロシが知らなかった母の仕事。 それを追い求める中で、彼は恐ろしい陰謀と向き合わなければならない。 彼の未来を決定づける「最後の電話」に込められた母の思いとは一体何なのか? 真実と向き合うため、ヒロシはどんな犠牲を払う覚悟を決めるのか。 最後の母の電話と、選択の連続が織り成すサスペンスフルな物語。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

真夏の温泉物語

矢木羽研
青春
山奥の温泉にのんびり浸かっていた俺の前に現れた謎の少女は何者……?ちょっとエッチ(R15)で切ない、真夏の白昼夢。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

没入劇場の悪夢:天才高校生が挑む最恐の密室殺人トリック

葉羽
ミステリー
演劇界の巨匠が仕掛ける、観客没入型の新作公演。だが、幕開け直前に主宰は地下密室で惨殺された。完璧な密室、奇妙な遺体、そして出演者たちの不可解な証言。現場に居合わせた天才高校生・神藤葉羽は、迷宮のような劇場に潜む戦慄の真実へと挑む。錯覚と現実が交錯する悪夢の舞台で、葉羽は観客を欺く究極の殺人トリックを暴けるのか? 幼馴染・望月彩由美との淡い恋心を胸に秘め、葉羽は劇場に潜む「何か」に立ち向かう。だが、それは想像を絶する恐怖の幕開けだった…。

パラダイス・ロスト

真波馨
ミステリー
架空都市K県でスーツケースに詰められた男の遺体が発見される。殺された男は、県警公安課のエスだった――K県警公安第三課に所属する公安警察官・新宮時也を主人公とした警察小説の第一作目。 ※旧作『パラダイス・ロスト』を加筆修正した作品です。大幅な内容の変更はなく、一部設定が変更されています。旧作版は〈小説家になろう〉〈カクヨム〉にのみ掲載しています。

無限の迷路

葉羽
ミステリー
豪華なパーティーが開催された大邸宅で、一人の招待客が密室の中で死亡して発見される。部屋は内側から完全に施錠されており、窓も塞がれている。調査を進める中、次々と現れる証拠品や証言が事件をますます複雑にしていく。

処理中です...