Perfume

緒方宗谷

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王手

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 真一が正雄の手紙を見た時、本来なら家にいるはずのみのるは、だいぶ前から帰っていなかった。居場所は分かっている。陽子の家から帰ってこないのだ。
 もともと、それを望んでいた部分もあるのだが、実際にいなくなってしまうと、とてつもない寂しさに襲われる。
 思い返してみると、茨城に帰ってきてから、家に誰もいない事なんて無かった。結婚時代は常に妻がいたし、離婚後もみのるがいた。最近は早苗がいたから、いつも家庭は明るかった。
 家に誰もいないという事がこんなにも寂しい事なのか。玄関を開けると、しんと静まり返った我が家に、誰の気配も感じられない。真っ暗な部屋は、まるで幽霊屋敷の様だ。
 この期に及んで、急に後悔の念がこみ上げてくる。スーツのままソファに座った真一は、電気もつけない部屋で1人すすり泣いていた。
 どれだけの時間が経ったのかと思えば、まだ9時だ。いつの間にか泣き疲れて眠ってしまっていた真一が立ち上がると、チャイムが鳴った。みのるが帰ってきたのかと思ってドアを開けると、そこには聖子がいた。
 真一にとって、抱きしめる聖子の存在がどれほどに有り難かった事か。この様なつらく悲しい孤独の中にいた彼にとって、聖子はまさに救いの女神の様だ。偶然とはいえ、真一は、来てくれた彼女に心から感謝をした。
 しかし、実際は偶然などではない。聖子は計算ずくでここにいるのだ。ここ暫く、聖子は、真一に自分を抱かせはしなかった。彼が求めてきても、受け入れる素振りを見せつつも、最終的には何かしらの理由をつけて、ホテルには行かない。
 わがままを言う子供をあやすようにキスをしてあげて、腕を絡ませ胸を押し当て、見つめ上げる。自らの価値を高めるだけ高めてから、残っていた有給休暇を使って、真一の前からも姿を消した。
 「聖子、どうしてここに?」
 「真一さん、とても悲しそう。
  そうよね、分かるわ、だって1人なのでしょう?この暗くて静かな部屋を見れば、分かるわ」
 この家の主人に招き入れられるのは初めてであったが、聖子は全ての間取りを知っていた。
 「すぐにシャワーを浴びてくるね、私が何もかも忘れさせてあげるから」
 脱衣所に入った聖子の目に、3本の歯ブラシがとまった。何の躊躇もせず、水色とピンクグレープ色の2本をゴミ箱に捨てる。
 (ようやくだわ、長かったけど、真一さんが遂に私だけのものになるのね。
  緊張するわ、何度も抱かれていると言うのに、初めて抱かれるみたい。
  そうよ、私は処女なのよ、あいつに奪われたのなんて、初めてじゃないわ)
 聖子は、17歳の自分を思い出してワナワナと震えながら、ユニットバスの白い壁を睨みつける。
 父親は家庭を顧みる人ではなかった。いつも母親は泣いていて、お酒の入ったガラスのコップを投げつけられていた。
 大抵、幼い聖子は寝ている時間であったが、父親の上げる罵声に目を覚まして、襖を開けて繰り広げられる暴力を見ていた。
 リビングに聖子がいる時でも、父親は口を塞がなかったし、手も止めない。母親は、慌てて娘を別の部屋に避難させる。逃げる小さな背中にピシャリという乾いた音が響く。
 初めの内は怖くて泣いていた聖子であったが、慣れてくると、真っ暗な部屋で体育座りをして、静かになるのを待った。あの時代の最後の方は、少し襖を開けて、平手で打たれる母を見るようになった。
 ある日、聖子はある決意をして、押入れの下の段に入っていた遠足用のリュックを出して、服を詰めた。冷蔵庫にあったソーセージと、菓子パンを一緒にいれる。水筒を思い出して、急いでジュースを入れて畳の部屋に戻った。
 父親は夜まで帰ってこない。聖子は、買い物に出かけた母親をひたすら待ち続けた。いつも通りなら、2、30分もすれば、スーパーから帰ってくるはずだ。
 もう、こんな生活は終わる。お母さんと2人で生活しよう。お父さんがいなければ、お母さんは幸せになれるのだから。聖子は期待に胸を躍らせながら、にっこりとほほ笑んだ。しかし、母親は2度と帰っては来なかった。
 父子家庭になって、父親は暴力を振るわなくなったが、聖子にとって辛い日々だ。ひどい仕打ちを受けるお母さんを見て小さな胸を痛め、ようやく救われる方法を思いついたと思った矢先、その大好きな母親に捨てられたのだ。
 聖子は、過去1度も父親に殴られた事は無かったが、反抗すれば殴られるのではないかという恐怖が常に付きまとう。目の前で食事をする暴君の一挙手一投足を窺う生活に、心は殻を纏うようになった。
 2人になって8年、ちゃんとした会話は一度もない。向こうから話しかけてくる事はあるが、長くは続かなかった。
 あと少ししたら高校を卒業する。大学生になって一人暮らしをすれば、あの男から解放される。そう思うと、毎日カレンダーを見るのが楽しい。まだ1年以上あるが、解放までのカウントダウンは、着実に数えられている。
 いつか私の家族を作りたい。それが聖子の夢だ。物心ついた時から、家庭は無いに等しかった。唯一の家族だと思っていた母親も、自分を愛してはくれなかった。表面的には、父と2人家族なのだが、聖子はこの男を家族と認識していない。
 両親と仲良く歩く子供の姿を見る度に、自分の憧れを重ねて見つめた。自分は絶対に幸せになってみせる。ここから羽ばたき出しさえすれば、幸せになれると信じていた。
 だが、この男は、またも聖子から幸せを奪い去った。何故この男は、ささやかな幸せの夢を見る事さえ許さないのか。
 真夜中、人の気配を感じた聖子が目を覚ますと、ベッドの脇に父が座っていた。初めは抵抗したのだが、振り上げる拳を見て打ち叩かれる母を思い出し、硬直してしまった。数日おきに、この悪夢は1,2時間続いた。
 父は、聖子が東京の大学に行くことを許さなかった。理由は明白だ。この体を手放したくないのだ。
 聖子は狂乱した。言葉にならない叫び声をあげて、部屋中のありとあらゆる物をぶちまけて回った。
 「どうして!?どうして私をこんなにも不幸にするの?私は何も悪いことしてないのに!!
  お母さんを奪って!私まで奪って!私お父さんの奴隷じゃないのよ!もう解放して!!」
 「何を言っているんだ!お前は一生俺といるんだ!一人暮らしなんて許さないぞ」
 部屋中をうろつき回って行われる怒鳴り声が、近所まで響く。聖子は絶望のどん底にいた。この男がいる限り、私は幸せになれない。もう死ぬしかないとまで思いつめた。
 「!?」
 視界の端に入ったシンクの中に、鈍く光る鋭い物がある。
 (そうだ!お父さんさえ、お父さんさえ殺せば、私は幸せになれる!!)
 「待て、聖子、何を考えているんだ!」
 「死んで!死んでよ!お願いだから死んでよ!!」
 「やめろ!!」
 女の力では男に敵わない。だが、必死で食い掛かる聖子の体重を押しかえるだけの力は、この男には無かった。互いの怒声が響く中、玄関扉が激しく打ち鳴らされる。
 「どうしたんですか?西條さん!?開けて!ちょっと開けてくださーい!」
 「助けてくれー!」
 聖子が真一に魅かれ始めた当初、妻と別れた原因は知らなかった。だが、真一は、聖子にとって理想の父親像そのものだった。たまたま街で見かけた親子の姿は、とても深い愛情で結ばれている様であった。
 この人なら、私を幸せにしてくれる。私が欲しかった家庭を作ってくれる。聖子はそう確信した。

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