Perfume

緒方宗谷

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敗走

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 教室の後ろには、授業を受ける子供達を微笑ましく見つめる母親達の姿があった。授業参観日だ。この日ばかりは、いつもおしゃべりばかりしている生徒も、静かに授業をうけていた。
 仕事で真一が来られない事は事前に知っていたが、クラスメートの親達が来る中で自分の親が来ないのは、やはり寂しい。
 みのるはいつも1人でいる事が多かったが、孤独に感じた事は無かった。だが、こういう環境下では、否応無しに孤独を感じざるを得ない。授業も上の空で寂しさに浸っていた。
 だが、孤独感など一瞬で消し飛んでしまうほどの事態が起こった。あの香水の香りが鼻腔を愛撫する。
 (ばれてたんだ!やっぱりばれてたんだ!!
  殺されるかもしれない、あんなとこ撮影したんだから)
 みのるはガタガタを震え出した。もしかしたら、同じ香水をつけた別の女性かもしれないが、確認する勇気が無い。恐ろしくて恐ろしくて、後ろを振り返る事が出来ないのだ。
 「すっげー美人がいるぞ、誰のお母さん?」
 遠くから男子の声が聞こえ、それに呼応するように、感嘆の言葉がヒソヒソと聞こえる。
 今までの授業参観で、この様な会話が生徒から出る事は無かった。共働きの家庭でも、大抵の母親は仕事を休んで子供の学ぶ姿を見に来ているから、生徒達は親たちの顔を知っている。だから、後ろにいる美人は今日初めて教室に入った事が窺えた。
 だんだんと教室がざわめきだす。女子から見てもとても綺麗な女性に見えるらしく、憧れの眼差しで後ろを見やる。
 電車の中で見た香水の女は、確かに大変な美人だった。大人の女性の平均よりも背は高く、手足もすらっと長い。女性らしい柔らかな起伏は、服の上からでも男性を魅了し、自ら悩殺されるべく、焼き殺されると分かっていながら青い光に引き寄せられる蛾の様に、声をかけずにはいられない。
 まだ第二次成長の始まっていないみのるでさえ、淡い性感が身に起こったほどだ。
 白く清楚なワイシャツを着て、膝丈のスカートを穿いている。ジャケットは手に持っていたから、胸から腰へのラインが鮮明に浮き出て、傍にいた父兄の目をくぎ付けにした。
 別にいやらしい服装であったわけではない。他の母親同様、晴れの舞台にも相応しいちゃんとした格好で、色気を醸し出すような要素のない正装だ。
 しかし、少し子供の可愛さを残した色艶ある顔立ちに、並の日本人女性と比べて豊満な胸と、それに反して無駄のないくびれに、男は魅了された。
 この教室の中で唯一彼女を見なかったのは、みのるだけだ。みんなの目には、女神のように美しい存在に映った事だろうが、彼には、自分の命を刈り取りに来た死神か女悪魔の様に感じられた。
 早苗が井上宅を訪れなくなってから少しして、みのるはまた学校に行かなくなった。
 そして、再び、正雄から手紙が届いた。


 こんにちは、真一。

 先日お手紙を渡してから日が経ちますが、みのるの様子はどうですか?センターの方から真一宛てにお手紙がありましたが、もうたくさん職員の方とお話をしたでしょう。
 センターの手紙を届けたのは、ちょうど小学校の先生と話をしに、真一が学校を訪れた後でしたから、少し疲れてしまったのではないかと思い、時間を空けて手紙を書きました。
 お母さんの話では、あれから度々センターの方とお会いして、相談に乗ってもらっているようですね。ですが、全く学校に行かなくなってから、だいぶ経ちます。
 僕が、みのるの今後について心配している事やどうすれば良いと思っているかは、この間の手紙のとおりですが、真一自身はみのるにどのように生活してほしい、どのように成長してほしいと思っていますか?
 お母さんも心配しているので、何か計画があるのでしたら、教えてください。
 みのるは、今ちょうど色々経験して、色々吸収して、色々な才能を伸ばしていく大事な時です。
 今なにも経験しないという空白が、将来のみのるの実力にぽっかりと穴を空けてしまうかもしれません。僕は、みのるの豊かな心を養う機会が日々失われてしまっていることが心配です。
 些細な体験だとしても、今のみのるには大事な体験となるかもしれませんし、逆に今まさに体験しているひきこもった状況が、みのるには経験しなければよかった経験になるかもしれません。
 実は先日、応接間にあった50インチのテレビを捨てようと、自らの手で分解を始めました。思いのほか簡単に分解することができ、作業が進むにつれ楽しさを覚えるほどです。
 そんな中、みのるには色々な経験が必要だという思いを新たにする出来事を思い出したのです。
 50インチのテレビを分解する。本当にこの大きなテレビを分解することが簡単なことなのでしょうか。
 ほとんどの人は「無理だ」「できないよ」などと思うでしょう。中には思いもよらないし、ましてや実行しようともしないのでしょうし、分解を思いつきもしないのではないでしょうか。
 僕は不可能だとは思いませんでした。
 まだ実行する前から、すでに分解し終わったところを思い描いていましたし、できないなどという考えは微塵もありませんでした。
 というのも、僕は学校の授業で廃車予定の払い下げられた米軍の車両を分解するという経験をしていたからです。
 油まみれになりながらタイヤを外し、配管を外しました。普段は見ることのない角度から車を見、車の下に潜り込んで分解を進めました。
 特殊な工具がなかったので、完全に分解することはできませんでしたが、それでも学生が経験することのない面白い経験をしたと思います。
 車を分解したという経験があるからこそ、テレビごとき分解できないなんて思わなかったのです。
 真一にとってはどうでもいい体験談かもしれませんが、重要なことです。
 こういう成功体験の積み重ねが自信になり、行動につながるのです。失敗しても大変でも続ける原動力になるのです。
 経験したその時は何ともなくても、何年何十年してから発現する経験もあります。何も関係ないように見えても、振り返って考えてみると、あの経験があったから目標が達成できたのだと思えることもあります。
 僕が車の分解から得た教訓は、どんな大きなものでも一つ一つバラバラにすることで、小さくすることができるということです。最終的に粗大ごみシールを貼る部分は、大変小さくなりました。
 子育てとは大変で大きく長い大事業だと思います。みのるにとっても人生とは、大変で大きく長い大事業です。
 ですが、その大事業も細分化して、その時々の実力で処理できる範囲にまで小さくすれば、一つ一つを処理するたびに成長していき、子育て或いは人生の目標を成し遂げることができるのです。
 まずは、みのるに健全な生活環境を与えることから始めましょう。そうすれば、水を得た魚のように、すくすくと立派な青年に成長していくのではないでしょうか。

正雄



 真一にとっても、みのるにとっても、この手紙は何の意味もなさなかった。

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