Perfume

緒方宗谷

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 「なんか、嫌になっちゃうよね、本当信じられないわ。
  子供を通して人の男に手を出すの、止めてくんないかしら。
  少し可愛い顔した位が、一番勘違いするのよね、世間的には大して可愛いわけでも無いのに、勘違いしちゃって。
  そういえば、本当酷い香水つけてるのよ、フランス語で『愛を語らう』ですって?あんたが何語るのって感じ。
  もともと大した香水でもないのに、彼女がつける事で、更にランクを下げたわね」
 常陸太田市に向かう電車の中で、信じられないほど大きな声で電話をする女がいた。周りの乗客達は、不機嫌そうに彼女を見やるがどこ吹く風、これ見よがしに顔をしかめる男の表情を見ても、この女は通話を止めない。
 そのすぐ前の吊り革を掴んでいる早苗とは数十cmの距離しかなかったから、この車両で一番難儀しているのは彼女だろう。
 ここ最近、早苗は度々この乗客と鉢合わせしていた。
 「こないだも、私が彼にあげた珍しいレトルトのカレーを食べさせてもらって、文句言っていたの、ショック―。
  そう、高級なカレーはお口に合わないんじゃないかしら」
 早苗が彼女を見やると、それに気が付いたのかキッと睨み返してくる。それほど気の強くない早苗は、すぐに目を逸らして俯いてしまった。
 「痛い」
 電車が少し強めに揺れて体勢を崩した女は、勢いよくヒールで早苗の足を踏む。わざとだ。痛みを堪えるばかりで、顔を上げられない。謝りもしない女は、話を続けた。
 「乾いてんじゃないの?だって、彼氏いない歴実年齢らしいよ。
  子育てが得意なふりして子供好きをアピールしているようだけど、子供いないじゃん。
  既に化けの皮が剥がれてるの。
  そこまでして、男に振り向いてもらいたいのかな?相手にされていないようだけど」
 毎日というわけではないが、こう度々迷惑行為に晒されると、気付かないうちに心が病んでしまう。遂に早苗は、電車に乗るのが憂鬱になり、通退勤を恐れるようになった。
 元気のない早苗を心配して、恒子が言った。
 「どうしたんですか?元気ないですね」
 いつも笑顔を湛えていた早苗が、妙に暗く沈んでいる。仲の良い恒子の話も上の空だ。
 「実は、最近電車に変な人が乗って来るんです。
  いつもスマホで会話していて、うるさいんです」
 「嫌な客がいるものね、言ってやれば良いのよ、迷惑よって」
 「そんな、言えませんよ」
 同情する恒子の提案に、ビックリした早苗は手と首を振って言う。その後すぐに沈んだ早苗に、真一が提案した。
 「直接じゃなく、駅員に言ったら?いついつどこどこの駅で、こんな乗客が乗って来るんですって」
 「そうですね、今度繰り返されたら、言ってみます」
 迷惑行為はぱったりと無くなった。誰かほかの乗客に注意を受けたのか、それ以来この女が同じ車両に乗って来る事は無ない。しかし、早苗のストレスは増すばかりだ。最近妙に人の視線を感じるのだが、振り向いても誰もいない。
 児童相談センターの職員は、お子さんだけでなく、親御さんとも良い関係を築こうと気を使っている。それでも、中には警察沙汰になったり、児童相談所の宿泊施設のお世話になるケースもある。もしかしたら、誰かに逆恨みされているのかもしれない。
 しかし、何か実害があるわけでも無いし、本当に誰かに見られているかも分からないから、相談しようも無かった。
 早苗の自宅のそばには、自動販売機がある。田舎とはいえ周辺にはアパートが多いから、利用する人は多いのだが、今まで買うところは見ても、そこでジュースを飲んでいる人を見る事は稀であった。
 それが、今では度々見かける。心なしか、自分を見ているように感じた。ストレスから脅迫観念に囚われているのだろうか。遂には尾行されているのではと苛まれるようになった。
 (考え過ぎかな?いつも人が違うから、親御さんってことないだろうし。
  あの女の人のせいで気が滅入っていたから、思い込んでしまったのね、きっと)
 今日の仕事は、1日中子供の安否確認に終始していた。しかし、親や子供と話している時でさえ、最近感じる視線の事で頭がいっぱいだ。 それでも、センターへの帰路に着く頃には、少し前向きに考えられるようになった。
 「あ、そうだ、ATM、お金おろさないといけないんだ」
 ボーとしていたせいでコンビニを通り過ぎた早苗が不意に方向転換を図ると、2,3m後ろを歩いていた小太りの中年男の足がもつれて、慌てて立ち止まって植え込みを見やる。
 (え?尾行されてた?)
 事務処理の時間が欲しかったために足早に歩いていたのだが、この男は自分と同じペースで歩いていた。男は道路側の左端にいたのだから、道の建物側を歩いていていた自分が急に立ち止まっても、慌てて立ち止まる必要は無かったはずだ。
 50代半ばで赤黒く酒焼けしたような風貌で、がに股短足。黒いトレーナーに濃い紺のスラックスを穿いたその姿は、とても小中学生の親には見えない。浮浪者とまでは言わないが、場末の居酒屋や馬券場で、目を盗んで人の酒を飲んでしまう様な人格に見える。
 (どこかで見た事があるような)
 コンビニのATMからお金が出てくるまでの数秒を使ってガラスの外を見やるが、もういない。急に恐怖に襲われた。考えたくもないが、殺されるとか犯されるのではないかとという最悪の事態が頭を過り、ギュッと心臓が苦しくなる。
 あの男に気が付いてからというもの、違和感のある中年男の陰が、いつも自分の周りにいるのが目に映るようになった。自分の行動範囲の中でもっとも都会な茨城市でさえ、あの様な浮浪者はいないのに、大きな繁華街も無い自宅周辺や訪問先でも見かける。
 路上生活者として住むには、とてもじゃないが、こんな田舎町では食べていけないだろう。明らかに早苗は尾行されていた。ストレスから脅迫観念に囚われているわけではない、と確信してしまった。





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