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一年生の二学期
第二十九話 満員電車
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朝のラッシュを過ぎたはずの北千束駅のホームは、電車を待つ人々でごった返していた。繰り返されるアナウンスによると、どこかの駅で人身事故が発生したということだった。事故発生の時間はだいぶ前であったことから、すでに電車の運行は再開されていたが、二十分遅れだという。そんな中、土に埋められた人形のように、会社員のスーツに埋没した奈緒は、渋い顔をしながら立ち尽くしていた。
ようやく電車に乗り込むと、すぐに右半身側にあるドア横の手すりに手を伸ばす。
((じゃまだよ、リュック腹に持てよ))
男の小声が聞こえた。心無い一言に、奈緒は唇をキュッとしめて俯く。だが、黙り込んだこの子に、どこの誰か分からないなじりの声が執拗に囁かれ続ける。
耐えきれなくなった奈緒が口を開いた。
「ご め ん な さ い。わ た し は、身体 障がい者 で す か ら、ごめんな さい。背負うと下ろせないので、ごめんな さい。学校までお願いし ま す。戸越公園で す」
なじりの囁きはなくなった。しかし、ほっと息をつく間もなく、奈緒は「あ」と叫んで、懇願を続ける。
「やめてください。わたしは身 体 障がい者 ですから、ごめん な さいと しか 言え ま せん から、わたしは――」
急に言葉が震え始めて、そのまま途切れた。一瞬の間を置いて、明らかな泣き声で続ける。
「ちかんはやめて ください。触ら ないで ください。おしりを 触らないで ください」
誰も何も言わないし、犯人もやめる様子はないようだ。悲痛な奈緒の訴えだけが頭上の空間を漂う。旗の台駅で電車が停まると、多くの乗客が降車する流れに乗って、奈緒も右足を持ち上げて、身を前方に傾ける。だがスーツの袖が伸びてきて、その進路をふさぐ。濃紺のジャケットを着たサラリーマンの腕だ。
奈緒は震える声で言った。
「おろしてください。わたしはこの駅で降りますから」
その間にもっと多くの人々が乗車して、またも超満員になった。しばらく奈緒の嘆きは止まり、車内の緊張がほぐれ始める。だが、その後再開した痴漢はやむことなく続き、おしりを触られるたびに奈緒は「や め て」と、声を発した。
どこからともなく、
((満員なんだから、しょうがないだろ))
((勘違いだろ))
と聞こえてくる。
それを耳にして口をつぐみ、声を上げることをやめた奈緒は、ただただ俯いて耐えるばかりとなった。すると間もなくして、巣から顔を出したり引っ込めたりするリスのように警戒した様子だった痴漢の手は、持ち主の目も気にすることなくハンバーガーをあさるような繁華街のドブネズミへと変貌した。
奈緒の表情が、握りつぶされる折り紙のように歪み始めたちょうどその時、聞き覚えのある男子の声がした。
「すいません。ちょっと通してください。すいません」
タールの海に起こった波のように、人の塊がうごめく。そして心地よいそよ風が吹いて、隙間なく人で埋め尽くされた車内が広くなった。そこに流れ込む滝ように、柔軟剤の香りが空間を満たす。
ようやく電車に乗り込むと、すぐに右半身側にあるドア横の手すりに手を伸ばす。
((じゃまだよ、リュック腹に持てよ))
男の小声が聞こえた。心無い一言に、奈緒は唇をキュッとしめて俯く。だが、黙り込んだこの子に、どこの誰か分からないなじりの声が執拗に囁かれ続ける。
耐えきれなくなった奈緒が口を開いた。
「ご め ん な さ い。わ た し は、身体 障がい者 で す か ら、ごめんな さい。背負うと下ろせないので、ごめんな さい。学校までお願いし ま す。戸越公園で す」
なじりの囁きはなくなった。しかし、ほっと息をつく間もなく、奈緒は「あ」と叫んで、懇願を続ける。
「やめてください。わたしは身 体 障がい者 ですから、ごめん な さいと しか 言え ま せん から、わたしは――」
急に言葉が震え始めて、そのまま途切れた。一瞬の間を置いて、明らかな泣き声で続ける。
「ちかんはやめて ください。触ら ないで ください。おしりを 触らないで ください」
誰も何も言わないし、犯人もやめる様子はないようだ。悲痛な奈緒の訴えだけが頭上の空間を漂う。旗の台駅で電車が停まると、多くの乗客が降車する流れに乗って、奈緒も右足を持ち上げて、身を前方に傾ける。だがスーツの袖が伸びてきて、その進路をふさぐ。濃紺のジャケットを着たサラリーマンの腕だ。
奈緒は震える声で言った。
「おろしてください。わたしはこの駅で降りますから」
その間にもっと多くの人々が乗車して、またも超満員になった。しばらく奈緒の嘆きは止まり、車内の緊張がほぐれ始める。だが、その後再開した痴漢はやむことなく続き、おしりを触られるたびに奈緒は「や め て」と、声を発した。
どこからともなく、
((満員なんだから、しょうがないだろ))
((勘違いだろ))
と聞こえてくる。
それを耳にして口をつぐみ、声を上げることをやめた奈緒は、ただただ俯いて耐えるばかりとなった。すると間もなくして、巣から顔を出したり引っ込めたりするリスのように警戒した様子だった痴漢の手は、持ち主の目も気にすることなくハンバーガーをあさるような繁華街のドブネズミへと変貌した。
奈緒の表情が、握りつぶされる折り紙のように歪み始めたちょうどその時、聞き覚えのある男子の声がした。
「すいません。ちょっと通してください。すいません」
タールの海に起こった波のように、人の塊がうごめく。そして心地よいそよ風が吹いて、隙間なく人で埋め尽くされた車内が広くなった。そこに流れ込む滝ように、柔軟剤の香りが空間を満たす。
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