バラの精と花の姫

緒方宗谷

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噂だけで判断してはいけない

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 燦々と降り注ぐ太陽の光、まばらに浮かぶ雲は真っ白で、日の光を称賛するように、浴びた光を反射して輝いています。優しい女性のような緩やかで壮大な起伏が、途切れることなく続く草原を、優しく抱きしめています。
 見渡す限りの地平線。色とりどりに咲く花は、自分達の美しさを称賛し合うように、歌っています。
 遠くから聞こえる梢の音色に、幹がきしむ重低音が応えます。太古から続く森が、何千年何万年という時間をかけて、草木を養うための腐葉土を作っています。
 中央には、何億年と成長してきた巨木があり、そのふもとには、真っ白な大理石で作られた宮殿がそびえていました。
 その昔、天の最高神の地位にいたシダの神様が亡くなった神聖な場所です。その後、歴代のこの地を治めた神々が亡くなる時、同じ場所に行って亡くなりました。その結果、何の木か分かりませんが、巨大な老木となって、今、花の里と呼ばれるこの国を加護しています。
 その根は、花の里の隅々まで行きわたり、天から降り注ぐ雨を吸い上げ、中心に運んで行きます。広い里では、いたるところに根からしみ出した水がこんこんと湧きあがり、湖となっています。
 優しい木漏れ日で首都ベローナを照らす枝葉は、毎年枯れて、風に飛んでいき、世界で最も栄養豊富で美味しい腐葉土となって、里に積もります。
 里のほとんどは豊かな土に覆われていて、その土の上を隙間なく草花が覆っていました。岩肌がむき出しになっているところは、里の端っこの僅かしかありません。
 とても広いこの世界には、動物も魚も虫もほとんどいません。いるのは、花と草と木だけです。そうです。この地は、花の里といわれる神の国。天に属する花の神が統べる国なのです。
 そんな幸せな大自然なのに、耳を澄まして慎重に聞き入ると、とても似つかわしくない悲しげな声が聞こえてきました。
 「しくしく、しくしく、なぜ僕は独りぼっちなの?」
 花の主神の名を冠する首都ベローナから南西の方向にずっと行った、里の端っこ。そこに果ての岩地という場所があります。花の里は天界の中腹にある雲海の一つにあるのですが、ちょうど里と雲海の境の地に、その果ての岩地は有りました。
 恵み豊かな大地とは裏腹に、この土地には、全く草木は生えていません。徐々にですが、この地にも土が広がり、不毛の岩肌を覆っている最中です。ですが、まだまだ広大な土地が、冷たく静まり返っていました。
 土がある大地から大分離れた、石ころばかりの所から、泣き声は聞こえてきます。昼も夜も静まり返った地ですから、その泣き声は遠くまで響いていました。それでも、岩肌と土との境界線から何百キロも離れていたので、誰にも聞こえません。 
 まったく土が無く、全く湿ってもいない石ころと石ころの間から生えていたのは、バラという名のイバラでした。
 赤紫色のツルがクネクネと絡み合い、遠くから見ると、歪な楕円の形をしています。その中心で、赤みがかった黒髪の小さな男の子が泣いています。人間でいえば、3歳か4歳くらいでしょう。天界の時間の流れは人間界と違うので、1000歳から1500歳といったところ。
 くるぶしまであるスカート状の上着を着ていて、それ以外の物は身に着けていません。指先が少し出る程度の長めの袖を濡らして、毎日1日中泣き通しては、疲れて眠りにつく日々を過ごしていました。傍に落ちている石ころたちには精が宿っておらず、誰も慰めてくれる者はいません。
 どれだけの年月が経っていたのでしょうか、いなくなったバラのことを思い出す精は、1人もいなくなっていました。
 そんなある日、首都ベローナから南に行ったところにある町スイレンの居城にいた花の姫の元に、ある知らせが届きました。
 それは、果ての岩地に、無実の罪でイジメられて、生まれ故郷の森を追い出されたバラの精がいる、というものでした。
 ユイという名の姫は、花の主神の一人娘で、それは美しい姫君です。姫は2000歳くらいですから、人間でいえば6歳くらい。誕生日に母君から頂いたお城に引っ越してきたばかりの小さな神様です。
 お城が姫に与えられる前は廃城で、周りには小さな村が1つあるだけでした。しかし、宮殿から、この廃城が姫の居城になる、と発表されてから、多くの下位神や精霊が住み着くようになって、街になったのです。姫は睡蓮の神ですから、新しく作られた町はスイレンと名付けられました。
 このお城は、上位神の住まいとして作られた宮殿と違って、砦として作られた戦うためのお城です。薄茶色というか黄土色に近いレンガを積んで作られていました。
 四隅に円筒形の塔が建ち、太い壁のような建物がそれらを繋いで、上から見ると正方形になっています。真ん中は中庭になっていて、後方だけは、壁のような建物ではなく、太くて高い円筒形の塔でした。
 この塔の最上部は神術を使うための書庫、中部が姫の居住空間で、下が、爺やや侍女達おつきの者達の部屋。前方と左右の城壁にある部屋は、下位の侍女や給仕の部屋であったり、士官の部屋だったり、武器庫だったり、食堂だったりしました。
 城は二重の城壁に囲まれていて、中は兵舎や武器庫や色々な部屋になっていましたが、平和な花の里に敵はいないので、使われる予定のない空き室です。しかし、城壁にある部屋のほとんどは、まさに戦うための部屋でした。
 花の姫が宮殿で母君と暮らしていた時、周りには同じ年頃の神はいませんでしたし、ここにも引っ越してきたばかりで、お友達はいません。生まれた時から世話をしてくれている、松の神の爺やソンフェンと、侍女のパンジーの女神達がいるだけです。
 1人のパンジーが言いました。
 「バラの話は聞いた事があります。なんでも、その身に生えたトゲで、沢山の精を傷つけた悪い精です」
 すると、別の侍女が言います。
 「果ての岩地まで花の主神のご加護が届かないことを良いことに、そこに住みついた悪魔の名ですよ」
 姫はビックリして叫びます。
 「悪魔がいるの? 花の里に!?」
 ソファから身を乗り出す姫の横で、松の神が、その悪魔を退治するために兵を差し向けよう、と言っています。引っ越し早々、何とも物騒な話が持ち上がりました。争いごとの嫌いな姫は、難しい顔をしながら目をつむり、腕を組んで話します。
 「本当に悪魔かしら、もしそうなら、もっと大騒ぎになっていないとおかしくないの?」
 それは、果ての岩地が不毛の地であるから、その悪魔を見たものは誰もいないのだ、とパンジー達は代わる代わる言います。姫は、その話を不思議に思いました。誰も見ていないのに、なぜ悪魔だと分かるのか疑問です。
 周りにいた神々は、誰も答えることができません。姫は、パンジー1人1人に訊いていきます。
 「あなたは見たの?」
 「・・・、いいえ、見てはおりません」
 聞くと、悪魔の話をした1人はうわさを聞いただけで、その噂も、野に咲く花の精から聞いただけでした。他の女神達は聞いたことが無く、その噂も広まっているようには思えません。
 バラの精の話を陳情に来たのはタンポポの種でしたが、今日は強めのそよ風が吹いていたので、すぐに飛んで行ってしまって、会うことはできませんでした。
 天井まで届く大きな木の窓は全て開いていて、何にもさえぎられることなく届く太陽の光が部屋に差し込んで、神々しく揺らめいています。その暖かな日差しに導かれるようにテラスに出た姫は、手すりに身をゆだねて、果ての岩地の方を望みました。
 上位悪魔がいるのなら、光を飲み込んで暗雲が立ち込めているはずですが、地平線の向こうの空は、雲一つなく澄み渡っています。
 「行ってみましょう」
 振り返ってみんなに言うと、侍女達が思いとどまるよう口々に言いました。ですが姫は譲りません。タンポポの種の話が本当なら、バラの精を助けてあげたかったし、もし魔界の者がいたとしても、物の怪か妖怪の類だろうから、特別怖くは有りません。
 「出発進行!!」
 姫を止めようと必死の爺や達を飛び回ってかわしながら、ピクニックの準備をした姫は、護衛の兵の隊列に守られたフキノトウに乗って、南西へと旅立ちました。

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