バラの神と魔界の皇子

緒方宗谷

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25 己の恐怖に打ち勝つことが出来るのは、己だけである

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 姫が生まれた美しく壮麗な宮殿は、黒い瘡に見えるほど枯れた草が覆いかぶさって、見る影もありません。首都は廃墟と化し、誰1人として生存していませんでした。
 姫は、母への愛慕の念を押さえきれずに言いました。
 「ああ、殿下、みま麗しき我が母君よ。
  わたしを残して死んでしまわれたのですね、あの忌まわしき蠅の皇子の手にかかって・・・」
 眼下には、石の巨人が砕けて死んでいます。頭を隙間なく覆う苔も全て枯れて、薄茶色く変色していました。
 「ああ、何ということでしょう。
  オレック、あなたまで死んでしまうなんて・・・」
 首都ベローナの南西にいた苔むした巨石の最後の姿です。いつも静かにしていたので、みんなは彼が精霊だと思っていました。しかし、魔界の皇子が花の里を侵略してきた時、天界に2つと無い美しい都ベローナを汚したのを見て、怒り高ぶった巨石の精霊は、本当の力を発揮しました。驚いたことに、彼は上位の神様だったのです。
 魔界の皇子が率いるのは上位悪魔ばかりです。いかに花の軍勢が屈強だからといっても、もともと戦いの神や軍の神が少ない植物軍に勝ち目はありません。防衛線はすぐに瓦解してしまいました。花の主神は、避難してきた精霊や精達を助けて逃げるので精一杯です。
 生き残った各砦の神々や精霊が各地で応戦しながら、後退してきました。撤退戦はとても分が悪いものです。特に殿は悲惨でした。その多くが枯れて果ててしまいましたが、それでも家族や友達のために闘い続けました。
 ヴァンプレストと呼ばれる笠状の柄を持つ独特な形の円錐のランスを装備したヒメスズメバチの女悪魔の騎士隊の前に、後退する天軍を守る蜜蜂率いる虎丸と黒丸の騎士団は大苦戦です。
 蜜蜂達が放つ投槍を避けもせず弾き返して突撃を繰り返し、次々と首を上げていきます。猛烈なスピードに乗って繰り出されるランスの突きに、プレートアーマーすら貫かれてしまうのでした。
 天空に広がる微塵のくすみもない白き雲は、白金の光で里の地を照らしています。天界が花の里を見捨てていない証拠です。その光を登るように、巨大なピンク色の5枚の花弁を持つ花が昇天していきます。
 長い矛先の様な鋭い花弁はとても濃いピンク色で、それぞれが独立した花のように咲く沢山の雄しべと雌しべが、中央を黄色く彩っています。その奥には、天界にも魔界にも人間界にもないほどの甘い蜜が満ち満ちていて、茎を流れる水分ですら蜜のごとき甘さです。何よりも薄く何よりも軽い産毛のようなものが生えていて、それすら綿あめの糸のようでした。その身に溜まる朝露さえも甘い水に変える力がありました。
 薄く暖かな色合いの実は、桃のように柔らかく、柿のように甘く、メロンのように瑞々しく、イランイランよりも甘い香りを発しています。ユリに似た葉さえも絹のように柔らかな花弁の如き肌触り、そして、ジャスミンの様にすがすがしく香っています。
 花からも茎からも葉からも果実からも溢れる芳香は、大変濃厚な神気であった為、淡いピンク色の光を放って花弁の下に溜まって、徐々に広がっていきました。その様は、あたかも広大な里の全てを覆うのではなかろうか、と思えるほどです。
 花の主神を表すのに使われる例えは色々ありますが、その全ての例えを凌駕していました。
 その香りは奇跡を起こし、主神が幼かった頃に編まれた神話が現実のものになるのだと、皆を安堵させました。傷つき命も尽きようとしていた者達でさえ全ての傷が回復し、恐怖から背信に及ぶ者や、心が病んでしまう者を癒し、精神の崩壊から救い出しました。この時死ぬのが天の定めであった者も、とても安らかに逝くことが出来ました。
 天界で最も美しく、最も気高く、最も清らかで、最も愛に満ちた、花の主神ベローナ。孤高の花を見上げながら、ベローナを一途に愛し続けた巨石の神オレックは、その身が滅びてなお戦い続けました。
 辺りには、強く握られたこぶしによって叩き潰された巨大なドラゴンや、邪悪な大蛇が散乱しています。踏み鳴らす大地は割れ、魔物を飲み込みます。勢いよくせりあがった地表の直撃を受け死に絶える者や、大地を伝わる地震の震動に全身を揺さぶられ、死ぬ者もいました。
 その姿を観覧する魔王達の中心に、魔界の皇子があやしげな笑みを湛えていました。
 「さすがは巨石オレック。これだけの悪魔を相手にして、臆することなく戦い続けることが出来るとは」
 魔界の皇子がオレックに問いかけます。
 「しかし、お前は何のために戦い続けているのか。
  見よ、既にお前の愛する花の主神は、その身を引き裂かれて、蠅の子らが湧いているではないか」
 オレックは、胸がつぶれる思いがしました。当たりは醜い紫色がかった瘴気が立ち込め、生きとし生ける者全てが、苦しみもがいています。ここに生は、色鮮やかさは、何もありません。死の腐臭しかありません。それ以外は微塵もありませんでした。
 オレックは、愕然としました。
 「花は! 全ての花は! 草はっ木は! 全て枯れてしまったのか!!」
 彼にとって一番恐ろしいことは、花の主神が死んでしまうことでした。そのような考えを払拭しようと必死に頭を振り忘れようとしますが、耳にこびり付いた魔界の皇子の言葉は脳裏を侵し、遂にオレックは、その偽りの言葉が真実であると拘泥するに至りました。魔界の皇子は、彼の恐怖に付け入って惑わし、強い信念をへし折ってしまったのです。
 オレックには戦う力はまだありました。しかし、戦う気力は尽きていました。魔界の皇子が振り上げたこぶしに発せられた黒い雷を帯びた闇の塊が、だんだんと大きくなっていきます。振り下ろされた腕から発せられたその黒い塊は、大地と共にオレックの体を粉砕しました。戦っていた魔物たちと一緒に。
 天空には、巨大な主神の花が天の光に包まれていて、揺らめきながら雲の中に消えていきます。花の主神は死んではいませんでした。オレックは、魔界の皇子に騙されたのです。
 オレックの魂は、水に入れた白い墨汁のように広がりながら、光の粒子となって飛散していきます。既に死んでいましたが、ベローナへの強烈な思いが、いまだオレックを突き動かし、戦い続けていました。
 魔界の皇子のオレックへの興味は、もはや尽きていました。花の主神にも逃げられてしまったし、放っておいても、この神は消えてなくなるからです。

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