生んでくれてありがとう

緒方宗谷

文字の大きさ
上 下
30 / 33

心に触れた数だけ積み重ねた信頼は、揺るぎない愛へと変わる

しおりを挟む
 6月15日、千里の誕生日は平日だったから、仕事を終えた後に家に来てほしいと、光一は千里に伝えていた。
 毎年お互いの誕生日は、高級ではないけれどレストランの予約を取って、2人で食事をしていた。既に千里は怒っていなかったが、あれだけ取り乱した手前、どのような顔をして会えばよいか分からず、連絡できないでいた。
 フランス料理店での食事でないことを不思議に思った。大好きな恋愛ドラマのような展開が待っているとは思えない。かといって、別れ話になるとも思えない。結局、バラの花束のことは思い出せなかったのだろう、と千里は考えた。たぶん土下座するのだ。
 千里としては、ちゃんと思い出してくれて、バラの花束と婚約指輪を用意して、高級フランス料理を予約してくれていて、プロポーズしてくれることを期待していた。目黒に住むきっかけになったドラマと似た展開だ。少しがっかりしたが、それでも仲直りのきっかけができて、内心ホッとする千里であった。
 夜、神妙な面持ちで千里を招き入れた光一は、ゆっくりと、千里への気持ちを吐露し始めた。初めて出会った日から、今までのことを思い出しながら、千里の良いところや好きなところを伝えていった。
 千里はいつも明るく誰にでも好かれる性格で、彼もそんな彼女に惹かれていた。もともと積極的とは言えない光一は、礼儀のため、初対面時に相手との間に建てた壁を取り払うのに、時間がかかる性格だった。
 引っ込み思案というわけではない。現実に友達も多く、親友と呼べる存在も何人かいた。だが、心の中では、誰に対しても一線を引いていて、自分と対面している相手に対しても、どこか第三者的な目線で見ていた。それは、前の彼女に対してもそうだった。
 しかし、千里は難なくその壁を乗り越えてしまうことが何度もあった。学生時代からそうだ。彼女の才能なのだろうか。本人にその意識は無くても、心の芯に触れてくることがある。
 大学時代、光一を見つめる千里は、目線やまぶた、唇の動きで、いつも何かを伝えようとしていた。無意識的に行われるその表情に引き込まれると、壁の内側に千里が現れる。光一が照れ笑いすると、急に妹から聞いた光一の話して褒めてくれたりした。何気なく、相手の良いところを言う天才だ。
 社会人になると、光一が迷っているときには背中を押してくれたり、悩んでいるときにはアドバイスをくれたり、話を聞いてほしいときには聞いているだけ、話を聞かせてほしいときは、ずっと話してくれていた。
 いつしか、何をするときも、千里ならどう思うか、千里ならどう言ってくれるか、と考えるようになっていた。一緒に経験しなかった自分のことを伝えて、感情を一緒に共有したいと思うようになり、何度も電話をかけようとした日々もあった。
 私生活が実らないときも、仕事で失敗したときも、客のクレームに耐えられないときも、千里がいたから光一は頑張ってこられた。
 ある日、飲み会の帰りに、光一は千里を自宅まで送った。いつも送ってくれることにお礼を言う千里は、部屋でお茶を飲んでいくよう誘った。部屋で他愛もない話をするだけだ。実際そういう時間が流れていた。
 だが、不意に千里が自分を見つめてくる。視線を唇に落とし、ゆっくりと視線を上げる。
 光一は視線をそらす。
 「よくないよ」
 今までにないほど近い瞳の奥を見つめ合い、光一が言った言葉に千里は笑う。
 「こんなに可愛い私が、ほろ酔いで目の前にいるのにもったいない」
 「からかうなよ。 
  もし自分が、これに乗じて何でもするような人だったら、どんな目にあうと思う?
  後悔してもしきれない不幸を背負うことになるんだよ」
 千里には彼氏がいるのに、自分を部屋に招き入れたことへ言及し出すと、千里は話を止めて、もう別れたことを告白した。一瞬の沈黙の中、光一が千里を見つめる。
 「三崎君は、今彼女いるの?」
 「・・・いないよ」
 既に、6カ月も前に別れていた。1年近く前から千里のことが好きだと認識していた光一は、すれ違い始めた彼女との関係を修繕しようとしなかった。いつしか彼女の興味は他の男性へと移行し、自然消滅だ。
 彼女と別れたことを伝えていなかった。それでも千里は、薄々と気が付いていた。2人で会ったときに彼女の話はしなくなったし、デートを理由に飲み会を断ったり、千里と遊ぶのを断ったりしなくなったからだ。
 すぐにでも告白したい、と思っていた光一だったが、好きな人がいる千里の心をかき乱してはならない、と考えていたし、もし告白して、今の関係が崩れ去ってしまうことを恐れていた。
 いつか千里がフリーになって、その時傷ついていなっかたのであれば、気持ちを伝えようと思っていた。
 「三崎君は、そんなことしない人でしょ? 誠実だもんね」
 顔立ちの良い光一に長い間彼女ができない理由を、千里は察していた。光一は、私のことが好きなのだ。千里は、彼氏と別れた理由、そして、光一が好きな理由を話し出す。 
 妹思いのところ、友達思いのところ、女性に対して誠実なところ。
 「それに、私を大切に思ってくれるところ」
 にやりと笑って、千里は最後に言った。
 黙っているままではいられず、光一も同じ気持ちでいることを伝えた。両思いだ。千里は気づいていたが、光一は今の今まで気が付いていなかった。2人は、おでこが触れ合うくらいの距離で、お互いの好きなところや良いところをささやき合っていた。
 2人とも、付き合い始めたその日のことを鮮明に覚えていた。互いの気持ちは当時と変わらず、好きな理由も同じだ。それから数年が経ち、当時を再現するかのように、ささやきあう2人。あの日、2人はキスもせずに別れたが、今日は、時折唇を重ねながら、お互いの愛を確認する。
 隣の部屋からバラの花束を持ってきた光一は、言葉を飲んだ。喉元まで結婚の2文字が出ていたが、口には出さなかった。千里は、その言葉を望んだが、言わなくてもそれで十分幸せだった。
 喧嘩をする前から、プロポーズをするかどうか迷っていた。光一は指輪を見に店へも行った。店員から色々な説明を受ける最中、2人の日々を思い返し、これからのことに思いをはせる。
 ウエディングドレスをまとう千里はとても綺麗で、こんなに素敵な女性が自分の妻になってくれるのかと思うと、喜びが満ち溢れてくる。たが、同時に、自由な性格の千里を縛ってしまうのではないかとの不安もあった。
 今の時代、仕事と家事を分業できるほど稼げないし、共働きで家事を分担するにしても、彼女の部屋を見る限り、自分に合わせて無理に家事をこなそうとするだろう、と思えた。家事が得意とは言えない光一であったが、不自由ない程度にはかたされていて、千里は、彼の部屋に上がるたびに、「私には無理だ」と感嘆していた。
 今はまだ、その時期ではない、と薄々感づいていた。精神的な距離はだれにも負けない位近く、既に溶け合ってしまっていると自負できるが、2人の周辺の環境や物理的な関係は、付き合い始めた当初とほとんど変わっていない。
 いつまでも初々しいと言えば聞こえは良いが、新たなステージに進むには、色々試行錯誤する必要がありそうだ、と光一は考えていた。考えないようにしていたが、宝飾店のガラスケースを見つめるに至って、さらなる成長が必要だという思いが、急に頭をもたげる。
 結局、光一は指輪を買わなかった。その代り、金のネックレスを購入した。
 バラの花束のことを忘れて、数年も待たせてしまったことをあらためて謝罪し、バラと一緒にネックレスを千里に渡した。
 千里は、プレゼントの包みを丁寧に開けながら、バラの花束のことを思い出してくれた光一に対して、更に愛情を深めていった。そして、照れくさそうに光一を見て、ネックレスをつけてほしい、と望んだ。 
 千里が31歳になった最初の土曜日、佳代が目黒の自宅を訪れていた。誕生日は彼氏に譲るとしても、小学校からの親友の誕生日を祝わないわけにはいかない。
 約束の花束でもめていた2人の関係が壊れていないか不安もあったが、2人なら何とか乗り越えただろう、と希望を持って、部屋のチャイムを押した。
雄太と博物館に行った前日の土曜日、佳代は光一に電話をしていた。バラのことは伝えていなかったが、約束の花束を忘れている、と千里から聞いていることと、小柳からのアドバイスを伝えた。
 思ったよりも落ち着いた声でうなずく光一は、佳代にありがとうと伝え、大丈夫だと付け加えた。少し物静かな様子に佳代は多少不安を覚えたが、強く励ますことはしなかった。自分が出しゃばらなくても、千里に対して誠心誠意尽くしてくれる、と信じていたからだ。
 千里は、佳代に何も話さなかった。ケーキとお誕生日セットのお弁当を持ってきた彼女を迎い入れ、すぐにシャンパンの栓を抜いた。ハッピーバースデーを歌う前から、もうすでに上機嫌だ。
 佳代も何も聞かなかった。自分が持ってきた料理を並べたテーブルの中央には、大輪のバラの花束が飾ってある。たぶん、2人の関係は、もう崩れないだろう。この先何があろうと、深化した2人の愛情の前では、どんな災難があろうと、良い思い出に変えられる。佳代はそう思えた。
 初めて見るネックレスが、千里の首元を飾っている。その輝きが、2人の未来を象徴しているかのようであった。


しおりを挟む

処理中です...