生んでくれてありがとう

緒方宗谷

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柿の木

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 渡辺さんが亡くなった。
 最初に異変に気付いたのは佳代だ。いつも意識がないように見えながらも、声をかければ返事だけはしてくれる。リクライニングチェアのような車イスの上で、必ず姿勢よく寝ていたのに、今日に限ってはうなだれていた。
 声をかけても返事はない。頬や首に手を当てがっても、筋肉の収縮は感じられず、手を握っても力を感じない。
 事務室に電話をする大阪の声が、かすかに聞こえる。頭のはっきりしている一部の入所者は、ざわつくスタッフの雰囲気から異変を察知し、何が起きたのか質問を繰り返す。
 なぜこんなことになってしまったのだろうか。入社当初に佳代が掲げた目標は、渡辺さんにご飯を完食してもらうことだった。実際、何度も完食してもらえるまでになっていた。
 それが徐々に食事量が減っていき、ある時を境に、声をかけてもスプーンで唇をつついても反応が無くなった。食事中、佳代は何もできずにいた。ただ声をかけ続ける以外できないかった。
 それから間もなくして、渡辺さんは、固形の食事から栄養豊富なジュースに変わり、点滴だけになった。
 2人の看護師が駆けつけ、脈を計ったり声をかけたりしている。
 「もう、大分高齢だから、・・・分からないわね」
 定期的な検査でも、その数値は同年齢の老人と比べてさほど悪くない。佳代は受け入れることができずにいたが、周りのスタッフみんなは、今日が渡辺さんの天命の日だと悟っていた。
 佳代の想像の中での渡辺さんは、しっかりと目を開いて自ら車イスを操作し、笑顔で声をかけてくれる。そういう理想を掲げて介護してきた。それと現実とのギャップに戸惑うしかなかった。佳代に責任があるわけではない。天寿を全うして、これから逝こうとしているだけなのだ。
 渡辺さんの人生は悪くなかった。戦前の生まれだから、戦争も経験した。しかし、当時、多くの日本人が経験した苦難をほとんど受けずに育った。茨城の山奥で育った彼は農家の二男で、食べるものには全く困っていない。
 東京から疎開してきた子供たちに、蒸しイモを分けてあげてよく遊んだ。大人達の会話から、東京が空襲にやられたと知っていたが、それがどのような状況なのか想像もできていない。
 自分の見たことのある世界は、山々に囲まれた黄金色の田園風景、小川の煌めき、それが世界のすべてだった。疎開してきた友達も、運よく焼夷弾の雨にさらされることなくここにやってきたから、大空襲の惨劇を知る由もない。
 夏には川の深いところに飛び込んで胆を試したり、魚を取って遊んだ。秋になると、誰が種を蒔いたかもわからない柿の木に、甘い実がたわわに実る。柿が大好きだった渡辺さんは、幼少時代に無理をして木に登り、落ちて骨を折ったことがあった。それでも彼は毎年のように木に登り、沢山カキを食べた。
 移乗介助を受ける際、渡辺さんはいつも怖がっていて、佳代はそれが可愛そうでならなかった。しかし、渡辺さん本人は、沸き起こる恐怖が過ぎた後、口いっぱいに頬張ったカキの甘さを思い出して、幸せな気分だった。
 子供たちの前で、大人は常に帝国主義を貫き、それを信じる自分たちは、日本が負けるなどとは露にも思わなかった。
 父親と兄が戦争に行っていたが、死んでしまう可能性など想像していない。陰で、夫や長男の身を案じて、母親は夜な夜な泣いていたが、それには気づくことはなかった。
 12歳で終戦を迎えた。大人たちは愕然としていて、その動揺は渡辺にも伝わっていた。それでも何も不安はなかった。傍らで母が寄り添い、肩に置いたその手のぬくもりが、子供の心の中へ動揺が伝播するのを防いだ。
 母親のみならず女性たちはみな、戦争には勝てないと気が付いていた。空襲のない田舎の端とはいえ、各地が焼け野原と化した話は伝わってきていたし、街に出ても物はほとんどない。都市部の女性たちは、もっと早くに気が付いていた。配給制になっていたし、その配給も満足な量ではなかったからだ。
 幸い、食べるに困らなかった渡辺さんは、病気もせずに育ち、東京の大学に進学した。まだ日本は現代ほど裕福ではなかったが、だんだんと豊かになっていけると、ひしひしと感じることができた。高度経済成長の波がたち始め、渡辺さんも順風満帆だ。
 結婚もして、6人の子に恵まれた。妻には先立たれたが、最後の表情は幸せそうだった。
 入所する直前に、子供や孫が集まり撮った家族写真が宝物で、今も部屋に飾ってある。一昨年にはひ孫も生まれて、孫家族が赤ちゃんを連れて面会に来てくれた。
 その時の様子は彼の記憶に残っていないが、心が憶えた高揚は、毎日甦ってくる。
 父と兄は結局戻ってこなかったが、田舎育ちの古い人間である渡辺さんは、実家のお墓を通して、父兄と繋がっていた。妻もその墓の中にいる。衰えた脳にも、心にも、死に怯える部分は微塵もない。お墓に引っ越すだけだ。
 そこまで悟る術を佳代は持ち合わせていなかった。佳代にとって、死は全ての終わりを意味している。土屋さんに出会ってから、死への恐怖は少し変化した。それでも、渡辺さんは、過去から現在までの全てが未来永劫消えてなくなってしまう、と思えた。
 自分は何もしてあげられていない、と佳代はやるせなさを感じていた。実際、佳代の親身さは評判で、入所者のみならず他のスタッフや経営者もそう思っていたにも関わらずだ。
 死を前にして、自分がちっぽけな存在のように思えてきていた。渡辺さんに施してきた介護は、全く意味をなさなかったのかと思うと、漠然と不安を覚える。
 いまだに佳代は、渡辺さんが感じる以上の恐怖や、牧野さんが感じる入れ歯を着脱する際の痛みの記憶が甦るさまを超える記憶の呼び起こしは、見たことがない。しかし、牧野さんは、男性スタッフの高島にだけは心を開いていて、入れ歯を着脱させてくれる。その時の牧野さんの表情は、安らぎに満ちている。
 それは、高島に対しては、痛みや恐怖を伴う印象を持っていない、ということだ。ならば、痛みや恐怖と真逆の印象を植え付けることだって出来る。それが一生涯の良い思い出になるのかもしれない。
 おじいちゃんおばあちゃんが亡くなるとき、私たちはどんな感情を最後に残してあげられるだろうか。
 脈も呼吸も弱まった渡辺さんが、看護師と事務員の手で車いすごと車に乗せられ、病院に連れて行かれる。佳代は1階のロビーでそれを見送る。涙は出なかったが、自分と渡辺さんの間にある、何か大きなものを失うのではないか、という恐怖に震えた。
 そして16時過ぎ、病院に付き添った事務員からの連絡で、渡辺さんが亡くなったことを知らされた。
 人と別れるということはこういうことなのか、と佳代は慄いた。親しい人が亡くなるのは初めてではなかったが、死をちゃんと理解できる年齢になってからの死別は初めてだ。
 佳代は傷心して疲れ切っていた。大阪は、施設で初めて死を経験する佳代を気遣い、作業から外して5階の椅子に座らせていた。その日一日放心していて、家に帰ってからも何も手につかない。7月に入るまで心の整理がつかず、度々思い出したように悲しみに暮れて過ごした。


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