生んでくれてありがとう

緒方宗谷

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心の傷

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 両親は心配していたが、その心配が現実のものになっているとは、夢にも思わなかった。雄太は、誰が見ても聞き分けの良い子供に育っている。2人は、自分たちが下した決断と、子供への配慮は間違っておらず、むしろ成功している、と思っている。
 しかし、雄太にストレスがなかったわけではなかった。父親にも言えず、心に秘めて堪えていることがあった。
 毎晩のように胸が苦しい。自分のうなされる声で目が覚めることさえあった。
 目を開けていても瞑っていても、脳裏には真っ暗闇が広がっている。さっきまでお母さんとお父さんと3人でいたはずなのに、独りぼっちになってしまった。いつから1人になってしまったのかさえ分からない。
 両親の愛情が、無条件で無限に注がれ続けることを疑わなかった日々。今は、泣いても叫んでも、啓太も恵子も抱きしめてはくれなかった。突然死別してしまったかのような悲しみが、雄太の心に満ちていた。
 離婚がどのような意味を持つか、まだ幼い子供には分からない。ただ、それは、幸せいっぱいだった日々が無に帰すほどの不安に満ちているということを、心の芯では捉えていた。
 稀に、啓太の気配を背中に感じているときもあった。目の前には、呼んでも声が届かない恵子が自分から離れていく。懸命に走っても追いつくことができない。そればかりか、啓太の気配も感じられなくなる。独りぼっちになった雄太は、毎日同じ運命をたどった。 
 胸が締め付けられ、本当に息ができない。雄太はベッドの上に正座するようにしてうずくまり、隣のベッドで寝る啓太に気付かれないように、息を殺していた。
 ボロボロと止めどなく涙があふれ、どんなに我慢しても声が漏れる。全身に、お母さんお父さん、と叫ぶ自分の声が響く。天も地もない暗黒の中、小さな体は闇に溶けて、その存在をかき消されつつあった。それでもなお両親を探し求める。
 そして、ついに雄太は魂の芯までかき消される。絶命したのだ。言葉として、思考して理解しているわけではなかったが、理解していた。自分の中の何かが死んだのだ。
 だが、それを境に、握りつぶされそうだった胸は解放され、絶え絶えだった呼吸も平常へと戻っていく。絶望から解放された雄太は、深呼吸をしてから仰向けになって天井を一瞥して、眠りにつく。
 恵子が啓太の部屋を出て2か月が過ぎたころ、恵子を家に迎え、3人で昼食を食べた時に雄太は言った。
 「僕、ここで暮らす。お父さんと暮らすよ。
  お母さんと離れて暮らすのはさびしいけど、沢山遊びに行くよ」
 啓太は、雄太を恵子に引き渡すつもりでいた。この年齢の子供には母親の方が大事だと思っていたからだ。自分も雄太と離れたくはなかったし、雄太のことが大好きだったが、燦々と降り注ぐ太陽の光のように、母親の愛情が降り注がれるべきだ、と考えていた。
 2度目に行われた離婚の話し合いで、恵子は雄太を連れて行きたいことを啓太に伝えていた。それを受けて、啓太は切々と雄太に必要な愛情についての考えを述べた。
 静かに聞いていた恵子は、この結婚が終わりを迎えても、それほど遠くないところに住むと申し出た。今は無理でも、雄太が小学校3年生くらいになれば、2人の家を行き来できる距離だ。
 啓太の言うとおり、雄太が小学校高学年になった頃には、父親の愛情が必要になってくる。幼い頃に、それが不要であるわけではないが、キャッチボールをするとかサッカーをするとか、釣りやバーベキューをするとか、男親ならではの愛情の注ぎ方が必要になるときがくる。
 もともと、恵子は、啓太の存在が雄太にあまり良い影響を与えないのではないか、と考えていた。休みの日はゴロゴロしてばかりで、子供の教育には関心を持っていなかったからだ。子供の前でゲームばかりしていて、雄太は、長い時間その画面を真剣に見ているだけだった。
 離婚して、恵子が雄太を連れて行ったとしても、定期的に雄太と合わせてほしいとは言わなかった。啓太は言うつもりでいたが、愛情についての考えを理解した恵子は、啓太の話がひと段落した時に、定期的に会ってあげて、と伝えた。
 雄太の希望を知ったうえでも、妻は親権がほしいと望んでいた。だが、雄太が啓太といることを望み続けた。
 2人は結論を急ぐことはせず、正式に離婚するまで1年近くを要した。子供へ悪影響を及ぼしたくなかったのだ。それでも恵子は、小池姓で仕事をし始めていた。
 啓太と住むことを決意した日から、悪夢にうなされることは無くなっていた。だが雄太にとって、一時期毎週のように、あの悪夢を思い出す日があった。土曜日は母親と過ごす大事な日だったが、マンションの表札は小池と書かれている。それを見るたびに、雄太は絶命する瞬間を思い出した。
 展示室は3階構造になっていて、最上階はプラネタリュウムになっていた。外観を見上げると、屋根が半球状をしており、佳代は可笑しな形をしている、と雄太に笑いかけたが、2人はまさにその中にいる。
 小学生向けの博物館ということもあり、星々を説明するナレーションはジョークやギャグが散りばめられていて、天を見上げたまま頭を寄せ、2人してクスクス笑う。
 ギリシャ神話に出てくる有名な12星座以外に、日本などにも独自の星座があることが紹介された。2人とも初めて聞くことだったから、とても勉強になった。ただ、さそり座のアンタレスを酔っぱらいのおじさんに例えるなんて、何とも情緒がないと佳代は思った。
 雄太を見ると、真剣なまなざしで星空を見ている。
 小学生のころの思い出の中で、佳代はいつも祖母や両親に甘えていた。保育園で作った折り紙や、もらったおやつを祖母や母親にあげて、喜んでもらったり褒めてもらうのが好きだった。思い返すと、嫌な思い出は1つだけ。お昼寝から覚めると、家の中で自分が独りぼっちだったことくらいだ。
 雄太が自分と同じ齢になった時、今日2人で過ごしたことが思い出として心に残ってくれると思うと、佳代は幸せな気分になった。幼いころの思い出を振り返ると、長い年月を経た今でさえ、心がポカポカとしてきて、嫌なことなんて全て消えていく様だ。
 自分がこの子に与えてあげられる幸せを思うと、自然と顔がほころぶ。祖母や母親を見やると、必ず優しい笑顔を向けてくれていた。佳代は、自らに溢れる母性を感じて、あの時の祖母たちの思いを知った。
 ふと、私は雄太の心に住みたい、と思った。以前、入所者の土屋さんが、心で見たものの声に色を付けている、と言っていた。今日だけではない、長い時間をかけて雄太とお出かけしたい、と思った。
 自分が絵具となって、色鮮やかに雄太の心を彩られたら、と願う。心の目で見た、雄太の心から聞こえる声は、喜びに満ちている。佳代は、そっと雄太の手を握った。
 プラネタリュウムを出て休憩広間でジュースを飲んでいる時、雄太は、ふいに悪夢を思い出した。正面をじっと見つめ、いつからこの悪夢を見なくなって、見ていたことすら忘れてしまったのだろう、と考えていた。
 今思い出しても怖くなかった。そればかりか、安堵すら感じている。暗闇の中、自分を膝に乗せて、後ろから抱きしめてくれている人がいる、と感じる。その柔らかで温かい肌は、父親ではない。
 雄太は、不意に佳代を見上げた。このお姉ちゃんだろうか、それともお母さんだろうか。9歳の少年は、3人一緒に過ごしていた日々が戻らないということを、既に理解していた。
 (このお姉ちゃんでも良いかな)
 あの幸せだった日々は戻らない。けれど、あの時のような幸せは、また作ることができるのだ、と悟った。頭では分からなくとも、心で知ることができた。


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