生んでくれてありがとう

緒方宗谷

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恵子

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 6月最初の飲み会の後、佳代は、千里と光一のことを小柳に相談した。小柳は光一のことを知らなかったが、彼が相当焦っているであろうことは手に取るようにわかる。
 恵子とのことを振り返ると、そんなことは沢山ある。彼女は、思い出の料理とか、何かの記念日とかを大事にする人だった。そう語る小柳の横顔は、飲み会の笑顔とは違った笑顔だった。
 それに気づいてから、佳代の顔から表情が段々と薄れ、少しさびしげに変化して、小柳から目をそらした。
 街灯だけが2人を照らす。人通りもなくさみしい道にまだいたが、前を見ると大通りへと繋がるT字路が見える。街灯の他、信号や看板の明かりが、辺りをオレンジぽい光で包んでいた。
 佳代は、T字路の手前にある十字路を右に曲がったところにある喫茶店に入ることを提案した。なぜ前妻の話を聞きたいと思ったのかは分からなかったが、駅に着くまでにこの話は終わらないだろう思い、少し落ち着いたところで聞こうとした。
 店に客はいなかった。童話に出てきそうな木造の内装、ニスも塗られていない無垢な木のテーブルには花瓶か置いてあって、生花が一輪ずつ生けてある。6人が座れるカウンターと、4人掛けのテーブルが2つだけの小さな店だ。
 珈琲、紅茶、それと数種類の自家製ケーキのみを提供する個人の喫茶店で、佳代はレモンティー、小柳はコーヒーを頼んだ。
 「それで、奥様はどういう思い出を大切になさっていたんですか?」
 うん、と静かにうなずき、小柳はゆっくりと話し始めた。
 まだ付き合う前、同じ会社に勤めていた恵子の誕生日が近いことを本人から聞く機会があった。当時、小柳は恵子に特別な感情を抱いていなかったが、何気なく何かほしいものがあればあげる、と言った。彼女は、自らがギターを弾いて歌うマイナーなソロ歌手のCDを望んだ。
 望みどおりのCDを貰えた恵子は、満面の笑みでお礼を言って、後日お返しプレゼントをする、と言った。
 数年経っても恵子は当時のことを鮮明に覚えていた。それに対し小柳の記憶は霞の奥にあって、ぼんやりとしか思い出せなかった。何かをあげた記憶はあるが、微かに覚えているのは恵子が笑顔であったことだけ。お礼が何だったかも覚えていない。
 恵子にとっては、好きな人から初めてもらった誕生日プレゼントだったし、初めてあげたプレゼントでもあった。思い出すまで許してあげない、と怒られたとき、このまま別れてしまうのではないか、という不安から、とても焦った記憶がある、と小柳は語った。
 結局思い出すことができなかった。破局する覚悟もしていた。最初に謝ってから、自分かどれだけ恵子を愛しているかを語り、恵子の良いところや好きなところを沢山伝えた。昔恵子が良く聞いていた曲の歌詞を引用し、結婚してほしい、と婚約指輪を渡した。
 野となれ山となれという気持ちだったが、引用した歌詞が、まさにあのCDに収録された思い出の1曲だった。お返しプレゼントが、石釜で焼いた本格ピザのお店でのランチであったことを思い出せなかったことも含めて、はにかみながら許してくれた。
 佳代は、静かにその思い出話を聞いていた。照れくさそうに笑みを浮かべながら話す姿に、まだ恵子を愛しているのだ、と察した。小柳に元妻に対する未練はなかったが、結婚までした相手だ。離婚もお互いの幸せを考えての円満離婚だったから、他人の踏み入ることのできない領域が、まだ心の中にあった。
 アドバイスは単純だ。もし思い出せないのなら誠意をもって謝罪し、その思い出に代わる何かをプレゼントする。その上で、千里が大事にしている思い出を教えてもらって、改めてそれをプレゼントして、新しい思い出を作ればいい。
 正攻法のように佳代は思った。打算的な策を巡らせることなく、誠心誠意謝って許してもらうのが、2人にとって一番良い結果をもたらす、と思えた。
 「私、実は、三崎君に内緒で会って、思い出の花がバラだって教えようと思っていたんです。
  でも、そんな必要ないんですね。そんなずるいことして、一時的に関係が修復されても、また同じようなことがあれば乗り越えられないかもしれないし。
  小柳さんの言うようにして許してもらうことができたら、以前より2人は強くなれるでしょうね」
 「早坂さんが2人に何か言うとするなら、高遠さんに、三崎君がちゃんと謝るなら許してあげてって事かな」
 小柳は今日のことを覚えていてくれるだろうか。今のこのひと時は、飲み会と完全に切り離された2人だけの時間だ。飲み会の延長線にある帰り道とも違う。佳代にとって、とても大切な意味を持つ思い出となった。
 「そうだ、この間、介護を支援するボランティア団体から、博物館の無料チケットを貰ったんです。
  もしよかったら、雄太君とどうですか?」
 佳代は、隣の席に置いていた黒いリュックから2枚のチケットを出した。この間子供たちを連れてきた団体が、お礼に、と職員に配ったものだ。
 本当は3枚もらっていた。しかし、佳代はカバンの中でチケット用の封筒を開け、1枚残して小柳に渡した。
 微笑を浮かべながらお礼を言う小柳は、チケットに書かれた展示内容を見ている。タダで手に入れたとはいえ、佳代にとっては、小柳にあげる初めてのプレゼントだ。佳代は、小柳の表情をつぶさに観察していた。喜んでくれている。そう実感できた。
 しかし、小柳は思いがけない事を言った。使用期限が迫っており、この期間中に雄太を連れていけない、と言うのだ。
 「・・・・・・・」
 佳代は愕然としながら、小柳が見せるチケットを見つめる。
 「・・・そうなんですね、残念ですけど、それは仕方がないですね」
 佳代は両手を差し出し、チケットを返してもらう仕草をした。すると、少し考えて、小柳はチケットを佳代に返して言った。
 「もし、ご迷惑でなければ、早坂さんが雄太を連れて行ってくれませんか?」
 意外な申し出だ。佳代は眼を大きく開いて見上げる。小柳はまだチケットを放さず、佳代を見つめていた。ほんの数秒であったが、とても長い時間に感じられた。
 「わかりました。
  明後日日曜日はどうですか?」
 佳代は視線を落として答え、チケットを引き受けようと指を微かに動かすと、小柳は無抵抗にチケットを放した。
 「はい、勇太に確認して、連絡します」
 微笑む小柳の返事に、佳代も微笑み返す。それから特別な会話はなかった。最後に駅のホームで挨拶をして、電車の発車と共に別れた。
 電車を見送った小柳は、携帯に表示された佳代のアドレスを見ていた。明後日のため、電車を待っている間に交換したのだ。
 佳代のように、愛に対して少し純真めいた人に出会うのは初めてだった。老人に対しても子供に対してもだ。施設で接する老人への愛情を話すとき、佳代はとてもストレートに話す。自分はどのように愛情を示したいのか、どうすれば押しつけがましくなく、それを表現し、受け取ってもらえるのかをいつも考えているように思える。
 考えていると言っても、思考している、といった感じではない。心で考えているように小柳は感じた。彼女の本質が愛情深いのだろう。
 この間、この道で雄太のことを佳代に話した小柳は、彼女は自分から離れていくだろう、と思っていた。
 佳代から恵子の事は訊かれなかった。佳代は、離婚しても雄太が頻繁に会いに行けることはとても幸せだ、と言う。自分が幼いころに、両親に連れられて行った旅行や遊園地の思い出が、今の自分を形成していること。覚えていない事でも、当時の写真を見ると、愛されていた、と実感できて幸せになれることを話してくれた。
 その時代時代で、人と人の間にはあるべき距離があって、それを間違うとすれ違い始める。それでも手をつないだり、声を掛け合える距離を模索すれば、新しい関係が築ける。
 雄太には両親が絶対に必要だ。前を歩いていた佳代が、立ち止まって振り返りそう言った。続けて、恵子との距離をこれ以上離すべきではないとも付け加えた。
 2人の距離感は、今がちょうど良いのだろう、と思えた。
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