生んでくれてありがとう

緒方宗谷

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風邪の蔓延2

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 この日は、1日中おう吐処理に行ったり来たりだ。佳代は5階担当だったが、日報などを書いている大阪に5階を任せ、各階の応援に従事していた。
 一日が潰れるほどおう吐が多かったわけではないが、清掃に時間がかかり、事務員、介護スタッフ、清掃スタッフ、日勤総出の人海戦術で対応した。
 時計を見ると11半過ぎ、そろそろお昼ご飯のワゴンが5階に届けられる頃だと考えた佳代は、一緒に作業していた2人のスタッフと共に5階へ戻ることにした。
 3階にいたおう吐した3人の入所者は、本来5階で見守り対象であったが、他の入所者に感染させるかもしれないことから、看護師室のある3階の広場に集められていた。
 看護師室にいたナースに声をかけてから5階に食事の準備に向い、その中の1人のスタッフが5階と3階を3往復して、3人の入所者に食事を準備した。
 幸い1人で食事ができる方々であったため、そのスタッフが3人のお世話をすればよく、お昼の準備と片付けの人員は確保できている。
 こういう状況下であることから、5階で食事した入所者はいつもの半分程度だ。5階は一時的ではあるものの、たいそうな人余り状態になった。
 すぐに配膳が終わり、やることがないスタッフたちは立ち呆けている。佳代も食事介助から外れていたため、おしゃべりをしていた。
 「そうだ、早坂さん、これで、ボタンとか手すりとか拭いてきてもらえる?休憩時間までに1階から5階まで全部できないだろうから、できるところまででいいから」
 佳代は次亜塩素酸の希釈液の入ったスプレー、未開封の紙タオル1パック、それと、空のゴミ袋を大阪から渡された。
 指示によると、電気のスイッチ、壁の手すり、エレベーターのボタンと手すり、各階居室の手すりなど、入所者とスタッフが素手で触りそうなところを拭いて回れば良いらしい。
 「アルカリ性だから、肌が荒れるからね。
  かからないように気を付けてね」
 それを聞いて手袋を装備し、佳代はすぐに5階の電気のスイッチから拭き始めた。5階は多目的室が1室あるのみなのですぐに拭き終わり、階段室へと入る扉のノブを拭いてから、階段の手すりを拭きながら4階へと下りる。
 4階には全階層で最も多い25室があり、廊下も長く、5階とは大違いだ。単純な作業だったが、25室全ての扉と長い廊下の左右に張り巡らされた手すり、延々と続く庭に面した窓の鍵を1つ1つ拭いていくのは一苦労だ。
 4階を拭き終える前に12時28分を迎えた。半から休憩だった佳代は作業を切り上げ、地下にある調理室に自分のお昼を取りに行った。
 今日のお昼ご飯は、赤魚の煮物ともやしのナムル、野菜の煮物、ほうれん草のお浸し、桃缶の桃が2口だ。毎月月末までに翌月分を頼んでおく仕組みで、佳代は全ての出勤で利用している。一律500円と安く、ひと月の間に同じメニューは絶対に出ない。薄味で佳代の舌にもあっていた。
 施設があるこの辺りは完全な住宅街で、飲み屋はあるものの、商店街にレストランが沢山あるわけではなかった。美味しいお店が何件もあることを佳代は知っていたが、施設から少し離れていたので、お昼に食べにはいかない。また、施設内の居心地もよかったので、自宅に帰って食べる気にもならなかった。
 地下に下りると、すぐにアルコールスプレーが設置されていたので、手を消毒した。テーブルに置いたまま入れ物の頭を押すと吹き出すポンプ型だったが、佳代は無理やり頭とユニホームの上下に振り掛けた。普段はそこまで行わないのだが、状況が状況だけに心配で、念を押して全身に振り掛けたのだ。
 調理室には、注文人数分のお膳が並んでいて、ご飯とみそ汁を自分で用意する仕組みだ。佳代はあまり量を食べないので、ご飯を80g程度盛った。
 スープの寸胴をのぞくと、ワカメと玉ねぎのお味噌汁だ。大好きなみそ汁ベスト3に入るミソ具に佳代は満面の笑みを浮かべて、まず具材だけを多めにすくって椀によそり、次いでスープを注ぐ。
 それを持って2階のスタッフルームに行くと、既に同時間帯に休憩するスタッフが食事を始めていた。
 話題は、もっぱら感染症の疑いがある施設の状況についてだ。佳代は、おう吐や下痢の高齢者が、それほど体調が悪い風でもないことに疑問を持っていた。本人が感じ取れないのか、そういう感染症なのか分からないが、気持ち悪くなったり、熱が出たりしない場合もある、と別の施設で感染症の発生を経験したスタッフが教えてくれた。
 また別のスタッフが言う。
 「もしかしたら、食中毒かもしれないわよ」
 夏のイメージがある食中毒だが、ノロウイルスなど冬に発生するものもある。
 佳代はそれほど気にならなかったが、今日出社したスタッフの半数以上が、自分に感染したら、と心配していた。残りのスタッフは、症状の出ていない高齢者にうつさないか心配している。佳代はというと、自分にはうつらないと楽観していた。それに、他の高齢者にうつすとも想像していなかった。考えていたのは、予防に徹するということだけだ。
 東北への思いは、地元の方々だけでなく、自分へも影響していた。あの時の経験があったからこそ、佳代は思い詰めずに済んだ。 
 1時間のお昼休みが終わって5階に戻ると、既に口腔ケアは終わっている。大阪の指示で、テーブルと床に次亜塩素酸の希釈液をスプレーして拭いていくと、フロアには鼻をつく臭いが、すぐに充満した。
 「大分濃いめに作ったから、窓を開けて」
 この施設の窓は、ベランダに出る開口部を除いて、全てがほんの少ししか開かないように固定されている。この時までそれを知らなかった佳代は、感心しながら窓を開けていく。 
 「ちょっと、寒いわよ」
 関田さんが声を上げたので、吹き込む風が関田さんにあたる窓を探し出して、そこだけ閉めた。
 大阪が清掃スタッフの持つ携帯に電話をすると、吐しゃ物の清掃は終わっているとの返事があった。それを受け、5階の見守り担当者は、通常の勤務に戻ることになった。佳代は各階の除菌が終わっていなかったため、大阪にそれを伝えて、下に下りて行った。
 4階を拭き終わり、3階2階と拭きすすんでいく。3階に集められていた数人の入所者を除いて、高齢者の姿は見えない。感染症の発生に関する話は各部屋に伝わっており、誰も出てこようとしないのだ。
 いつも庭で姿を目にしていた、絵を描くことが好きな土屋さんもいない。もう春を迎えて、青々とした若い葉に木々がおおわれている。喜び騒ぐように風に揺れ、カサラカサラとたてる音に、本来なら佳代も心をウキウキさせるはずだった。
 (そういえば、こんな気持ちになったことがあったな)
 幼稚園の時のことだ。家でお昼寝をしていた佳代が不意に目を覚ますと、一緒に寝ていたはずの祖母がいなかった。家中を探したが見当たらず、泣きながら「おばあちゃ~ん、おばあちゃ~ん」と呼び続けていた記憶だ。
 普通、まだ幼い子供を1人にする家庭はないし、同然佳代も1人ぼっちになったことはない。ひっそりと静まり返った電気の消えた家は、自分が知っている家の姿ではなかった。見慣れないこの閉ざされた空間が、永遠に続くのではないかと怖くて怖くて仕方がなかった。
 祖母はすぐに帰ってきた。佳代が寝たのを利用して、夕食の材料を買いに近くのスーパーに行っていただけだ。
 施設の高齢者と話していると、永遠にほのぼのした時間が続くのだと錯覚することがある。しかし、そんなことはないのだ。
 ご高齢であっても、土屋さんのように品格を失わない方や、ボケてしまっていても可愛らしさを失わない安村さん。誰もいない庭を見つめていると、皆さんがいつかは亡くなってしまうのだと、突然に思い出させられる。
 後日、幸いにも重大な病気ではないことが分かった。若者と比べて抵抗力の低い高齢者がウィルスにさらされたとき、ただの風邪であっても危険であるということを、身をもって体験した。
 新芽が萌ゆる季節だというのに、少し悲しい気持ちになる佳代であった。
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