生んでくれてありがとう

緒方宗谷

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理想と現実

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 心に大きなモヤモヤがある。霧がかったような、言語化できない気持ちがモヤモヤと立ち込めている。
 施設に雇われた当初から、全く会話の成立しないある方を担当することが度々あり、過度のストレスにさらされていた。
 その方は、攻撃的な内容をブツブツと1日中つぶやいている男性だった。最初の仕事は昼食の介助を行うことだったが、ミキサーにかけられて粥状になったおかずをスプーンにすくって口に運んでも、全く食べようとしない。
 初めて担当した時、無理に食事をさせようとすると怒り出し、つねってくると聞いていたで、佳代は隣に座ってほとんど何もせず、作り笑顔で話を聞いているだけで終わってしまった。
 「何てことするんだ!!いやね、出ていけ、けれども、旦那から、気の利いた、明日の、死ね、見たもんだから」
 何を言っているのか、さっぱりわからない。完全に破たんして、全く文章として成立しない話を聞かされ続け、佳代の脳は混乱していた。頭がクラクラしだし、胸がムカムカして車酔いのような症状を感じ、絶えず吐きそうだった。
 この松本さんという色黒の男性は、それほど高齢には見えなかったが、完全に社会生活が行えないだろうと一目で見て取れた。
 見た目は中年か初老。一重で細いキツネ目、髪は白髪が混じっているもののフサフサとしていて、染めていないようだ。
 目じりやほほを見ると、濃い褐色の肌に深いしわが長々と刻まれている。加齢でしわができたというより、長年太陽光にさらされたことにより、紫外線A波B波の直射によるダメージの蓄積のように思われた。肌が黒いので目立たないが、シミやそばかすも多い。
 それもそのはずで、この男は、若いころは大のサーフィン好きで、毎年のように海に行っていたし、冬の間も日焼けサロンに通うような生活を送っていたらしい。昔流行ったガングロやヤマンバと並んで立っても、引けを取らない黒さだ。
 松本さんの言葉が途切れるたびに、声をかけながらスプーンを口に運んでやるのだが、聞いた直後なのに思い出せないほど全く意味をなさない言葉を発しながら、キョロキョロとあたりをうかがい食べてくれない。
 本当にお腹がすいているときは、ブツブツつぶやきながらも、口に運んだ食事はちゃんと食べてくれると聞いていたが、今日は全く食べてくれない。
 もし食べなくても、おやつの時間に栄養豊富なミルクセーキのようなジュースを飲ませるので問題ない。だが、この時の佳代はそれを知らなかったので、私のせいで松本さんが1食抜いてしまうと本気で心配した。
 お茶やみそ汁を勧めてみても、全く反応しない。口をつぐんだりそっぽを向いたりという拒否するそぶりも見せず、ブツブツつぶやく。結局その日の昼食は、一口も食べてもらえることなく終わってしまった。
 「大丈夫ですよ、おやつに栄養のあるジュースを飲ませるし、昼食べなければ、大体夜はしっかり食べるから」
 その日のリーダーは、そう言って落ち込む佳代を慰めた。
 「あの方は、もう1日中ああなんですよ。
  まともに聞いていたら、頭がおかしくなるから、聞き流してください」
 佳代は精神的ダメージが大きすぎて、弱々しい返事しか返せない。
 その日のリーダーは豊橋という男性で、松本さんと同じ56歳だった。色白の肌にフサフサした総白髪といった風貌で、何から何まで松本さんとは正反対に見える。
 常にゆっくりと丁寧に話し、紳士的な態度で接してくれる豊橋は、大阪と並んで対人しやすいリーダーだ。淡々としていて話す内容が理路整然としているので、大阪より話が理解しやすい。
 つらそうな佳代を察してか、豊橋はフロア全体の見守りを指示した。本来なら洗い物をして、テーブルを拭いたり床を掃いたりするか、口腔ケアをする時間帯なのだが、少し休めるようにしてくれたのだ。
 すべての席が埋まり、あれだけにぎわっていた5階だったが、20分もするとほとんどの人が食事を終えて自室に戻っていく。いつも5階にいる高齢者も自室に誘導され、オムツ交換をしているので、ここには数人しか残っていない。
 ただ立っているだけなのに、大きくゆらゆらと揺れているのに自分でも気づけるほどフラフラの佳代は、ここでの仕事は続かないのではないかと思っていた。
 前の会社にも多少会話にならない人はいた。大抵はわざと話を微妙にずらしているような人で、本来佳代がしなくてもいい仕事を自主的にすると言わせようとしているとか、何かしらの意図が見透ける人だ。
 結構敏感に察することのできる佳代は、会話の初めからすぐに気付き、誘導する言葉を追うことはせず、協力できる範囲で協力し、できないことはできないと理由を述べてあしらっていた。
 自分がやるべきだと思った仕事はとことんやったが、それ以外には目もくれなかったし、出世とか昇給にも興味がなかったので、上司のご機嫌をとることもなかった。
 ごくまれに論理的にしゃべれない性格の人もいたが、それは、話の内容を論理的に軌道修正してやれば、何が言いたいのか相手自身に理解させることは容易だった。
 それに対して、今日は、摩訶不思議な世界にいるようだ。どう表現したらよいのだろうか全くわからないが、しいて言うのであれば、昔みた雑誌に載っていた絵画から受けた印象に近い世界だった。
 灰色で上も下もない空間、ひとっこ一人いないのだが、何かがうごめいているような気配を感じる。どの方向にも地面があるようで、そこに立っているという感覚のみがあり、それだけが唯一自我を保つ拠り所。そんな世界に自分が一人でいるようで、とても不安になる。
 その後、度々松本さんを担当することになるのだが、リーダーが鳥島だったときは最悪だ。無秩序な罵声を松本さんから浴び、うまく対処できないことで鳥島からも罵声を浴びた。
 佳代にしてみれば、こんなにも頑張って松本さんに尽くそうとしているのに、本人はそんなことお構いなし。介助を受けようとせず、睨みつけたり掴み掛ったりしてくる。
 「気持ちがこもっていないから、そんなことになるのよ。
  私だったら、そんなことにならないわね」
 少し離れたところで、聞こえるように鳥島が口を開く。話しかけている相手は痴ほう症の入所者なので、何を言っているか分からないはず。だから佳代に言っているのは明白だ。
 あからさまに佳代をなじっている。普段なら気にも留めないのだが、松本さんから受けた心の傷がえぐられて、本当につらい思いをする1日だ。
 鳥島のような人には何タイプかある。1つ目は、心根が弱くて、人を攻撃することで自己肯定感を得て安心しようとするタイプ。2つ目は、強権的で支配欲が強く何でも自分の思い通りにしたいタイプ。3つ目は、実力があって何でもできるものだから、そのレベルでできない他者を見て苛立ち、自分と同じレベルでできないことを非難したり、やらせようとするタイプ。
 鳥島は、3つ目に近いこともあるのだが、大抵は1つ目のタイプに思える。少なくとも松本さんには近づこうともしないし、松本さんをお世話しているところを見たことがない。
 新人で、右も左もわからない格下の相手を見つけて、自分は相手より上に立つ人間なのだとマウンティングする。そうすることで自ら自分自身の存在価値を認めようと試みているようだ。
 佳代は初日に松本さんというとんでもない洗礼を受けることになった。入社から月を経るごとに従い、その洗礼を受ける日は徐々に増えていった。多くの新人スタッフは、松本さんの食事介助を経験して、辞めることを決意するという。
 中途半端に何か月か続けて辞められてしまうより、すぐに辞めてもらった方が、無駄に教える手間も省ける。口には出さなかったが、鳥島はこの考えで多くの新人を潰してきた。鳥島一人の一存で、佳代はこの施設でやっていけるのかどうかを試されたのだった。

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