生んでくれてありがとう

緒方宗谷

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老いない部分と老いる部分

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 時々、入所者たちを見ていて、すごいと感心することが佳代にはあった。
 例えば、普段はしゃべることができず、外を眺めているばかりの子供のようなおばあちゃんが、自分のやりたいことは、そつなくこなしていることに気が付いた時だ。
 ある日、口腔ケアをしているとき、菊池さんという佳代よりも少し背の低い細身の女性を洗面台に連れて行った。歯磨きセットを渡して、他の方を連れに行って戻ってくると、菊池さんは、一生懸命歯磨き粉を歯ブラシにつけようとしていた。
 チューブの中身はほとんどなく、そばにいたスタッフが代わりに歯磨き粉を出そうとしても出ない。チューブを奪い返した菊池さんは、チューブのお尻を抑えた指をキャップの方にひいて、中身を押しだそうとする。
 ボケが進行した老人の出来ることのように思えなかった。
 「菊池さんて、頭いいですね」
 佳代が、そばにいたスタッフの森川に伝えると、まさにその通りだと色々なエピソードを教えてくれた。
 お絵かきとかパズルとかは苦手らしいのだが、星や円の形の穴に、それと同じ形のブロックを組み込むおもちゃは、とても得意らしい。
 将棋や碁は分からないらしいが、オセロのルールは理解していて、色の差や順番、はさんでひっくりかすこともできる。ただやるのは最初だけで、興味を持ってくれない。 
 大体のおもちゃには興味を示さないのに、形を合わせてはめ込むおもちゃだけはお気に入りだったと教えてくれた。佳代はそのおもちゃを探してみたが見つからず、森川もだいぶ前からないと言う。
 5階にいた入所者の口腔ケアをし終えた佳代は、何人かにお絵かきやトランプをしないかと声をかけた。興味を示した方にそれらを渡した後、菊池さんのところに行って、お絵かきをしないかと声をかけた。佳代がページを開くとカエルの絵が描いてある。
 「これでどーぞ」
 絵を見ているだけで反応しない菊池さんに緑の色鉛筆を渡すと、雑に少しだけ塗り始めた。すぐに塗るのをやめたので、違う色の色鉛筆を渡す。また雑に少しだけ塗ってすぐにやめる。何度かそれを繰り返し、雑ながらもカラフルなカエルの絵が完成した。
 太い線で縁取られた内側の白い部分には、多くの塗り残した部分があるものの、それぞれの色は線で仕切られた部分をはみ出るていない。塗り絵を十分理解している様子だった。
 ただ、やはり興味を示すことはなく、すぐに窓の外を眺め始めた。
 他のおもちゃをひっぱり出してきて試すものの、カードゲーム系は全滅。そもそも相手がいないのだから、遊べないのも当然だ。佳代が相手をしたかったが、他の入所者も見守らなければならないため、一人につきっきりにはなれない。
 オセロなら順番待ちの時に他の方を見渡せるし、自分の番はさっと済ませることができる。佳代が黒、菊池さんが白で始めるものの、他の入所者に呼ばれて用件を聞いて、それを済ませて戻ってくると、2分程度離れていただけなのに盤面が白で覆われていて、菊池さんは相変わらず外の景色を見ている。
 以前介護を特集したテレビを見たときの事を思い出した。出演者曰く、痴ほう症の方は、ボケて何もわからなくなっているわけではないそうだ。
 脳の一部が他の部分より早く衰えてしまったがために、記憶があいまいになったり、会話がかみ合わなくなっているだけで、完全に支離滅裂な言動を取る方でも、こっちの言っていることは健常者と同じようにちゃんと理解していることもあると言う。
 ある時、佳代が佐々木さんという女性を、洗面台に連れて行こうとした。口腔ケアの際、いつも家にいる家族のことを話してくれる方だ。まだ迎えに来ないと言って、すぐには磨いてくれず、歯ブラシをいじっている方なのだが、このときは、今テレビを見ていると、はっきりと歯磨きを断ってきた。テレビのことはちゃんと理解しているようだ。
 別の方は、話の文法も単語も前後に繋がりがなく、全く何を言っているのかわからないのだが、佳代がテーブルを拭こうとすると、目の前にあるコップを持ち上げて、笑顔で会釈をしてくれる。この方も、テーブルを拭くと綺麗になることと、拭くにはコップが邪魔になること、持ち上げると拭けることを理解していた。
 色々な痴呆症の方と会話をしていて、普段会話が成立しないような方でも、高い確率で会話が成立する単語があるということに佳代は気づいた。
 きれいや可愛いといった言葉に反応する人や、ご飯や甘い物に反応する人もいる。
 ある時、口に歯ブラシを入れようとすると、いやいやをするお婆ちゃんに手を焼いた佳代は、思わず甘くておいしいですよと言ってしまった。そうするとうんとうなずき、ぱくっと歯ブラシを加えてちゅうちゅう吸い出したのだ。
 そのままごしごし磨くように伝えてみると、難なく歯磨きをし始めてくれた。実際歯磨き粉は甘くないミント味なのだが、このお婆ちゃんには、度々甘いですよと伝えて歯磨きをしてもらっている。
 他にも、きれいですねと言うと喜ぶ方には、磨くともっときれいになれますよとか、健康や体に良いという言葉に反応する人には、歯を磨くとお口の健康に良いと伝えて磨いてもらう。
 磨いてくれないことも多いが、それでも何もしなかったときより成功率は上がった。
 口腔ケアは大抵毎日担当しているが、歯磨きしようと声をかけた時はやる気があるようでも、いざ歯ブラシを渡すと、口に入れようとしない人がいる。大抵特定の方達なのだ。歯ブラシを眺めていたり、流しの中においてしまったりしてしまう。
 会話が成立しないくらいの痴ほう症の方達で、歯磨きしないときの行動は共通している。
 してくれる日としてくれない日があることを疑問に思った佳代は、森川に聞いてみた。
 「どうしてしてくれないんだろう」
 「わからないのよ、どうしたらいいか。
  突然気が付いたりして、してくれたりするの」
 良い答えは返ってこなかった。
 表情を見ていて、拒否しているわけではないことは、佳代にも分かっている。
 「お願い、歯磨きして」
 「うん」
 歯磨きが何かは分かっているのだが、歯ブラシを口に含んで歯を磨くということが思い出せないらしい。
 「みんな家族が持っていっちゃって、みんな無いの」
 すぐに磨いてくれそうな方々を終えて、もう一度チャレンジした佐々木さんは、機嫌よく洗面台に来てくれた。
 「じゃあ、みんなが戻ってくるのを待って、返してもらいましょうね」
 最初は、歯ブラシをいぶかしげに眺めるだけだったが、ふと唇を指さしてしゃべりだした。
 部分入れ歯か歯のことを言っているのだと思った佳代は、歯ブラシを持つ手を誘導しながら、話を合わせて返答する。
 「部分入れ歯は、洗っていますよ。
  お口を開けて、歯を磨きましょうよ」
 急に理解したかのように鏡を覗き込む。上下の歯を合わせたまま唇を横に開いて、ゆっくりと歯ブラシを歯に当て、磨き始めた。
 佐々木さんは、一度磨き始めるとうがいまで一人でできる。何を言っているのかわからないときもあるが、支離滅裂なことは言わないので会話も成立する。こういうところしか見ていない人がいたとしたら、ボケているようには思えない。とてもおとなしいゆっくりとした性格のお婆ちゃんにしか見えない。
 2つある洗面台が一つ空いた。佐々木さんの歯磨きはまだ終わりそうもなかったので、次のグループを連れてくることにした。
 佳代は、5階の広間で見守りの対象になっている入所者の方々を、いくつかのグループに分けていた。1つ目は、頭がはっきりしている方。2つ目は、痴ほう症だが歯磨きはできる方。3つ目は、歯磨きをするということを理解するのにだいぶ時間がかかる方、最後は、自分でできない方。
 佐々木さんは2と3の間位なので、グループ2の最後に歯磨きをしてもらっている。
 「竹本さ~ん、歯磨きしましょうよ」
 まったく無反応でうつむく顔を覗き込み、何度か歯磨きを奨めてみる。うんとうなずいたので、腕を取って立たせて洗面台へと誘導した。
 竹本さんの認知機能は良くわからない。ご飯を一人で食べているときもあれば、食べ物をすくっては皿に落とし、すくっては皿に落とすを繰り返しているときもある。ふと気が付いたように立ち上がったかと思うと、壁際に立って動かなくなることもある。
 他の方同様歯ブラシを持つまではするのだが、一向に磨こうとせず、手を持って口に誘導しようとすると、腕に力を込めて拒否する。口に物を入れたくない理由や、本能的な何かがあるのだろうか。
 磨き始めてくれさえすれば、しっかり磨いてくれる。毎日口腔ケアをしていて、歯ブラシを口に入れたがらない人たちを何度も見てきたが、佳代には、いまだにその理由が分からなかった。
 何人かのスタッフに聞いてみたが、誰もその理由を知っている人はいない。自分で入れようとしないばかりか、スタッフが歯ブラシを持って歯を磨こうとしても、顔をそむけたり口をつぐんだりする。
 最近テレビで、痴ほう症の原因の一つに、虫歯菌が歯茎から血管内に入って脳に到達し、脳内で繁殖することがあると言うのをよく聞く。認知機能を回復させられないまでも、しっかりと歯磨きをして、脳の衰えを遅らせられないかと佳代は考えていた。
 ただ、頭がはっきりしているおじいちゃんおばあちゃんには言って分かってもらえるが、少しボケが出てきた方は、聞いてくれないことの方が多い。うまく磨いてくれない方は、いつも磨いてくれなかった。
 かといって、無理やり磨かせるわけにはいかない。たまに保育施設で、既に体罰の域にまで達した、行き過ぎた指導があったと報道されることがあるが、老人のため子供のためと自分よがりなことを押しつけるから、体罰に近づいていくのだろう。
 自分が働くこの施設に、そのような風潮がなかった事を幸いだと思う佳代だった。

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