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最近の佳代には目標があった。あまり自分が食事介助する機会がない渡辺さんという男性に、ご飯を完食してもらうのだ。
11月に入って、2回目のチャンスがお昼に来た。いつも目をつむっているものの、声をかけると返事をしてくれる。
「はい、あーん、ご飯ですよ。はい、あーん、さばですよ。お茶飲みましょうね」
他のスタッフが行う渡辺さんへの食事介助を見ていると、完食しそうでし切らない日が多く、佳代も半分から8割程度しか食べてもらえない。しかし、男性だけあって口が大きいので、普通のカレースプーンにご飯を盛っても口に収まる。
いつも動かないし話さないので5階での介護はやりやすく、スタッフの間では人気のおじいちゃんだ。
佳代は、いつも8割程度しか食べてもらえていないので、何とか完食をしてもらおうと思ったのだが、それには不思議なきっかけがあった。
ある日スタッフが足りず、佳代は先輩の大阪と共に渡辺さんを居室に連れて行き、おむつ替えをすることになった。
普段寝ているような渡辺さんだが、こちらの問いかけをちゃんと理解しているようで、はい、そうですね等、短いながらも的確な返事をする。それほど多くない髪は完全に白髪で、見た目はインテリ風だ。
背が高いもののやせ型なので、ベッドへの移乗は、女二人で難なく行うことができた。
「なんか、可愛いんですけど」
ベッドに移すとき、怖いよ怖いよと言ったのが印象的で、不意に佳代の母性にスイッチが入ってしまう。小動物のようにおびえた様子が可愛くて、なんか守ってあげたい気分なる。
大阪が足を持ち、佳代が渡辺さんの後ろから脇に手をまわして持ち上げると、想像以上に軽く感じた。身を縮めて佳代の手を握る。落としたりぶつけたりしたらどうしようと、心配する気持ちが渡辺さんに伝わっているのか、ごつごつした大きな手で、強く佳代の手を握っている。
細心の注意を払ってベッドに移し、大阪の指示に従い行ったり来たり、汚れたおむつを包む新聞紙、お股を洗うための水を入れたペットボトル、ウェットティッシュ、替えのオムツとパット。
佳代にとって初めての作業だったから、基本的には見ているだけであったが、ゴム手袋をして待機していた。
「体を傾けてからズボンをずらて・・・・」
脱がし方の説明をしながら、大阪が手際よく脱がしていく。
左腰を上にした横向きに寝かせてズボンをずらし、逆向きにしてズボンをまたずらす。オムツを外すと、男性の部分に何かこんもりとした白い塊が乗っていて、山になっている。大阪が説明しながらそれを外して、床にひいた新聞紙の上に捨てる。
本来ならオムツの内側に敷くパットなのだが、1枚では尿がパットから漏れてしまうので、男性の部分に巻きつけていたそうだ。確かに、大量に尿を吸って厚くなっているのが見てわかる。新聞紙に捨てた時のドサッという音にも重みを感じた。
普段見慣れていない部分を見るのは躊躇したが、特別動揺はなかった。代わりに不思議な親近感を覚えたくらいだ。ちょっとした精神的なつながりを感じたというか、愛を感じたというか。
相手はおじいちゃんだったが、赤ちゃんの世話をする母親を見た時のような感覚を、佳代は自分に対して感じた。
多少便をしていたので、お尻からうち腿にかけて汚れていたが、大阪は躊躇なくパットを外して捨て、ウェットティッシュでうち腿とお尻を拭き始めた。
(いやぁ~、手についたらどうしよう)
佳代は、失礼にも自身の肌が汚れるのを心配してしまう。
結構な量のウェットティッシュを使ってきれいにふき取っていく様を、瞬きせずに見つめていた。はっきりした二重の大きな瞳を見開いて見学する様子に、大阪は大いにやる気があるように感じたようだ。
「早坂さんもやってみたい?」
「はい、やってみたいです」
「じゃあ、次回やってもらいましょうか」
鳥島を除いて優しいリーダーが多い施設だと思っていたが、その中でも一番やさしい感じのリーダーだと千代は思った。この人の下なら、大分精神的に疲れる作業でもそこそこできる気がする佳代は、ついさっき便の処理に躊躇したことも忘れて、やるという意思を示した。
「でも、なんか移乗は怖いですね」
パットを股に当てるときの注意と、おむつのマジックテープの貼る場所のレクチャーを受けながら、おどおどと佳代は答えた。
「うん、すぐに一人ではやらせない。特に男性相手だと、人によっては一人で持ちあがらないかもしれないし、何かあったら大変だから」
手袋を外して新聞紙の上に捨てて丸めると、廃棄物置き場に案内された。地下にあるそれは、打ちっぱなしのコンクリートの壁に囲まれた飾り気のない部屋だった。だが、飲食系のテナントビルで見るような汚いごみ捨て場とは、比べ物にならないほどきれいだ。
佳代が住むマンションにあるゴミ保管室も綺麗な方だが、ここに異臭やゴミ汚れは全くない。大きなポリバケツが並んでなければ、ゴミ捨て場であることすらわからない。
壁を隔てた隣には、いくつかの洗濯機が並んでいる。別の階にも洗濯ルームがあり、お風呂場にも洗濯機が置いてあったので、ここの洗濯機は清掃用具用なのだろう。
オムツなどは新聞紙にくるんで捨てないと回収してもらえないらしく、注意するように言われた。
結構な時間が過ぎていた。1人のオムツを換えただけなのに1時間近い。大阪の手際を見ると、1人ならだいぶ早くやってのけるのだろう。1人で早くやる自信はなかったが、近いうちにやることになるのだからと覚悟した。
5階でのトイレ介助で、入所者に立たせておいてズボンを脱がすのも、慣れるまで時間がかかったが、ベッド移乗はもっと時間がかかる。半分以上のスタッフは学校で移乗の仕方を習った有資格者であるが、佳代は違う。
実践を積んで一人立ちできるまでになれば、もっと楽しく働けるだろうと思うものの、これは命を扱う仕事だ。一つ一つの行動に重い責任が伴うと思うと、先輩方がいない場所での作業は、意識的にしろ無意識的にしろ避けてしまうと、自己観察している。
(多分ずっとそんな感じなんだろうな)
実際に、この傾向はこの先何年も続くことになった。当時の佳代には思いもよらないことであったが、会社のように厳しい上下関係や昇進なども関係ない立場は、少し少しの成長を楽しむことができるいい土壌になった。
一時期、徹底的に効率性を求める啓発本を読んだことがあったが、ああいうのは佳代に合わない。結果としてOL時代は管理者として成果を出したが、性格か才能か、そういう本を読まなくても成果は出せていたと過去を振り返って佳代は思う。逆に、自分の持てる能力を押し殺していたとすら思っていた。
実際、OL時代に得たものは成長ではなく、過去の成長や、この程度のことなら私にはできるとの確信を、佳代に再確認させたに過ぎない。何か、これといって残ったものはなかった。
どちらかというと、仕事をしているときよりも、休日にやっていた料理や趣味の勉強の方が、言葉には表せられない価値を彼女に残した。
(もしかしたら、ただの食いしん坊なのかもしれないけど・・・)
勤務時間は半分しか終わっていなかったが、いつの間にか半分も終わっているという感覚だ。ただ、いつもと違って、佳代はだいぶ疲労感を感じていた。オムツ替えという初めての作業をしたからだろう。
この1日の体験が、渡辺さんを好きになるきっかけだった。"自分が食事介助の時は、なるべく多く食べてもらって、あわよくば入所したときよりも元気にしてやる"。佳代にちょっと野望じみた思いがこみ上げ始め、その後、他の入所者全員に対してもそういう野望を秘める第一歩となった。
11月に入って、2回目のチャンスがお昼に来た。いつも目をつむっているものの、声をかけると返事をしてくれる。
「はい、あーん、ご飯ですよ。はい、あーん、さばですよ。お茶飲みましょうね」
他のスタッフが行う渡辺さんへの食事介助を見ていると、完食しそうでし切らない日が多く、佳代も半分から8割程度しか食べてもらえない。しかし、男性だけあって口が大きいので、普通のカレースプーンにご飯を盛っても口に収まる。
いつも動かないし話さないので5階での介護はやりやすく、スタッフの間では人気のおじいちゃんだ。
佳代は、いつも8割程度しか食べてもらえていないので、何とか完食をしてもらおうと思ったのだが、それには不思議なきっかけがあった。
ある日スタッフが足りず、佳代は先輩の大阪と共に渡辺さんを居室に連れて行き、おむつ替えをすることになった。
普段寝ているような渡辺さんだが、こちらの問いかけをちゃんと理解しているようで、はい、そうですね等、短いながらも的確な返事をする。それほど多くない髪は完全に白髪で、見た目はインテリ風だ。
背が高いもののやせ型なので、ベッドへの移乗は、女二人で難なく行うことができた。
「なんか、可愛いんですけど」
ベッドに移すとき、怖いよ怖いよと言ったのが印象的で、不意に佳代の母性にスイッチが入ってしまう。小動物のようにおびえた様子が可愛くて、なんか守ってあげたい気分なる。
大阪が足を持ち、佳代が渡辺さんの後ろから脇に手をまわして持ち上げると、想像以上に軽く感じた。身を縮めて佳代の手を握る。落としたりぶつけたりしたらどうしようと、心配する気持ちが渡辺さんに伝わっているのか、ごつごつした大きな手で、強く佳代の手を握っている。
細心の注意を払ってベッドに移し、大阪の指示に従い行ったり来たり、汚れたおむつを包む新聞紙、お股を洗うための水を入れたペットボトル、ウェットティッシュ、替えのオムツとパット。
佳代にとって初めての作業だったから、基本的には見ているだけであったが、ゴム手袋をして待機していた。
「体を傾けてからズボンをずらて・・・・」
脱がし方の説明をしながら、大阪が手際よく脱がしていく。
左腰を上にした横向きに寝かせてズボンをずらし、逆向きにしてズボンをまたずらす。オムツを外すと、男性の部分に何かこんもりとした白い塊が乗っていて、山になっている。大阪が説明しながらそれを外して、床にひいた新聞紙の上に捨てる。
本来ならオムツの内側に敷くパットなのだが、1枚では尿がパットから漏れてしまうので、男性の部分に巻きつけていたそうだ。確かに、大量に尿を吸って厚くなっているのが見てわかる。新聞紙に捨てた時のドサッという音にも重みを感じた。
普段見慣れていない部分を見るのは躊躇したが、特別動揺はなかった。代わりに不思議な親近感を覚えたくらいだ。ちょっとした精神的なつながりを感じたというか、愛を感じたというか。
相手はおじいちゃんだったが、赤ちゃんの世話をする母親を見た時のような感覚を、佳代は自分に対して感じた。
多少便をしていたので、お尻からうち腿にかけて汚れていたが、大阪は躊躇なくパットを外して捨て、ウェットティッシュでうち腿とお尻を拭き始めた。
(いやぁ~、手についたらどうしよう)
佳代は、失礼にも自身の肌が汚れるのを心配してしまう。
結構な量のウェットティッシュを使ってきれいにふき取っていく様を、瞬きせずに見つめていた。はっきりした二重の大きな瞳を見開いて見学する様子に、大阪は大いにやる気があるように感じたようだ。
「早坂さんもやってみたい?」
「はい、やってみたいです」
「じゃあ、次回やってもらいましょうか」
鳥島を除いて優しいリーダーが多い施設だと思っていたが、その中でも一番やさしい感じのリーダーだと千代は思った。この人の下なら、大分精神的に疲れる作業でもそこそこできる気がする佳代は、ついさっき便の処理に躊躇したことも忘れて、やるという意思を示した。
「でも、なんか移乗は怖いですね」
パットを股に当てるときの注意と、おむつのマジックテープの貼る場所のレクチャーを受けながら、おどおどと佳代は答えた。
「うん、すぐに一人ではやらせない。特に男性相手だと、人によっては一人で持ちあがらないかもしれないし、何かあったら大変だから」
手袋を外して新聞紙の上に捨てて丸めると、廃棄物置き場に案内された。地下にあるそれは、打ちっぱなしのコンクリートの壁に囲まれた飾り気のない部屋だった。だが、飲食系のテナントビルで見るような汚いごみ捨て場とは、比べ物にならないほどきれいだ。
佳代が住むマンションにあるゴミ保管室も綺麗な方だが、ここに異臭やゴミ汚れは全くない。大きなポリバケツが並んでなければ、ゴミ捨て場であることすらわからない。
壁を隔てた隣には、いくつかの洗濯機が並んでいる。別の階にも洗濯ルームがあり、お風呂場にも洗濯機が置いてあったので、ここの洗濯機は清掃用具用なのだろう。
オムツなどは新聞紙にくるんで捨てないと回収してもらえないらしく、注意するように言われた。
結構な時間が過ぎていた。1人のオムツを換えただけなのに1時間近い。大阪の手際を見ると、1人ならだいぶ早くやってのけるのだろう。1人で早くやる自信はなかったが、近いうちにやることになるのだからと覚悟した。
5階でのトイレ介助で、入所者に立たせておいてズボンを脱がすのも、慣れるまで時間がかかったが、ベッド移乗はもっと時間がかかる。半分以上のスタッフは学校で移乗の仕方を習った有資格者であるが、佳代は違う。
実践を積んで一人立ちできるまでになれば、もっと楽しく働けるだろうと思うものの、これは命を扱う仕事だ。一つ一つの行動に重い責任が伴うと思うと、先輩方がいない場所での作業は、意識的にしろ無意識的にしろ避けてしまうと、自己観察している。
(多分ずっとそんな感じなんだろうな)
実際に、この傾向はこの先何年も続くことになった。当時の佳代には思いもよらないことであったが、会社のように厳しい上下関係や昇進なども関係ない立場は、少し少しの成長を楽しむことができるいい土壌になった。
一時期、徹底的に効率性を求める啓発本を読んだことがあったが、ああいうのは佳代に合わない。結果としてOL時代は管理者として成果を出したが、性格か才能か、そういう本を読まなくても成果は出せていたと過去を振り返って佳代は思う。逆に、自分の持てる能力を押し殺していたとすら思っていた。
実際、OL時代に得たものは成長ではなく、過去の成長や、この程度のことなら私にはできるとの確信を、佳代に再確認させたに過ぎない。何か、これといって残ったものはなかった。
どちらかというと、仕事をしているときよりも、休日にやっていた料理や趣味の勉強の方が、言葉には表せられない価値を彼女に残した。
(もしかしたら、ただの食いしん坊なのかもしれないけど・・・)
勤務時間は半分しか終わっていなかったが、いつの間にか半分も終わっているという感覚だ。ただ、いつもと違って、佳代はだいぶ疲労感を感じていた。オムツ替えという初めての作業をしたからだろう。
この1日の体験が、渡辺さんを好きになるきっかけだった。"自分が食事介助の時は、なるべく多く食べてもらって、あわよくば入所したときよりも元気にしてやる"。佳代にちょっと野望じみた思いがこみ上げ始め、その後、他の入所者全員に対してもそういう野望を秘める第一歩となった。
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