愛するということ

緒方宗谷

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50.病院

3.事件当日

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 事件があったあの日、病院は騒然となった。救急病棟に運ばれた陸を見て、有紀子達は事の重大さに心底身を震わせた。
 レントゲンを撮った陸は、そのまま手術室に運ばれていく。テレビでよく見る光景だ。扉の上の手術と描かれた部分が赤く点灯した。
 廊下の長椅子に座って顔を両手で覆った有紀子は、震えながら大きく息を吸った。
「どうしよう、陸君が死んだらどうしよう」
 加奈子が肩を抱いて励ます。有紀子は嘆き続けた。
「そうだ! 私輸血してくる」
 不意に立ち上がった有紀子の左手を加奈子が引っ張って制止する。
「輸血はいっぱいあるから。大丈夫だから。それに陸君B型でしょ? 有紀子はABじゃない」
「励ましてくる」
「手術中はここで励まそう」
 またも加奈子が優しく制止する。
 相当取り乱した様子の有紀子を見て、里美は思った。
(何で私こんなに冷静なんだろう)
 里美は嫌な気分になった。こんなにも取り乱すのはどうかと思ったが、陸のために何かできないかと模索し、思いついたことを実行するという行動力は、里美には無い。問題に直面したら、それが解決するまでじっと耐える。それが里美の性格だ。
 結局アメリカ時代も耐えに耐えるばかりで、その鬱憤は日本に帰って来てから曾祖母に受け止めてもらったのだ。
 陸と有紀子をくっつけたいと加奈子に頼まれた時、里美はとても不満に思っていたが、陸を想って取り乱す有紀子を見て、心の底から加奈子に協力しよう、という気持ちにようやくなれた
 手術が始まってしばらくして、陸の母親の奈々子が駆けつけた。その表情の薄皮一枚の裏側は、気が狂いそうなほどの心配に覆われていることだろう。だが、気丈にも平静を装い、状況の説明を有紀子に求めた。
 ここにきて、ようやく有紀子は落ち着きを取り戻して、度々嗚咽しながらも途切れ途切れ事の顛末を説明した。
「お母さんですか?」手術室から出てきた医師が言った。「いま縫合手術をしました。後頭部を1か所4針縫ったんです。手術前にレントゲンを撮ったんですが、多分問題ありません」
「息子は、息子は……」
 声が続かない奈々子に、医師は優しく言う。
「大丈夫ですよ、命に別状はありませんから。詳しいことはこれから精密検査をしないと分かりませんけど、たぶん大丈夫です」
 その日の内にCTとMRA検査が行われた。両方とも問題なかった。脳波検査も問題ない。脳挫傷も脳内出血や腹膜下出血等もない。完全に外傷だけだという診断結果に、奈々子も有紀子たちも安堵した。
 後は目覚めるだけ。だが、陸は何日経っても目覚めなかった。


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