愛するということ

緒方宗谷

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24.陸の告白

3.価値

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 よくよく考えると、17年の人生の中で、記憶喪失になってから今日まで10年以上経つ。もう記憶が無くなってからの時間の方が長いのだ。こういう事態でなくとも、3、4歳くらいまでの記憶が無いのは当たり前だから、弊害があるのは6年くらい。あって無いようなもの。
 陸にとっては、記憶が無い今の方が自分であった。無くした記憶になんか価値は無い。陸の記憶を取り戻そうとしていたのは、彼の両親と有紀子と加奈子の4人。その中に当の本人はいない。有紀子は空回りしていただけなのだ。
 実は、陸は言わないだけで、みんなの頑張りを苦痛に感じていた。有紀子が気が付いた通り、今の陸にはこの10年間が全てであり、それが自分なのだ。
 記憶喪失から復帰すると、無くしていた間の記憶は無くなるなんて話は、大抵だれでも知っている。だから、当然陸も知っていた。陸は怖かった。自分が消えて無くなることになるのだから。
 加奈子も気が付いていない。陸がここまで思い悩んでいることに気が付いている者は誰もいない。両親ですら分かっていなかった。
 こと母親に至っては、幼い時分の陸を取り戻すことが悲願だった。記憶を失った陸にとって両親とは、“私達は両親だ”と教えてもらったから“両親”ということになっているのであって、そうでなければ感覚的に他人だった。
 もし、他の男女を両親だと言われれば、それを信じただろう。陸に2人が両親だという確証は、記憶上にはない。ただただ過去の写真に写っている2人と自分の姿から、そう認識出来るに過ぎない。
 そういう感覚でいることを両親は分かっている。父親の雄大は気にしなかったが、母親の奈々子は悲痛に感じた。
 お腹を痛めて産み育てた我が子が、母である自分の記憶を有していない。しかも他人の子供の様に私に接する、と感じて驚愕していた。溢れる無限の愛が、この女は赤の他人だというオーラに阻まれて弾かれる。
 菜々子は、生活の中であれこれ思い出を話す度に、「知らない」「分からない」と言われて、密かに傷ついていた。だが、心無い一言と言っては陸が可愛そうだ。それ以外に答えようがない。
 その度に見せる母親の表情は、陸を傷つけていた。双方気が付かない内に相手を傷つけていたのだ。
 ただ、苦痛には慣れるもので、数年経つと奈々子は苦痛の顔を見せなくなったし、陸も思い出の有無を何とも思わなくなった。特に陸にとっては、10歳以前の自分よりも今の自分の方が大切だった。両親や友達との新しい思い出の方に価値があった。
 東京に戻ってくるまで、記憶が戻ったらどうしようなんて思ってもみていない。戻れば戻ったで良い。そう思っていた。だが今は違う。いつの間にか加奈子に魅かれるようになってからは、記憶が戻るのを恐れるようになった。
 どうせ今記憶が戻るわけではないだろう。初めはそうタカをくくっていた。だが、卒業まで1年ちょっとしかない。
 もし卒業してから記憶が戻ったら、東京での1年半も忘れてしまう。もちろん10歳以前に陸と加奈子は知り合っていないから、陸の中から加奈子の記憶がすっぽりと無くなってしまうだろう。彼女に感じた恋心も交わした言葉も何もかも。

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