アルキュオンの不幸

らい

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-翠- 1

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ミーン、ミーン、ミーン

陽炎の揺らめく、うだるような暑さの中でもセミの鳴き声はよく響く。

「元気だなぁ……この暑い中」

参ってしまいそうなほど照りつけてくる太陽の下、すいは見つけた鳴き声の発信源を見上げる。

暑い中、こんなに煩く鳴かれたらたまらない、なんて人もいるだろうが、どれだけ煩く鳴かれようと、虫は好きだ。というよりは、翠は動物全般好きである。


――人間を、除いて。



だって、動物は、虫は、喋らない。鳴けども喚けども、言葉を発さない。吠えても嘶いても、それ以上のことはない。

”見えているものが全て”だなんて、こんなに素敵なことは無い。


というのも、翠は昔から人の心模様を”色”として感じ取ることが出来る、不思議な力を持っているのだ。しかし、色というには曖昧で、実際には「何色だ」とはできないことが多い。

例えば、喜びの、ケーキのような甘い色。
例えば、驚きの、雷のような強い色。

単色で表せるほど、人の気持ちというものは単純ではないらしい。だからって、「ケーキのようなって、どんな?」ときかれても、難しい。それはもはやインスピレーションのようなものだ。

その点、動物は簡単である。威嚇をしている犬からは塗りつぶしたような赤を感じるし、木の上で怯えている猫からは深い青色を感じる。

さっきのセミに至っては、色すらも感じられなかった。

動物って、素敵だ。こんなにも、分かりやすい。予想を裏切らない。安心できる。見えている通りの心模様でいてくれる。

ところが人間はどうだ。貼り付けた表情、纏った雰囲気、繰り出した言葉、それらと心の中が綺麗に一致することが少しでもあるものか。

他人の心が何もわからない普通の人ならば、上辺しか見えていなくても何も困ったりしないのかもしれない。だが生憎、翠はそんな「普通」を持ち合わせていなかった。

どうして、心の中を闇のように暗い色に巣食わせながら、あんなにも自然な笑みを作れるのだろう。


翠にはわからない。だから、そんな人間と付き合うくらいなら、素直な動物たちと戯れている方がよっぽど気が楽だった。

……あぁ、そうはいっても家には人間しかいないんだったな。今までに動物と戯れた経験など、どこにも思い当たらない。いっそ家で何か動物を飼ってみようか……いや、あの人が許すはずがないな。

そんなことを考えていた翠は、感じた視線によって、ようやくさっきから自分が立ち止まってセミを見上げていることに気がついた。通行人が、翠を怪訝そうな目で見ている。

……あ、怪しげな、煙みたいな色がする。そりゃ、こんな猛暑の中つっ立って電柱のセミを見上げているおかしな人がいたら気にもなるよな。虫取り網だって持ってない。いや、持っていたっておかしいよな。ここは公園でもない道のど真ん中だ。


居心地の悪い視線から逃げるように、翠はそそくさとコンビニへと向かった。



_______________________

「さきいか、枝豆、唐揚げ弁当と…ビール?買えないじゃん……」

ひんやりと涼しいコンビニの冷気を浴びながら、翠は手元のスマホに送られたメモを見ていた。

メモの送り主は、母親。
……だが、母親と翠の関係は、世間一般の親と子に見られるそれとは違っていた。

翠の父親は若くして亡くなったので、彼の家はずっと前から母子家庭だった。母親は夜に仕事に出て行き、明るくなる頃に帰ってくる。そして翠にお使いを言いつけるのだった。その後帰ってきた翠から頼んだものを受け取ったあとは、お礼もなく部屋に引きこもり、また夜になると仕事へと出て行く。翠の食事は、貯金箱のお金で翠が用意するという暗黙のルールがあるくらいで、基本的に家事もしない母親は、それこそ翠を息子とすら見ていないようだった。

母から翠へと向けられるのは、嫌悪でも怒りでもない、無関心ともまた違う負のもの。

それは「恐れ」だった。




「あ、枝豆あった。ビール…は、さすがに無理か。買わなかったらあの人、怒るかな。……怒りもしないかな」

小さな口から漏れるかすかな心の声は、誰の耳にも届くことなく静かに溶けてゆく。コンビニの無機質な入店音と、威勢の良い店員の、向日葵のような色をした掛け声だけが、依然として響いていた。
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