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第6章 勝手知ったる故郷の山

第30話 ロープ

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 テオドラは50メートルほどのロープを持ってこさせ、崖下で苦しんでいるコブレを救わんとして準備に取りかかった。

「飛龍で飛んで行けないか?」

「駄目ですよ。狭い尾根にはつけられません」

「しかし、本当に大丈夫なんだろうな?」

 観測隊の副官であるストレイフ少尉は不安を隠せない。一応アハメド医師にお伺いは立てて彼は承諾したが、それでも責任を負うのは自分だ。

「これ、ちょっと痛いんですよね」

 テオドラはロープの一端をコブレの所へ落として取って足の間に通すと、もう片方を右肩から背後に回した。ロープを持つ観測隊の面々はまるで手品でも見るようにその光景を不思議そうに眺めている。

「それじゃあ行ってきます」

 テオドラはそう言い残してロープを身体に絡ませたまま崖へ降りた。

 テオドラは股間と肩に絡んだロープの摩擦を利用しながらするすると崖を伝って降りていく。これは龍人の間では知られた方法だが、人間はまだ知らないらしい。そうしてストレイフ少尉の心配が嘘のようにあっけなくテオドラはコブレの横たわる尾根に降り立った。

「大丈夫ですか?」

「ああ。これ…」

 コブレはこの期に及んでもテオドラに良い所を見せようとして、倉庫から持ってきた乾パンの包みをテオドラに差し出した。だが、どう見ても大丈夫とは言えない状態である。

「ありがとうございます。痛いでしょうけど我慢してくださいね」

 テオドラは包みを宝物のように丁重に受け取り、コブレの腰にロープを結び付けた。

「引いてください!」

 テオドラに肩を借りたコブレは、その合図とともにゆっくりと引き上げられていった。コブレは地獄の苦しみにのたうちながら、しかい悲鳴を上げまいと必死に頑張りながらどうにか崖の上にたどり着いた。

「アハメド少佐!コブレが救出されました」

 興奮しながらストレイフ少尉は小屋に駆け込んで叫んだ。

「ラフィット、軍医にスピードが必要なのはこういう時だよ」

 アハメド医師はラフィット少尉にいたずらっぽい笑みを向けた。彼にとっては学ぶ事の多い一日であった。

「コブレの奴め。山で女相手に格好をつけるから…」

 麻酔でろれつの回らないシャラベール大尉は、コブレの不始末に苦言を呈した。山の怖さを誰よりも知っているシャラベール大尉にしてみれば、テオドラへの親切心から起きた事故というのは恥ずべき物らしい。

「その女に彼は助けてもらったんだ。自然の前には男も女もないよ」

 アハメド医師はそう言い残し、縫合をラフィットに任せてコブレの診察へ向かった。

 外に出るとコブレは戸板の上に寝かされ、観測隊はテオドラを肩車して山岳連隊の軍歌を歌いながら練り歩いている。シャラベール大尉の考えとは裏腹に観測隊はお調子者が揃っているようだった。

「楽しそうな祭りだが、患者が歌うのは感心せんな」

 体が半分潰れているコブレがあらん限りの声で歌っているのを見てアハメド医師は苦笑した。

「どうやら内臓は無事らしい。死ぬほど痛いが死にはせん」

 軍歌の響く中、戸板に乗ったコブレはアハメド医師の見立てを聞いてにやりと笑った。とにかくアハメド医師の手術によってシャラベール大尉もコブレも生還した。



 数日後、飛龍隊の本部の屋根でアハメド医師は眼下の飛龍隊の面々を見下ろすなりロープを身体に絡め、本部の壁を蹴りながら地面まで下降した。ギャラリーからは思わず声が漏れた。

「という風に、テオドラは上手い事ロープを使って崖を降りて行ったんだ」

 アハメド医師はズボンが擦り切れていないか確認しながらまくしたてる。この方法は衣服を傷めるのだ。

「ロープの摩擦を利用するというのは力学的に理にかなっていますな。やはり龍人には学ぶ事が多い」

 一番これに感心しているのがベップである。早速自分も試そうと屋根に上っていく。

「縄梯子で降りるより断然早い。これは飛龍から一気に降りるのに便利だ」

 ギョームはこの龍人の知恵に戦術的価値を見ている。今のところ飛んでいる飛龍から降りるのには縄梯子が使われるが、戦闘ではその間に狙撃されるだろう。

「それで、テオドラはこの種の技術の指導の為に山岳連隊に残っているんですか?」

 テオドラはシャラベール大尉に乞われて山岳連隊に居残り、龍人の知恵のレクチャーを行っていた。だが、大変な飛行で疲れたアメジストだけが戻ってきたのはジャンヌには大いに不安であった。

「そのまま山岳連隊に引き抜かれたりしないでしょうね?」

 モーリスはその点を心配していた。テオドラが不在なので飛龍は少なからず動揺している。このまま帰ってこないと良くない影響を招くだろう。

「そうならないようにこちらも知恵を授けておいた」

 屋根から降りてくるベップを眺めながら、ブレスト司令はパイプから煙を吐いた。

 飛龍隊の予想通り、テオドラの知識は山岳連隊で大変に有難がられた。西部国境の山岳地帯に駐屯している山岳第2連隊からも将校が派遣されてくる人気ぶりである。

「どうだろう?飛龍隊での仕事がひと段落したら山岳連隊で指導をしてくれないか?」

 シャラベール大尉にテオドラは熱心に口説かれた。なにしろテオドラの知恵は山での生死に直結するので歓待ぶりは飛龍隊の比ではなく、お姫様から女神に格上げされたかとテオドラは錯覚するほどだった。

「けど、龍人には私より詳しい人は一杯居ますよ」

 その返事がブレスト司令の入れ知恵であった。事実テオドラよりずっと山に熟達した男が龍人にはいくらでも居るのだ。

「すると、君の従兄が連隊の顧問に?」

「そうです。私よりずっと頼りになりますよ」

 ブレスト司令が事前に根回しをしたのもあって、猟師をしているテオドラの従兄が山岳連隊の顧問に就任することが数日後には決定した。そうして山岳連隊を離れる朝、テオドラは病院にコブレを見舞った。

「傷は大丈夫なんですか?」

「半年もしたら復帰できるって」

 包帯で身を包んだコブレは笑った。重症ではあったが、幸い後遺症の残るような傷ではないそうだ。

「俺の故郷の村のはずれにも龍人は住んでるんだ。この際正直に言うけどちょっと気味悪く思ってた。けど、君に会って考えが変わったよ」

 コブレは申し訳なさそうに言った。法的には龍人も帝国臣民だが、現実はそう単純ではない。

「故郷へ帰ったらその人達と仲良くしてあげてくださいね」

「約束するよ」

 テオドラは嬉しかった。歴史は今この瞬間も動いていて、こうして龍人の歴史が良い方向に動いていることが分かったからだ。

「そうだ。これ食べましょうよ」

 テオドラは鞄の中から紙袋を取り出した。それはコブレがこんな姿になってまでもテオドラに食べさせようとした乾パンであった。

「ああ、砕けてる」

 想像はできたことだが、袋を開けると乾パンは砕けている。

「俺って締まらない男だなあ」

 コブレは申し訳なさそうにつぶやいた。

「あ、一つだけ残ってますよ」

 紙袋を探っていたテオドラは、無事な乾パンを見つけ出してコブレの口に運んだ。何とも言えない感情が心の奥底からあふれ出してきて、コブレの目に涙がこぼれた。

 そうしてテオドラは飛龍隊に戻った。部屋の壁には連隊長から授与された感状が飾られ、コブレから時々手紙が届くようになり、龍人が登山家にガイドとして雇われるようになって故郷の暮らしが少し豊かになったと聞かされた。後は何も変わらず飛龍隊は今日も忙しい。
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