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第6章 勝手知ったる故郷の山

第29話 山娘にゃ惚れるなよ

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 アメジストは少しずつ高度を上げながら眼前の山へとゆっくりと飛んで行った。高速で飛ぶと飛龍が消耗し、急上昇すると人間が消耗する。それを見送る眼下の人々はやきもきするが、これは何千年も飛龍と共に生きてきた龍人の知恵である。

「こりゃいかん。少し飲まんとやってられん」

 中間地点の高度2000メートルを超えたあたりでアハメド医師は寒さに閉口し、鞄の中からブランデーの小瓶を取り出して呷った。

「先生、手術の前にお酒なんで飲んで大丈夫なんですか?」

 テオドラは人と龍が最も楽に飛べるコースを慎重に守りながら、後ろのアハメド医師にぼやいた。

「この程度の酒で盲腸炎の手術をしくじるようなら俺は飛龍隊には呼ばれないよ」

 アハメド医師は小瓶を投げ捨て、防寒着のフードを目深に被っていつもの調子で笑った。アハメド医師もまた高原で先祖代々暮らしてきただけに空気の薄さは問題にならないようだった。

 一方、山頂の山小屋では問題のシャラベール大尉が高熱と痛みに呻いていた。軍医のラフィット少尉が持参したモルヒネは昨晩のうちに使い切り、シャラベール大尉は気力のみで腹の痛みに耐えていた。

「大尉、救援の飛龍が見えました!」

 飛龍が来るというので外で見張っていたコブレ伍長が小屋に駆け込んできて、シャラベール大尉に嬉しい報告をした。

「それで、医者は誰が来るんだ?」

 シャラベール大尉を看護している軍医のラフィット少尉は気が気ではない。今や自分は無力であり、シャラベール大尉が死んだ場合には責任は問われないまでも世論の批判は避けられまい。

「はい。アハメドという人だそうですが」

「あの人は獣医だぞ!」

 ラフィット少尉は青ざめた。それがアハメド医師だとしても、この状況で獣医が送り込まれるというのは責任者としても軍医としても不安にさせる話だ。

「ラフィット、心配するな。アハメド医師と言えば名医だ…」

 呻き混じりでシャラベール大尉はラフィット少尉をなだめた。シャラベール大尉はその種の焦りが死に直結する境地に生きてきただけに、死を目前にしても案外冷静であった。

「それで、どのくらいで到着する?」

「えらく飛ぶのが遅くて、昼を過ぎると思います」

「急いで飛ぶと危険だ。焦るなと手旗信号で伝えろ…」

 シャラベール大尉はまだ見ぬテオドラの意図を読んでコブレにそう命令した。コブレは早速山小屋のやぐらに登って飛んでくる飛龍にその旨を手旗信号で伝えたが、2人が手旗信号を読めないと知ったのは全てが終わった後であった。

「おい、吹雪いてきたが大丈夫か?」

 テオドラの読み通り、目的地に近づくにつれて南からの風が強くなってきた。雪が2人とアメジストの身体にぶつかって酷く寒く感じられ、アハメド医師は顔を北に向けて雪を防ごうと躍起だ。

「だから少し南から入りました。風に逆らわずに飛んだ方がいいんです」

 テオドラは冷静である。冬に高い所を飛ぶことは滅多にないが、寒さと風向きの違いに目をつぶれば飛び方は一緒だ。

 果たして、手旗信号が送られて1時間程でアメジストは山小屋の陰の広場に降り立った。手すきの観測隊が群がり、シャラベール大尉が助かるという喜びからか、久々に女を見た興奮からかめいめい声を上げた。

「静かにしてください。雪崩が起きます」

 テオドラが興奮する観測隊を一喝した時にはもうアハメド医師は鞄を手に飛び降りている。テオドラは任務を完遂し、次は自分の番だ。

 山小屋に入ったアハメド医師を見て観測隊はぎょっとした。彼らの多くはアハメド医師の事を知らず、また南方大陸人の医師が居る事を知らなかったからだ。

「近衛飛龍隊付獣医、ネメリク・アハメド少佐だ」

 少佐と聞いて観測隊は思わず全員が敬礼した。帝国軍は出自をとやかく言わないという美徳を象徴するような男が目の前に立っているのだ。

「山岳第1連隊付軍医のジャン・ラフィット少尉です」

「挨拶は後。まずは患者を拝見」

 アハメド医師は軽く返礼し、ベッドの布団を取ってシャラベール大尉の診察に取り掛かった。

「流石に良い身体をしてる。大ギョームの若い頃と争うね」

「それは光栄です…痛い!」

 シャラベール大尉はアハメド医師に触診されて悲鳴を上げた。

「痛いのは生きている証拠。そしてここが痛いのは盲腸炎の証拠だ。ラフィット、早速手術するから補佐してくれ」

 アハメド医師はいつもの調子を崩さず鞄を開き、手術道具をテーブルに並べ始めた。だが、ラフィット少尉は不安を拭えない。その道具は大半が馬用だからだ。

 一方、テオドラは下士官兵の寝泊まりする小屋の薪を積んである庇を空けてもらい、雪で風よけを作ってアメジストをそこに入れた。

「ちょっと寒いけど我慢してね」

 テオドラはアメジストの頭を撫で、薪で出入り口を塞ぎ始めた。

「やっぱり龍人は山慣れしてる」

 コブレはテオドラの振る舞いに感心した。山岳連隊の人員は多くが山育ちであり、コブレも銀嶺山脈の中腹にある寒村の生まれである。当地の人々の多分に漏れず彼も龍人を少し気味悪く思っていたが、テオドラの手際の良さはその考えを改めさせるに足るものであった。

「山にかけては私なんてひよっこですよ」

 テオドラは特に気に留めずそう言って、手術の行われている小屋に入っていった。

 だが、その次の瞬間テオドラは卒倒しそうになってコブレに抱きとめられた。木箱を並べた手術台の上でシャラベール大尉が開腹手術を受けているのに出くわしたからだ。

「関係者以外は立ち入り禁止だ。小屋でコーヒーでも飲んでな」

 アハメド医師はテオドラを一瞥だにせずあしらいながらラフィット少尉と手術を続けた。相変わらず軽口ばかり叩いているが、その目はテオドラの見たことがないほど真剣で、手つきは信じられないほど早い。

 ラフィット少尉はアハメド医師の補佐役を仰せつかったものの、言われるままに器具を渡すのがやっとだ。馬用の大ぶりなそれでアハメド医師はみるみるうちにシャラベール大尉を切り刻んでいく。

「ラフィット、軍医はスピードが第一だ。戦場だとこうしているうちに次の患者が来る。処置の遅い軍医は恨まれるし、人は無理だという獣医はもっとだ」

「しかし、ミスをしたら…」

「素早くてミスをしないのが腕だ。ほら、これが患部だ」



 一方、テオドラは下士官兵の小屋で暖炉の前の一番温かい所でコーヒーを振舞われてお姫様扱いである。何しろ観測隊はこの1か月山に留まっていて、女とご無沙汰なのだ。

「こんな高い所まで飛んでくるなんて凄いよなあ」

「しかも飛龍のデカいこと。飛んでるのは見たことがあるけどあんなにデカいとは」

 テオドラも所詮は年頃の娘なので、男達にちやほやされて悪い気はしない。だが、年頃の娘だけに腹が減っているとは言えない。少しでも軽くするために昨日から何も食べていないのだ。

「砂糖をまぶした乾パンがある。持って来よう」

 コブレがそれに気付いたのか、それとも良い所を見せようとしたのか、とにかくテオドラをもてなそうとして倉庫へと向かった。だが、帰って来たのはコブレの悲鳴だけであった。

 慌てて隊員達は外へ出た。小屋と倉庫の間の崖が歯の抜けたように1メートルほど欠けている。これは雪庇といって、雪が積もって崖からせり出しているのだ。コブレはそれを踏み抜いてしまったのだ。

 報告を受けた副官のストレイフ少尉が命綱をつけて下を覗き込むと、20メートルほども下の尾根にコブレは横たわっている。

「大丈夫か!?」

「右の手足が折れた!助けてくれ!」

 隊員達は顔を見合わせた。凍結した崖を20メートルも降りるのは困難だ。だが、コブレは身動きは取れなくとも生きている。

「どうして助けないんですか?」

 テオドラは何もできない観測隊の不甲斐なさにいらつきながらストレイフ少尉に迫った。

「不可能だ。降りて行ったら犠牲者が増える」

 ストレイフ少尉はあろう事か銃剣を持ってこさせてロープに結び、コブレに渡すように命令した。この際自殺しろということだ。

「あのくらいの崖だったら大丈夫ですよ。私が行きます」

「君が?」

 ストレイフ少尉は躊躇った。これでテオドラが遭難すれば責任を問われるのは自分であり、陸軍全体の問題になるりかねない。

「ロープを持ってきてください」

 だが、テオドラはそんな政治的な話など全く考えていない。山でそんな物は通用しないのだ。
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