焼け跡の薔薇

阿愛

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第3話 オセローの夜

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男女二色の両方を
極めてこその色道の
思わぬところに落とし穴
男一途の哀しさよ

哲は興行師として売り出し、組に貢献し始めた。そんな哲に目を細める龍之介だったが、哲の身体には異変が起き始めていた


 あの酷い敗戦から2年が過ぎた。まだ餓え死にする人間は後を絶たなかったが、それでも食糧難は最悪の時期を脱し、日本人の暮らし向きにも若干の余裕が見え始めていた。

 龍之介と哲にはそんな世間の風はあまり関係ないようだった。1年の修行を経て寿太郎親分から正式に親子の盃を貰い、すっかり龍之介を悦ばせる術を身に着けた哲はますます龍之介に寵愛され、龍之介と行動を共に喧嘩でいくつかの修羅場もくぐることで昼も夜も男を磨いて一回り大きく成長していた。

 その晩も二人は激しく交わっていた。夏の暑いさなかで、障子さえも開け放ち、蚊帳だけを吊って誰はばかることなく二人は愛を確かめあっていた。誰も二人を邪魔するようなことはできなかったろう。

 蚊帳の中で一糸纏わぬ哲は四つん這いになり、龍之介はその上からのしかかって激しく哲を責め立てていた。

「哲、イくぞ、ケツを締めろ!」

 哲の破裂しそうな程に激しくいきり立った肉棒を激しくしごきあげながら、龍之介は感極まって声を上げた。

「兄貴!俺…」

 ちゃんと返事をする余裕もなく、哲は秘穴に力を入れ、龍之介の精を迎え入れる準備をした。龍之介は快感に雄叫びを上げながら激しく腰を使い、そのまま二人は一緒に果てた。

 激しい快感と疲労で半ば朦朧としながら二人は布団に倒れ込み、枕元に置いたたらいからビールを取って飲んだ。

「哲、お前近頃シノギ(注1)の調子が良いみたいだな」

 大瓶のビールを美味そうに一息で飲み干した龍之介は言った。

「へえ、ガクタイ(バンド)は近頃景気が良いんで」

 哲もヤクザである以上、何かしらシノギをして稼がなければならなかった。愚連隊時代は専らハイダシ(恐喝)で飯を食っていたが、昔気質の寿太郎親分はカタギに迷惑をかける行為を固く禁じていた。

 最初は龍之介の手伝いの傍らにバッバの手引きで基地で行われる賭けボクシングの試合に出たり、そのついでにPX(注2)でレコード等を買ってきては知り合いに売ったりしていたのだが、やがて哲は各地の基地の酒場で演奏するバンドの手配を一手に仕切るようになっていた。

 ジャズ、カントリー、ハワイアンといった戦時中は禁じられていたアメリカの音楽は基地の外でも人気が高く、哲はこの頃には興行師として顔が売れ始めていた。

「あんなうるさいのの何が良いんだかわからねえ」

「兄貴は聞くといったら浪花節(注3)一辺倒ですもんね」

「日本人は日本の物を聞いてりゃいいんだ」

 龍之介はそういいつつも、哲が一人前の稼業人として売り出していくのが嬉しかった。

 龍之介に掘られて女性的な面が目覚めたのだろうか、この頃の哲は粗野で凶暴な面が鳴りを潜め、実に気配りの行き届く男としてマーケットの衆からも評判が良かった。

「兄貴、また元気になってきた」

 哲はいたずらっぽく笑い、龍之介の股間に手を伸ばした。今日何度目かも忘れたというのに、龍之介の大業物は力強かった。

「この、生意気だぞ」

 龍之介は空き瓶をそこらに投げ捨てると、そのまま哲にのしかかった。二人の夜はいつも長かった。

 哲は組の経営する「オセロー」というナイトクラブの2階に事務所を構え、配下のバンドを関東各地の基地や酒場に送り込んでいた。事務所には2台の電話が引かれ、ひっきりなしに鳴って忙しいことこの上なかった。

「だから、俺が渡した手紙を衛兵に見せれば話は通ってるから…」

 哲は電話でバンドのマネージャーに指示をしながらコーヒーカップを口に運んだ。この仕事は金にはなったが、一人で仕切るには忙しすぎた。

「兄貴、お客人です」

 組が助手代わりに付けてくれた次郎という若い衆が階下から呼びかけた。

「売り込みですよ」

 哲はまたか、と思った。自分を是非出演させて欲しいと売り込んでくるバンドが毎日来るが、大抵はどうしようもない酷い演奏を聞かされて時間を無駄使いするだけだった。

「通せ!」

 哲は不機嫌に叫び、基地に提出する書類を作る作業に取り掛かった。

「失礼します」

 しばらくすると、マネージャー風の怪しい中年男が事務所のドアを開けた。

「私、マネージャーの王と言います」

 王と名乗った奇妙な訛りの中年男は、被っていたパナマの帽子を脱いで挨拶をした。

「華僑か」

 哲は書類と格闘しながら興味なさげに答えた。横浜ではこの手の喋り方をする人間は珍しくもなんともなかった。

「香港の生まれです。こちらは娘のリリー」

 王が合図をすると、部屋の外で待っていたリリーなる娘が姿を表した。すらりと背の高い、20歳ほどのはっとするような美しい娘で、肩まで伸ばした栗色の髪や大きな鳶色の瞳が混血であることを強烈に訴えていた。

「母親はマカオで知り合ったポルトガル人でした。この間まで神戸で歌っていたんですが、こっちに流れてきました」

 王の説明は哲にはこの際どうでもよかった。

「何が歌える?」

「シャンソンを」

「歌ってみろ」

 哲は歌わせるのを認めた。シャンソンは進駐軍には人気とは言えなかったが、歌さえまともならこの娘は金になると踏んだからだ。

 リリーはフランス語で何曲か歌ってみせた。今まで世に出ていないのが不思議なくらい上手かった。

「使って下さい。損はさせません」

 歌い終わったリリーは切実な表情で訴えた。

「今夜早速下で歌え」

 哲は必死に無関心を装いながら、再び書類に視線を落とした。

 オセローにその日出演するバンドは既に決まっていたが、哲は上手くやりくりをして開店直後に少し時間を確保した。

 まだ客もまばらのオセローのステージにリリーが立つと、その僅かな客はどよめいた。バンドの演奏に合わせてリリーが歌い出すと今度は客たちは静まり返り、歌い終わると店の女達までが万雷の拍手をリリーに贈った。

 そんな調子で3曲歌い、リリーの出番は終わった。王が帽子を手にリリーと一緒に客席を回ると、帽子はチップでずしりと重たくなった。

 困ったのはその後に出演したバンドで、何をやっても客がわかないので哲は後で苦情を散々言われることになるのだが、当の哲はそうとも知らずに店の2階で仮眠を取っていた。

 そうして閉店近くに起き出して、次郎が徴収したチップや出演料の精算をして龍之介の家へ赴くのが近ごろの日課だった。

 だが、今日の哲は下の騒ぎに目を覚ました。不運にもリリーの直後にステージに上がることになったバンドがブーイングを受けて立ち往生しているところだった。

 哲は苦笑いしながら枕元の煙草を手に取り、マッチで火をつけた。

 窓のカーテンの隙間から漏れるネオンの明かりと、吐き出した紫煙の向こうに人影が見えた。鍵をかけた部屋のドアはいつの間にか開いていた。

「誰だ!」

 哲は布団の中に手を突っ込み、中に隠した拳銃を手に取って、布団の中から人影の方へ狙いを付けた。

「私です。リリー」

 声の主はステージを終えたリリーだった。リリー父娘にはまだ住処がないので、隣室の事務所に仮の寝床が作ってあった。

「父さんは久しぶりにお金が入ったんでお酒を飲みに出かけましたから、私が代わりにお礼を申し上げます。今日はありがとうございました」

「鍵はどうした?」

「次郎さんに頼んだんです」

 リリーはそう言ってドアを閉めた。闇に目の慣れてきた哲は、リリーが一糸纏わぬ裸なのに気付いた。

「服は?」

「お礼に服は必要ないから脱いできました。これなら武器も隠せません」

 リリーは哲の背後に回ると、首に手を回した。柔らかく、きめ細かいリリーの肌の感触が哲の背中に広がった。

 商品に手を出すのは興行師の世界ではあまり褒められたことではないが、それでもこの種の取引が盛んに行われているのも事実だった。

「阿修羅の頭の話なら聞いてます。あの人は自分の男が女とどうなろうと平気なんでしょう?」

 どこから聞いたのかはわからないが、リリーの言うことは事実だ。龍之介は自分の男が他の男に色目を使うことは絶対に許さないが、その一方で女関係には全くの無頓着だった。

 哲の兄弟には妻子のある男は少なくなく、龍之介はまた自分の男の妻子の面倒も良く見た。

 近頃は龍之介一筋ですっかりご無沙汰ではあったが、哲は生来女好きだ。龍之介と逢う前の哲なら、リリーは道ですれ違っただけでも無事では済まなかったかもしれない。それくらい女好きで野蛮な男だったのだ。

「親父さんは承知か?」

「父娘でこんな稼業ですもの。慣れっこです」

 そう言い終わるより先に哲はリリーを布団の上に押し倒した。誰にも遠慮はいらない。

 着ているものを脱いでいざ突撃、という段になって哲は異変に気付いた。肝心の肉棒に全く元気がないのだ。本当ならとっくに元気一杯になっているはずなのに、今日はまるで何事もないかのように力無く下を向いていた。

「どうしたんです?」

 すっかり女の表情になったリリーは、扇情的に腰をくねらせながら哲にせがんだ。しかし、一向に哲の方は準備が整わない。

 哲は背中に冷たいものが流れるのを感じた。あまり塀の中でアンコをやりすぎると、女相手に役に立たなくなることがあるという話は聞いていた。

 だが、まさか女道楽を極めた自分がこんな事態に陥ろうとは考えもしなかった。しかも、目の前には今までの女遍歴でもおそらく一番の良い女が居る。

「…今日は疲れたろう、明日からは忙しくなるから身体を休めておけ」

 哲は苦しい言い訳をすると、せっかく脱いだ服を元通りに着始めた。

「そんな、抱いていって下さい」

 リリーは動揺の隠せない表情で悲しげに訴えた。

「いいから寝てろ」

 いつもの倍の速さで服を着た哲は、逃げるように部屋を飛び出た。何かリリーが言いかけたようだが、もはや哲には聞こえない、行く先は龍之介の家であった。

 一方、龍之介は先日駅前で拾ってきた戦災孤児の少年と自宅で戯れていた。何年かぶりに腹一杯に食事を与えられ、上等の着物を着せられて、龍之介の大業物で男の悦びを仕込まれた少年は、もはや龍之介から離れることはできないだろう。

「龍さん、僕、学校に行きたいよ」

「よく言った。これからの人間は学問がなきゃいけねえ。一生懸命働けば大学まで出してやるからな」

 これは龍之介の少年相手の殺し文句で、こうやって龍之介の寵愛を受け、マーケットで働きながら学校に通う少年が沢山いた。

 男を単なる欲望のはけ口にせず、ちゃんと身の立つように計らう面倒見の良さが龍之介にはあった。

 そうして二人が戯れているところへ、突然庭から哲が挨拶もなく現れたから、龍之介も少年も驚いた。

「哲、今日は早いな」

 龍之介はさすがに少しばつが悪そうにした。

「兄貴、抱いて下さい」

 哲は思いつめた表情で部屋に上がり込むと、いきなり龍之介に激しく接吻した。龍之介は一瞬困惑したが、ただならぬ気配を察し、哲の求愛に答えて一層激しくやり返した。

「おう、悪いが今日は帰んな。これで妹に何か食わせてやれ」

 龍之介は少年に10円札を渡した。突然の「兄貴分」の乱入に困惑と恐怖を隠せない少年は、顔を引きつらせながらそそくさと退散していった。

「兄貴、俺を無茶苦茶にしてくれ!」

「どうしたんだよ」

 龍之介の返事も待たずに哲は服を脱ぎ、今夜の出来事を忘れようとして龍之介の大業物に跨った。不思議なもので、あんな嫌な出来事の後だというのに、哲の身体はすっかり龍之介を迎え入れる準備が整っていた。

「兄貴!兄貴!」

 あまりの激しさに龍之介も呆気にとられた。哲の目つきはただ事ではなかった。目からは一筋の涙が溢れていた。

「兄貴、俺…俺…」

「哲、何も言うな」

 龍之介は哲を抱きかかえると、そのまま対面座位で激しく哲をむさぼった。哲の肉棒は何もかも忘れたいと言わんばかりに激しくいきり立ち、涙を流していた。

「兄貴、忘れさせてくれ!全部忘れさせてくれ!」

「忘れろ!馬鹿になっちまえ!」

 激しい快楽に二人とも頭がどうにかなりそうだった。哲はこの快感の中で死んでしまいたいとさえ思った。

「おら!忘れろ!イクぞ!」

 龍之介は土俵の上でさえ見せなかった凄まじい腰の動きで哲を責め立て、哲の嫌な思いを塗り潰さんとばかり中に精をぶちまけた。

 哲も同時に絶頂に達し、激しく飛び出した精は天井板にぶつかり、音を立てて畳にこぼれた。

「兄貴…」

 快感の余韻の中で抱き合いながら、哲は思わず涙を流した。龍之介は何も聞かず、哲を抱きしめるばかりだった。

 哲の見込んだ通りリリーは大変な人気を呼び、連日何件も店を掛け持ちしてその行く先々が満員になった。これに乗って哲はますます事業を大きくし、組の中でも大きな存在感を発揮するようになっていった。

 だが、その一方でどこから漏れたのか、例の夜の出来事が知れ渡り、哲は不能だという噂が流れ始めた。哲はこの一件に気を病み、段々昔のように喧嘩早くなっていった。

 大きな会場を借りてリリーのショーを興行し、見事大当たりした夜に事件が起きた。オセローで王とリリーの父娘は哲と寿太郎親分に労をねぎらわれていた。

「いや、リリー、今日の歌は良かったぜ。お客さんも喜んでた」

 寿太郎はショーの成功とリリーの歌の見事さですっかり上機嫌だった。

「親分さん、哲さん、今日は本当にありがとうございます」

 父娘は深々と頭を下げた。この頃のリリーにはいくつかのレコード会社から契約の話も来ていた。

「しかし哲よ、お前もよくやったぜ。そのうち自由に物が買える時代が来る。そうなりゃマーケットは今のようには行かなくなる。これからはお前みたいな若い者が事業で組を背負って立たなきゃいけねえ」

「親分、ありがとうございます!」

 寿太郎が上機嫌な一方で、哲は恐縮しきりだった。100人ばかりの人数しかいない黒澤組だが、駆け出しの哲にとっては雲の上の人だ。

「ところで哲、リリーがレコードを出す件はどうなってる?」

「へえ。安売りするのも損ですから、もう少し各社と話を煮詰めてからと…」

 哲と寿太郎がリリーの今後について話していると、店の隅のテーブルで飲んでいたガラの悪い3人組がリリーに気付いて近寄ってきた。

「おう、あんた今売り出し中のリリーじゃねえか。俺はあんたのファンなんだ。祝儀は出すから1曲歌ってくれよ」

 リーダー格らしき男は懐からいくばくかの金を取り出し、テーブルの上に置いた。

「すまねえな。今日のリリーは客として来てるんだ。勘弁してやってくれ」

 哲は男の置いた金を手に取ると、来週行われるショーの優待券を添えて男に差し出した。

「お前に聞いたんじゃねえ」

 男は怒りの表情もあらわに、哲の手を払い除けた。

「アンコ哲はすっこんでろ!」

 言ってはならない侮辱の言葉に哲はたちまち怒り心頭に達し、両手で男の襟首を掴んだと思うと、立ち上がって今度は力一杯男の顔をテーブルに叩きつけた。

「もう一度言ってみろ!このチンピラ!」

 哲の叫び声と、テーブルの上の皿やグラスの割れる音、ボーイ兼用心棒の若い衆に押さえつけられた男の仲間の怒号が、ステージで奏でられる陽気なハワイアンをかき消した。

 二度、三度と男の顔が叩きつけられる度に、テーブルと割れた食器は赤くなった。

「殺してくれと泣き喚くまでやってやる!」

 哲は割れた食器の上に今度は男の顔を激しくこすりつけた。男の声にならない恐ろしい悲鳴が店内に響いた。

「哲、その辺にしとけ」

 寿太郎が止めに入るのと、騒ぎを聞きつけた組の若い衆が事務所から加勢に飛んできたのはほぼ同時だった。

「こんなチンピラでも殺せば始末が面倒だ」

 寿太郎は哲をなだめて男から引き離すと、今度は自分で襟首を掴んで男を引っ張り上げた。顔は人相の判別もつかない酷い有様だった。

「おう、若いの。うちの組は気の短いのが多いからな。次は止めても聞くかどうかわからねえぜ」

 笑みを浮かべながら優しく語りかける寿太郎だったが、哲や他の子分達はその不気味な迫力に血の気が引く思いだった。龍之介が親分にと惚れ込むのも無理からぬ話だと哲は思った。

「覚えてろ!鼎会を敵に回したらどうなるかわかってるんだろうな!?」

 男は二人に肩を抱えられ、逃げるように店を飛び出ていった。

「カタギの衆にすまないな。おい、お客さん全員にビールをやってくれ。俺のおごりだ」

 寿太郎がそう店内に告げると、リリーの歌にも負けない拍手が巻き起こった。


注1:シノギ ヤクザの収入源のこと。的屋は屋台の収益、博徒は賭博のテラ銭というのが本分だが、実際のシノギは多岐に渡る

注2:PX 米軍基地における売店のこと。基地の外では手に入らないような貴重品が買えるため、闇市への横流しはしばしば行われた。

注3:浪花節 浪曲ともいう。落語とミュージカルを足したような芸で、話が盛り上がると三味線に乗せて唄いだす。終戦前後が全盛期であった
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