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第2部
【40】スローライフはままならない
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夕露がきらりと雲花に光り、思わずその美しさと痛みにじんわりと目頭が熱くなる。ほのかに暖かい気候に澄み切った風が心地よい。
ゆるりと微かな湯気を立てる大きな魔力溜まりを中心に、新緑の芽吹きが一面に広がっている。ただし、その背景はやたらと味気ない。黒く染まった木々と、薄く張り巡らされた灰暗の霧。色彩鮮やかな草原と見事に対照的だ。
人類圏の外側――S級指定の超危険地帯『魔素の森』。その深くに存在するここは『聖域』。並みの実力者で無いとたどり着くことが出来ない秘境だ。
そこで俺は煌めく拳をみぞおちに突き立てられ、一瞬の呻きの末、華麗に宙を舞っていた。
逆さまな世界で、俺は悲しみと痛みに涙を滲ませながら、心の中で独り言ちる。
――どうして、こうなった……!?
それは数刻前の出来事。
魔族の件もようやくひと段落し、ついに得た安寧の日々。
怪力お嬢様ことユズリアと、人でなしマイスイートシスターのサナがいつもの如く言い争う様を横目に、俺はすっぽりと膝に収まる月狐族の少女を愛でていた。
食後の眠気に微睡む彼女の狐耳を撫でる。その度に、もふもふな尻尾がゆるりと左右に揺れる。
「コノハ、今寝たら夜寝れなくなるぞ。夜更かしは許しませんからね」
彼女のくりっとした瞳が、軽いため息と共に呆れたように細くなる。
「ロア殿、某は子供じゃないでありまする……」
そう言い張るコノハはまだ十二歳だ。十個近く歳が上の俺からすれば、十分に子供。というか、紛れもなくまだ少女だ。月狐族特有のちんまりとした体躯が、余計にそう感じさせる。
しかし、この地にいるということは、コノハもまたS級冒険者。村や街一つを単体で壊滅させるようなA級の魔物はおろか、魔法師団が束になっても敵わないS級の魔物すらも一捻りする実力の持ち主だ。
この歳で世界に百人といないS級冒険者の一角を担うのだ。将来が末恐ろしい。
若いって、いいな!
微かに覚える腰の痛みに思う。
ユズリアとサナもまだ成人したばかり。だからこそ、今夜はどっちが俺と寝室を共にするのかという、どうでもいいことで毎回喧嘩出来るのだ。
いっそ、分身の魔法でも使えたら良いのに。
しかし、俺は悲しいことに一つの魔法しか使えない。才能って理不尽だ。
「わーはっはっはっは!」
穏やかな時間をぶち壊す暑っ苦しい笑い声と共に、地面が振動を伝えた。
一目散に、巨大な筋肉塊が俺目掛けて突っ込んでくる。そのオイリーな身体が燦々と降り注ぐ陽射しを反射し、輝いていた。
また一つ、俺の中の純然なエルフ像が音を立てて崩れていく。
「兄弟よ! 食後の筋トレと洒落込もうではないか!」
俺は重たく息を吐き、右手を二本縦に振り下ろす。瞬間、彼の左足が棒のように固まる。勢いを殺せず、前方に向かってつんのめる筋肉エルフ。
俺は心の中でにやけた。そのまま無様に顔面から地に伏しておけ。
「また、つまらぬものを固定してしまった」
どんな強靭で剛力な筋肉野郎だろうと、体勢を崩してしまえばこちらのもの。
そのまま、左足を地面に突き立てたかのように、筋肉エルフが顔から地面に落ち――ることは無かった。
「ふんっ!」
地面すれすれで、彼の身体がピタッと静止した。左足と背筋がビキッと音を立てる。
「う、嘘だろ……」
コイツ、片足で踏ん張りやがった……。
「おぉー、ドドリー殿、まるで浮遊魔法のようでありまするな」
コノハが感心したように声をあげる。確かに称賛ものだ。すごいというか、普通に怖い。わけがわからないよ。
「兄妹も鍛えれば、簡単に出来るようになるぞ!」
「本当でありまするか!?」
いや、なるわけないだろ。
これはあれだ、ただの化物だ。浮遊の聖魔法をどこかの狂人神官に教えてもらった方がよっぽど現実的だ。
「あら? なんか、不名誉なことを言われたような……」
刹那、強烈な悪寒が背筋を駆ける。錫杖のしゃらんという音が、すぐ真横で鳴り響く。
気配もなく、セイラが嫣然とした笑みを携えてそこにいた。
「や、やぁ。……えっと、どうした?」
セイラは何も言わない。ただ、じっと相貌を崩さずに俺を見つめる。ただ、まっすぐに。
まるで蛇に睨まれた蛙の気分。――いや、『固定』をかけられたS級冒険者だ。
「あ、あの……すみませんでした……」
「どうしたんですか? 私、何も言っていませんけれど」
肩を錫杖がじぬりとなぞる。妖艶に思えるその仕草も、俺にとっては畏怖の対象だった。
ってか、絶対に心を読む魔法とか存在するわ! だって、ほら、目の前で実証済みだし!
「これ、神官の娘や。それ以上孫を虐めるでない」
しゃがれた声がどこからともなく聞こえてくる。いつの間にか、コノハにお菓子を渡すリュグ爺の姿があった。
もちろん、リュグ爺との血のつながりはない。わざと言っているのか、本当にボケているのか。
とにかく、彼は気の良いただの老人だ。ただし、この聖域において最強のS級冒険者。そして、〝釘づけ〟の異名を持つ俺と不名誉な異名仲間として、日夜酒を交わす予定の仲だ。
最初は俺とユズリアだけだった聖域が、いつの間にかこうして賑やかになった。何度も、俺のスローライフは破壊されたけど、ようやく平穏な日常を得ることが出来た。
人生って、素晴らしい! もう、どんな厄介ごとが降りかかろうとも、俺は絶対に動かない! 何かあれば、それこそ『固定』をかけて布団とくっ付いてやる。
もう、誰にも俺のスローライフは邪魔させない! さあ、来るなら来やがれ!
対戦よろしくお願いします!
「――見つけました! ロア先輩!」
おや、可愛らしい少女の声がするな。
「おい、コノハ。見つけたも何も、俺はずっとここにいるぞ?」
ふふっ、愛い奴め。
そんなに俺のことが恋しいのか? そうか、そうか。今日はサナともユズリアとも寝ん! 俺はコノハと寝るぞ!
「あの……某、何も言ってないでありまする」
「そんなわけないだろう。こんな可愛い声はここじゃコノハ以外考えられないぞ」
そうだとも、セイラは年上お姉さんボイスだし、サナはお兄呼び、ユズリアだって俺のことを先輩だなんて呼ばないさ。
――ん? 先輩?
思考がピタッと止まる。はて、そんな呼び方をする奴は一人しか思い当たらないんだが……。いや、でもあいつは……。
「ロアー! あんたにお客さんよー!」
ユズリアの言葉にたらりと汗が頬を伝う。
なるほど、これは問題ありだ。大ありだ。
これまでのことを鑑みて、俺は深いため息と共に振り返る。
「やっぱり……」
栗毛の長い髪を揺らし、あどけない年相応のくりっとした紅茶色の瞳が俺をまっすぐ捉えていた。その傍らには、背より高い魔法杖。ぶかぶかのローブと大きな魔法帽子は、昔に俺が買ってやったものそのままだ。
「ようやく、会えましたね」
心底嬉しそうに満面の笑みを浮かべる少女。
「ユーニャ、どうしてここに……!?」
やっぱり、俺のスローライフはまだ始まりそうもない。
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そこで俺は煌めく拳をみぞおちに突き立てられ、一瞬の呻きの末、華麗に宙を舞っていた。
逆さまな世界で、俺は悲しみと痛みに涙を滲ませながら、心の中で独り言ちる。
――どうして、こうなった……!?
それは数刻前の出来事。
魔族の件もようやくひと段落し、ついに得た安寧の日々。
怪力お嬢様ことユズリアと、人でなしマイスイートシスターのサナがいつもの如く言い争う様を横目に、俺はすっぽりと膝に収まる月狐族の少女を愛でていた。
食後の眠気に微睡む彼女の狐耳を撫でる。その度に、もふもふな尻尾がゆるりと左右に揺れる。
「コノハ、今寝たら夜寝れなくなるぞ。夜更かしは許しませんからね」
彼女のくりっとした瞳が、軽いため息と共に呆れたように細くなる。
「ロア殿、某は子供じゃないでありまする……」
そう言い張るコノハはまだ十二歳だ。十個近く歳が上の俺からすれば、十分に子供。というか、紛れもなくまだ少女だ。月狐族特有のちんまりとした体躯が、余計にそう感じさせる。
しかし、この地にいるということは、コノハもまたS級冒険者。村や街一つを単体で壊滅させるようなA級の魔物はおろか、魔法師団が束になっても敵わないS級の魔物すらも一捻りする実力の持ち主だ。
この歳で世界に百人といないS級冒険者の一角を担うのだ。将来が末恐ろしい。
若いって、いいな!
微かに覚える腰の痛みに思う。
ユズリアとサナもまだ成人したばかり。だからこそ、今夜はどっちが俺と寝室を共にするのかという、どうでもいいことで毎回喧嘩出来るのだ。
いっそ、分身の魔法でも使えたら良いのに。
しかし、俺は悲しいことに一つの魔法しか使えない。才能って理不尽だ。
「わーはっはっはっは!」
穏やかな時間をぶち壊す暑っ苦しい笑い声と共に、地面が振動を伝えた。
一目散に、巨大な筋肉塊が俺目掛けて突っ込んでくる。そのオイリーな身体が燦々と降り注ぐ陽射しを反射し、輝いていた。
また一つ、俺の中の純然なエルフ像が音を立てて崩れていく。
「兄弟よ! 食後の筋トレと洒落込もうではないか!」
俺は重たく息を吐き、右手を二本縦に振り下ろす。瞬間、彼の左足が棒のように固まる。勢いを殺せず、前方に向かってつんのめる筋肉エルフ。
俺は心の中でにやけた。そのまま無様に顔面から地に伏しておけ。
「また、つまらぬものを固定してしまった」
どんな強靭で剛力な筋肉野郎だろうと、体勢を崩してしまえばこちらのもの。
そのまま、左足を地面に突き立てたかのように、筋肉エルフが顔から地面に落ち――ることは無かった。
「ふんっ!」
地面すれすれで、彼の身体がピタッと静止した。左足と背筋がビキッと音を立てる。
「う、嘘だろ……」
コイツ、片足で踏ん張りやがった……。
「おぉー、ドドリー殿、まるで浮遊魔法のようでありまするな」
コノハが感心したように声をあげる。確かに称賛ものだ。すごいというか、普通に怖い。わけがわからないよ。
「兄妹も鍛えれば、簡単に出来るようになるぞ!」
「本当でありまするか!?」
いや、なるわけないだろ。
これはあれだ、ただの化物だ。浮遊の聖魔法をどこかの狂人神官に教えてもらった方がよっぽど現実的だ。
「あら? なんか、不名誉なことを言われたような……」
刹那、強烈な悪寒が背筋を駆ける。錫杖のしゃらんという音が、すぐ真横で鳴り響く。
気配もなく、セイラが嫣然とした笑みを携えてそこにいた。
「や、やぁ。……えっと、どうした?」
セイラは何も言わない。ただ、じっと相貌を崩さずに俺を見つめる。ただ、まっすぐに。
まるで蛇に睨まれた蛙の気分。――いや、『固定』をかけられたS級冒険者だ。
「あ、あの……すみませんでした……」
「どうしたんですか? 私、何も言っていませんけれど」
肩を錫杖がじぬりとなぞる。妖艶に思えるその仕草も、俺にとっては畏怖の対象だった。
ってか、絶対に心を読む魔法とか存在するわ! だって、ほら、目の前で実証済みだし!
「これ、神官の娘や。それ以上孫を虐めるでない」
しゃがれた声がどこからともなく聞こえてくる。いつの間にか、コノハにお菓子を渡すリュグ爺の姿があった。
もちろん、リュグ爺との血のつながりはない。わざと言っているのか、本当にボケているのか。
とにかく、彼は気の良いただの老人だ。ただし、この聖域において最強のS級冒険者。そして、〝釘づけ〟の異名を持つ俺と不名誉な異名仲間として、日夜酒を交わす予定の仲だ。
最初は俺とユズリアだけだった聖域が、いつの間にかこうして賑やかになった。何度も、俺のスローライフは破壊されたけど、ようやく平穏な日常を得ることが出来た。
人生って、素晴らしい! もう、どんな厄介ごとが降りかかろうとも、俺は絶対に動かない! 何かあれば、それこそ『固定』をかけて布団とくっ付いてやる。
もう、誰にも俺のスローライフは邪魔させない! さあ、来るなら来やがれ!
対戦よろしくお願いします!
「――見つけました! ロア先輩!」
おや、可愛らしい少女の声がするな。
「おい、コノハ。見つけたも何も、俺はずっとここにいるぞ?」
ふふっ、愛い奴め。
そんなに俺のことが恋しいのか? そうか、そうか。今日はサナともユズリアとも寝ん! 俺はコノハと寝るぞ!
「あの……某、何も言ってないでありまする」
「そんなわけないだろう。こんな可愛い声はここじゃコノハ以外考えられないぞ」
そうだとも、セイラは年上お姉さんボイスだし、サナはお兄呼び、ユズリアだって俺のことを先輩だなんて呼ばないさ。
――ん? 先輩?
思考がピタッと止まる。はて、そんな呼び方をする奴は一人しか思い当たらないんだが……。いや、でもあいつは……。
「ロアー! あんたにお客さんよー!」
ユズリアの言葉にたらりと汗が頬を伝う。
なるほど、これは問題ありだ。大ありだ。
これまでのことを鑑みて、俺は深いため息と共に振り返る。
「やっぱり……」
栗毛の長い髪を揺らし、あどけない年相応のくりっとした紅茶色の瞳が俺をまっすぐ捉えていた。その傍らには、背より高い魔法杖。ぶかぶかのローブと大きな魔法帽子は、昔に俺が買ってやったものそのままだ。
「ようやく、会えましたね」
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