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第1部

【31】温泉

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 聖域の隅で、俺は石造りの小さな墓に手を合わせる。隣でサナも同じようにしていた。彼女がゆっくりと目を開いたのを見て、立ち上がる。

「そろそろ行くぞ」

「うん……」

 少しして、振り返る。本当は母親と同じ墓に眠らせてあげたかった。だけど、俺とサナの故郷は遥か遠い。だからせめて、俺たちはずっと近くにいてあげようと思う。

「父さん、また明日ね」

 あの戦いの後、意識を覚ました俺の傍らにはユズリア、そして少し離れたところにベイクの姿があった。誰かがローリックの手から彼を解放してくれたのだ。
 他人の魔法による所有物を勝手に解き放つことなんて、それこそS級の冒険者の聖属性の魔法じゃなきゃ考えられない。ユズリアの怪我が治っていたことも考えるに、十中八九セイラのおかげだろう。

 肝心の彼女は数日前からどこかへ行ってしまっているわけで、未だ感謝を伝えられていないわけだが。

 夕暮れ前にドドリーが狩りから戻って来た。いつもはほぼ必ず七獣鳥や蛇骨牛を仕留めてくるのだが、珍しいことに今回は成果が無かったみたいだ。
 ドドリーはやけに神妙な顔つきだった。言っては何だが、とても似合わない。人柄を知らなければ、美形が物憂げでミステリアスなオーラを放っているように見えるのだろう。しかし、俺たちは普段のドドリーを知っているわけで、それこそ明日にでも空から槍が降るんじゃないかと思わされる。

「らしくないな。不調だったか?」

「うむ、もしかしたらそうかもしれん。しかし、妙ではあるな」

 もしかしたら、先ほど感じ取った魔力のことだろうか。しかし、それはつい先ほどのことだ。朝から狩りに出ていたドドリーならば早いうちに獲物を見つけ出していたはずだ。

「セイラがいないと調子も出ないか?」

「十年や二十年くらい、何てことはあるまいよ」

 流石は長寿種族。人間との感覚のずれが桁違いだ。
 
 ドドリー曰く、なぜか森から生き物の気配が薄くなっているらしい。息をひそめているのか、それとも本当に個体数が何らかの原因で急速に減っているのか、はっきりとは分からないみたいだ。しかし、それと相反するように植物が普段よりもざわついているらしく、その両方がドドリーは今まで経験したことがないと言う。
 長い生涯の大半を自然と共に過ごすエルフが経験したことのない事態とは、聞いているこちらまでつい良くない方向に考えてしまう。

「まあ、俺もエルフの中では赤子同然の若輩者。たったの百五十年しか生きていないのだ。知らないことがあってもおかしくはなかろう」

「それにここは何が起きてもおかしくはない人類圏の外側だしな。常識が通用しないことも多々ある話なんだろ」

 それでも聖域にいれば安全に思える。なんせ、ここには魔物が一匹でも近寄ってきたことはない。一帯が浄化されているとはいえ、普通ならば魔物だって迷い込んでくるもの。それがただの一度もないとなると、やはり泉の浄化能力は一般的な聖水や『浄化魔法』とは比べ物にならないという証だ。

 結局、その日は何も起こらなかった。やはり、気にし過ぎなのだろう。
 次の日の夕方、セイラとリュグ爺が帰って来た。セイラは満足げな表情で、対してリュグ爺はいつも以上に背中が丸っこく感じた。疲れているのだろうか。

「二人してどこに行ってたんだ? こっちは大変だったんだぞ?」

 錫杖の先端に赤がこびりついているのは追及しないでおこう。藪は突かないに限る。

「本当ならばとっくに帰って来れているはずだったんだがのお。この娘っ子が興に乗りおってな……」

「うふふっ、調教のし甲斐がある羊でした。年甲斐にもなくはしゃいでしまってお恥ずかしい限りですわ」

 一体、何の話やらさっぱりだが、これ以上聞いてはいけない気がした。俺が長年一人で冒険者を続けてこれた危険を察知するセンサーが、それはもう盛大に鳴り響いている。

「ふぅ……それにしても疲れたわい。お主、すまぬが風呂を沸かしてもらっていいかの?」

「おっ? リュグ爺は風呂を所望か? ちょうど今日、露天の大きな風呂をつくったところだ」

 今日は自分でも珍しく、朝から一度も腰を落ち着けていない。
 普段の重い腰を持ち上げてまでつくったもの、それが吹き抜けの大きな風呂だ。大陸の北方では〝温泉〟というらしい。せっかく誰のものでもない広大な敷地があるんだ。有効活用させてもらおうという魂胆である。
 もちろん、各家に風呂場は設けている。しかし、やっぱり広い風呂に清々と入りたいじゃないか。
 そこで、まだ未開拓だった平原の西を丸々と使い、巨大な温泉をつくった。ドドリーとユズリアも手伝ってくれたおかげで、一日で完成までこぎ着けた。内装などはあまり気にしなくていい分、家一軒建てるよりも簡単だった。なんせ『固定』さえあれば、大きさなどは問題じゃない。
 源泉とはいかないのが多少残念ではあるが、生活魔法で出したお湯に泉の水を少し垂らすだけで、抜群の浄化と疲労回復の効能を持った温泉の完成だ。疲れを取るどころか、元気になってしまいそうだ。

「おぉ! これはまた大層な仕上がりじゃのお!」

 石畳を敷き詰め、一方を木彫りの浴槽に、もう片方を石堀の浴槽に仕立てた。これにはリュグ爺も年甲斐もなく声を荒げるというものだ。

「日ごとに男女入れ替えようと思ってさ、どうせなら楽しみがあったほうがいいだろ?」

 目の前の景色が少し味気ないのが残念ではある。そこはまた追々センスのある人たちに考えてもらうとしよう。温泉での俺の仕事はこれまでだ。

 せっかくなので、皆で入ってみることにした。娯楽が薄い分、こういうのは皆で感想を共有するに限る。

「ふぃ~、疲れが吹き飛ぶわい」

「うむ、エルフは水浴びしかせんが、これはこれでまた良いものだ!」

 湯船は男三人が入っても十分に広さが残る。どうせなら、とことん開放的にしてやろうと思って少し大きく作りすぎたかもしれない。しかし、念には念を入れて、というやつだ。もしかしたら、これからまだまだ人が増えるかもしれないだろうし。

「しかし、若いのに温泉なんて文化、よく知っておったのお。これはごく一部の国にしか伝わっていなかったはずじゃが」

「数年前に偶然依頼で立ち寄った村で教えてもらったんだ。標高の高い場所だったから、温泉からの明媚な景色がすごくてさ、こうやって風呂に入るのも良いなあって思ったんだ」

 仕切りを隔てた向こうの風呂から声が聞こえてきた。無論、変な気は無いにしろ、否応なしに耳を傾けてしまう。悲しい男の性だ。ぴたりと男湯から会話が途絶える。

「あらぁ~、広い浴場ですね」

「これが庶民の文化なのね。ちょっと恥ずかしいわ……」

 ふむ、確かに貴族のユズリアには他人と風呂に入るなんて習慣は無いのかもしれない。あってもメイドとかくらいだろう。
 俺とサナなんて小さい頃は毎回一緒に入っていたもんだ。田舎では節約が基本。魔力持ちのいない家庭では風呂を沸かすのだって一苦労なのだ。

「ロア殿ー! そちらはどうでありまする?」

「コノハ、お兄が欲情する。あんまりはしゃがない」

「するわけないだろっ!」

 思わず返事をしてしまった。少しだけ気まずいのは何故だろうか。
 その後も男湯は相変わらず会話が少なく、ひたすら女性陣の会話が筒抜けで聞こえてきた。ちょっと仕切りが薄すぎたかもしれない。もちろん、そこは信頼関係だ。間違いがあってはならない。というか、覗く勇気などあるはずもない。
 サナにバレたらその日が命日だ。そんなリスクを冒してまで見たい相手がいるわけでもあるまい。
 理想の年上のお姉さんがいれば、それはまた話は別だが。

「むっ、お兄の不純な気配」

 だから、どうして分かるんだ妹よ。

「ロアー! 私のならいつでも見ていいんだからねー!」

「その胸はお兄の教育に良くない。セイラも」

「ロア殿は胸部の大きな方が好きなのでありまするか?」

「うふふっ、男性とは皆、そういうものです」

 人の聞こえるところで何て話をしているんだ。聞いてるこっちが恥ずかしくなる。

「はっはっはっ! 兄弟は人気者だな!」

「全くけしからんのお。ちなみに儂は貧相なのも良いと思える派じゃ」

 聞いてないよリュグ爺……。ちなみに俺もどちらでもいける派だ。静かにリュグ爺と握手を交わすと、なんとドドリーまで手を重ねてきた。
 やれやれ、向こうの女性陣は大きな勘違いをしている。男という生き物は大抵、どちらでもいける派だ。

「今夜は良い酒が飲めそうじゃな」

「酒は無いぞ」

「ふむ、今度エルフの秘酒をつくってやろう。皆で呑み交わすぞ」

「なるべく早く頼む!」

 馬鹿げた話で盛り上がれる。これもまた、男の特権というもの。下世話な話だが、こういうことは一人じゃ出来なかったことだ。
 改めて、一人で暮らそうと思っていた自分がどれだけ間違っていたのか痛感する。俺は一人じゃ何も出来ない。皆がいるから、こんな素晴らしい暮らしが出来るのだ。もっと感謝しなきゃな。
 こんな会話でそれを痛感するのもどうなんだって話だけど。

「あっ、そうだ、リュグ爺」

「なんじゃ?」

 すっかり忘れていた。昨日の違和感をリュグ爺が帰ってきたら聞いてみようと思っていたんだ。謎の魔力の気配のこと、ドドリーが感じた森の異変のこと。リュグ爺ならば、何か知っているかもしれない。なんとなく、リュグ爺が聖域に留まっている理由に関係している気がした。

「昨日、変なことがあ――」

「ロアー! 私たち、そろそろ出るわよー!」

 話を遮るように仕切りの向こうから声が飛んでくる。

「俺たちももう出るよ!」

 別に早急に話すことでもないか。良い雰囲気を壊すのも気が引ける。
 また明日にでも話してみよう。

 次の日、俺は遠くで魔力が弾ける気配で目が覚めた。
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