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第1部

【29】幕引き

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 空がぼんやりと白みだして、ようやく辺りに黒以外が射し込む。
 かれこれ、一時間以上走り続けただろうか。今、自分がどこに向かっているのかも分からない。とにかく遠くへ。それだけしか考えられなかった。

「はぁ……はぁ……くそっ!」

 膝に手をついて下を向くと、自慢の髪から汗が滴った。
 なんで、僕がこんな目にあっているんだ。
 べったりと顔にへばりつく殺意の影を必死に拭った。まだ、鮮明に刻まれている。しばらくは消えてくれないだろう。
 痛いほど冷たい視線を思い返して、奥歯が鳴る。

「僕にこんなことをして許されると思うなよ……! 絶対に殺してやる……!」

 忌々しいベイクの息子、それにあのフォーストン家の小娘もだ。ボロ雑巾になるまで使いまわして、僕の手で殺してやる!

「やれやれ、そんな遠くに行くでない若者よ」

「ひぃっ……!?」

 どこからか声がした。気配は掴めない。なぜだ……? この僕が……?

「リュグ爺様、適度な運動は長寿の秘訣だと言っていたではありませんか」

 振り返ると、暗闇の中から女と老人がひょこっと姿を現す。

「あんなもん、言葉の綾じゃ。おー痛たた……腰に来るのお」

「だ、誰だ、お前たちは!?」

 こんなところをたまたまうろついていたなんてありえない。十中八九、追手だ。
 女は神官ぽいな……。老人は何だ? 武器も持たずにこんなところで何をしている?
 しかし、これが追手ならば容易そうだ。この二人からは強者特有のオーラを感じない。
 あの親子がイレギュラーだっただけ。僕の魔法なら、どんな奴にも負けることはありえない。
 ちょうど死ぬほどむしゃくしゃしていたところだ。こいつらで憂さ晴らしでもするか。女の方は少々遊べそうだしな。

「リュグ爺様、汚らわしい気配を感じます」

「うむ、罪な娘じゃ。懺悔すると良い」

「あらあら、陽光神様のお導きになられたいのなら、私がぜひお手伝いさせていただきましょうか?」

「お主は本当にやりかねないから怖いのお」

 なんだ……? こいつら、全然僕を見ないじゃないか! どいつもこいつも馬鹿にしやがって……!

「お前たち! 覚悟しろよ、僕は今機嫌が悪いんだ!」

 教典をめくる。さっき消された奴らのページが白紙になっていた。くそっ、ベイクもいなくなってやがる。
 二体S級冒険者を召喚する。こいつらが誰だったか忘れたが、腐ってもS級冒険者だ。神官の女と死にぞこないの老人なんざ、こいつらで十分だろう。

「おら、行け! 老人は殺していいぞ。女は顔を傷つけないように嬲れ!」

 魔法帽子をかぶった男はその場で魔法の詠唱、もう一体の男は目にもとまらぬ速度で手にした小刀を老人に向けて振り下ろす。
 老人が構えようとしたところを、神官の女が手で制した。

「リュグ爺様のお手を煩わせるほどじゃありません」

 そう言って神官の女が物理障壁で小刀を防ぐ。

「チッ……おい、『解除魔法』だ。早くしろ!」

 特大の火炎球を放った魔法使いに命令する。

「ふふっ……久しぶりに少しだけ楽しめそうですね」

 女の顔がにやりと不気味な笑みをつくる。そして、射出された火炎球を、淡い光を纏った錫杖で軽々とかき消す。
 ほぼ同時に『解除魔法』が発動して物理障壁が解除された。瞬間、肉薄していた男の小刀が女の右肩に突き刺さる。
 ふっ、びびらせやがって。やはり、ただの神官。時間稼ぎくらいしか出来まい。

「よし! そのまま痛めつけろ!」

 小刀が目にもとまらぬ速度で女の身体を縦横無尽に切り刻む。

「ははっ! どうだ! S級冒険者二体を相手では手も足も出まい!」

 爆炎が女を包み込む。
 煙の向こうでもがき苦しんでいるんだろうな。よしよし、少しだけ気分が良くなってきたぞ。

「娘や、儂は朝食までには戻りたいぞ? 今日は孫がつくってくれるそうじゃ」

「あらあら、サナさんはいつからリュグ爺様のお孫さんになられたのですか?」

 炎が薄れ、景色が晴れる。そこには無傷の女が抵抗もなく、未だに小刀で切り刻まれていた。
 女の全身が淡い黄緑色の光に包まれている。刀で切られた箇所が、血を流すこともなく即座にふさがっていく。

「な、なんだ!? どうなっているんだ!?」

 女が忘れていたとでも言いたげに目を合わせた。そして、まるで蛇のように舌で唇を妖艶に舐める。
 身体がひとりでに震えだす。何か、悍ましいものを目の前にしているような気分だ。

「リュグ爺様も退屈そうですし、さっさと終わらせましょうか」

 そう言って、女が目の前の男目掛けて錫杖を一振り。次の瞬間には、すぐ横の大樹の幹に男の頭だけがめり込んでいた。

「くそっ、妙な神官め!」

 手あたり次第、召喚した。こうなったら出し惜しみ無しだ。とにかく、叩き潰してやる。
 目の前を魔物の群れ、そしてえりすぐりの冒険者が埋め尽くす。

「もういいっ! さっさと殺してしまえ!」

 雪崩のように大群が女を覆い隠した。
 ぐちゃっという音が微かに聞こえる。

「ははっ、あっけなく潰されやがって! 僕に逆らうからこうなるんだ!」

 ぐちゃっ。ぐちゃっ。と立て続けに響く。

「――きゃは……ッ!」

 ……なんだ? なぜ、女の声が聞こえる?
 刹那、血しぶきが飛び散った。その間も何かが潰れる音が絶え間なく音を奏でていた。
 目の前の山がどんどんと小さくなっていき、比例するように辺り一面を鮮血が染めていく。

「きゃはっはっはっはッ!」

 身の毛のよだつ叫び声と共に、血を被った神官が山の中から姿を現した。愉悦に歪んだ表情で、まっすぐに僕を視界に捉えている。
 力が入らず、膝から地面に落ちる。

「全く、こんな様を若い者には見せられんのお。じゃが、これも大人の仕事じゃ」

 老人の呟きが頭の中を反響した。
 ポタっと頬に生ぬるい何かが滴る。見れば、眼前で鮮血に染まる神官あくまが錫杖を振り上げていた。先ほどとは打って変わって、まるで慈愛に満ちた優しい微笑み。

「な、なんなんだよぉ……。一体、なんなんだよぉおお! お前たちはぁああッ!」

 最後に見た光景は、その温かな瞳の奥底に光る狂気の笑みだった。
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