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第1部
【27】色のない世界
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身体中が温かい何かに包まれているみたいだ。
ジンジンと痛む骨が、感覚を失った背中が、心地よい癒しを施されている。これまで幾度となく受けた治癒魔法だと無意識に知覚した。
意識がふわふわと宙を漂い、やがて、ゆっくりと覚醒する。
一体、何が起きたのだろう。
ぼやける視界に最初に映ったのは、黒い粉が霧状になって風に流されるものだった。
震える腕を必死に持ち上げる。ローリックから受けたはずの傷が無くなっていた。斬撃を食らった背中も多分治っている。
立ち上がろうとして、ぐわんと世界が歪んだ。全身が冷たい。血を流しすぎたせいだ。
失った血液は治癒魔法では元に戻らない。だから、身体の痛みはすっかり無くなったというのに、がんがんと頭が痛む。
誰かが治療してくれたのだろうか。いや、そうとしか考えられない。でも、傍には誰もいない。視界に映るのはローリックと――
「だ、だれ……?」
口に出して、すぐにその背中越しの男性がロアだと気が付く。
そうだ、ロアが助けに来てくれたんだ。どうして、忘れていたのだろう。どうして、分からなかったのだろう。
だって、私の目に映る彼はいつもと雰囲気が違くて、まるで別人みたいだったから……。
ロアの周囲を黒い霧が舞う。そのせいで表情がよく見えない。
ローリックが聞き取れない声をあげて、教典が輝いた。
心臓が悲鳴を上げる。
ローリックと戦っちゃ駄目なんだ。
ロアなら、もしかしたら彼を打ち負かしてくれるかもしれないと思っていた。
でも、ローリックはとんでもない人間を所有していた。その人物の魔法を見た瞬間、私は察してしまった。ロアでは彼を倒せない。だって、それは彼の肉親で、ロアの『固定』とサナちゃんの『解除』を使いこなす。『固定』しか使えないロアにはどうあがいても太刀打ちは出来ない。
既にローリックの横には彼の父親が召喚されていた。
ロアは今、どんな気持ちでそこにいるのだろう。
全部、私のせいなんだ。街でローリックに見つかったことも。逃げるつもりがここまで連れてきてしまったことも。ロアとローリックを会わせてしまったことも。全て弱い私の罪だ。
「に……げて……」
駄目だ。声が届かない。
ローリックの前に数多の魔物が召喚される。どれもS級指定の魔物だ。それが、視界を埋め尽くさんほどの波となってロアに襲い掛かる。
必死に身体を持ち上げるも、膝がガクッと地面を打つ。
どうして思うように動かないんだ。ロアの加勢に行かないといけないのに。あんな量、『固定』じゃ捌ききれない。
夜風が強く吹き、ロアを包み込む黒い霧が晴れる。その瞬間、私は吃驚した。そして、同時にたまらなく恐ろしくなった。
いつもゆるゆるな口元が、いつも優しいその瞳が、真っ黒な殺意に塗れていた。
焦点の定まっていない虚ろな目で、彼は魔物を見据える。そして、ゆっくりと手を伸ばして、口元を微かに動かす。
「――」
何て言ったのだろう。二本指を縦に切る動作をしていないし、口の動きは確かに『固定』では無かった。
一体、何の魔法なんだろうか。
そう思ったのも束の間、ロアを中心に白黒の波動が辺りに広がる。その波に包まれた刹那、世界が静寂に包まれる。
音というものが無くなったのか、それとも私の耳が聞こえなくなったのか。
足が動かない。どうして、こんなにもロアを怖いと思ってしまうのだろう。まるで息が詰まるほどの悪感情が彼から流れ込んでくるみたいだった。
自然と身体が震え、息が詰まる。
白黒の世界が色を取り戻す。瞬間、ロアに飛び掛かっていた魔物の鼻先がぶわっと崩れて真っ黒な霧に変わる。霧は瞬く間に連なって、全ての魔物が粉塵と化す。
その黒いベールが、ロアの心の内を表しているように感じた。
今にも壊れてしまいそうなロアを見て、なぜか涙が零れた。
*
「くそっ……! 何なんだよ! お前は一体……!?」
ローリックが額に脂汗を光らせて狼狽える。自慢げに整えていた髪を掻き毟り、教典を乱暴にめくる。
うるさいなぁ……。
ゆっくりと歩き出した。定まらない揺れる視界にローリックを捉えて、ただ前に足を進める。
あぁ、やっぱりこの魔法は最悪だ。
俺が俺でなくなっていく。――いや、これも正真正銘、俺という生き物か。
「お、おい! 早く『固定』しろ! それか、『解除』だ! なんでもいいから動け!」
ローリックがベイクの背中をバシッと叩く。たったそれだけのことで、凍えるような殺意がより深まる。
これ以上、俺をどうにかしないでくれ。余計に殺したくなるじゃないか。
口角が歪に吊り上がるのが分かった。きっと、ひどく醜い顔をしているのだろう。
ベイクはピクリとも動かない。その窪み堕ちた瞳で俺をじっと見つめている。意識も、感情も、ローリックに奪われてしまったはずなのに、彼は嘆き悲しんでいるように見えた。
ごめん……。
ただ、心の中で謝る。でも、もう止まれそうにない。
麻痺したように痺れる口が、うるさいほど高鳴る心臓が、怖いほど冷たい脳裏が、目の前のコイツを殺せと叫んでいる。
どうしようもなく、身体が疼く。興奮で本当に狂ってしまいそうだ。感情がすごい速度で崩壊していくのが分かる。
「ひぃっ……! くっ、来るなぁあああ……っ!」
無様な悲鳴を上げながら尻餅をつくローリック。地面に落ちた教典がぶわっと光り輝いた。
目の前に何かが召喚される。もう、ほとんどぼやけててよく分からない。人なのか、魔物なのか、一人なのか、数匹なのか。
ま、なんでもいっか。
「――『消滅』」
自分の声がものすごく愉快に聞こえた。これじゃ、ローリックと一緒じゃないか。
一体、何のためにこんなことをしているんだっけ?
ローリックを殺したいから? ちょっと違う。
父親の仇を取りたいから? うーん、それは少しだけ。
……あれ? 俺って何がしたいんだ? 誰のために、こんなに自分らしくないことをしているだろう。
でも、どうせ感情は『固定』してしまっているんだ。全部終わるまで、解く気は無いし、そもそも自分の意識ではもう解けない。
ローリックが尻尾を巻いて後ろ向きに逃げ出す。その足がビタっと棒のように固まり、ローリックが言葉にならない口をぱくぱくと動かす。
ベイクが右手を振り下ろしていた。
「……父さん」
この人は俺がローリックを手にかけることを望んでいるんだろうか。……分からない。だって、俺はこの人のことを全然知らない。どんな性格なのか、なぜ母と結婚したのか、どんな気持ちで耐え続けていたのか、全部もう知りようがない。
でも、この人が命を懸けて俺たち家族を護ってくれた。そのことだけは揺るがない事実だ。
だからこそ、ここで終わらせなければいけないんじゃないのか? 誰かがまた犠牲になる前に。
ローリックの顔を鷲掴む。ガタガタと震える振動が伝わって来た。
「や……やめてくれぇ……お、おれが悪かった……! し、死にたくない……っ!」
それは無理だろ。ここまでしておいて、今さら都合が良すぎる話だ。
一瞬だ。俺がこのまま魔法を発動すれば、その瞬間全てが終わる。
頭が割れそうなほど脳裏で鐘が響いている。身体がすごく重たい。気を抜けば、嗚咽がこみ上げそうになった。
白黒の世界に包まれ、光も影も境界線が無くなる。空は一面の黒に支配され、星だけが白く存在を示す。
鐘の音も、焔のはじける音も、うるさい心臓の鼓動も、全部が消え去った。
この世界には生命の息吹が感じられず、ただ白と黒の混ざり合った無機質な時間だけが流れる。
もう、終わらせよう。
右手に魔力を込めた。
「――ッ!」
突然、背後から衝撃が迸った。
強く抱きしめられる。音のしない心臓が強く跳ねた。その抱擁はあまりにも力強く、腰に回る細い腕からは想像も出来なかった。
「――駄目だよ、ロア。戻ってきて……」
静寂を突き破るその声が聞こえた瞬間、世界が急速に動きだし、色彩と喧騒を取り戻していく。
何もかもが、元通りになった。
俺は動けなかった。ただ、ぎゅっと抱きしめられた温かさと、彼女のすすり泣く声だけをずっと感じていた。
ジンジンと痛む骨が、感覚を失った背中が、心地よい癒しを施されている。これまで幾度となく受けた治癒魔法だと無意識に知覚した。
意識がふわふわと宙を漂い、やがて、ゆっくりと覚醒する。
一体、何が起きたのだろう。
ぼやける視界に最初に映ったのは、黒い粉が霧状になって風に流されるものだった。
震える腕を必死に持ち上げる。ローリックから受けたはずの傷が無くなっていた。斬撃を食らった背中も多分治っている。
立ち上がろうとして、ぐわんと世界が歪んだ。全身が冷たい。血を流しすぎたせいだ。
失った血液は治癒魔法では元に戻らない。だから、身体の痛みはすっかり無くなったというのに、がんがんと頭が痛む。
誰かが治療してくれたのだろうか。いや、そうとしか考えられない。でも、傍には誰もいない。視界に映るのはローリックと――
「だ、だれ……?」
口に出して、すぐにその背中越しの男性がロアだと気が付く。
そうだ、ロアが助けに来てくれたんだ。どうして、忘れていたのだろう。どうして、分からなかったのだろう。
だって、私の目に映る彼はいつもと雰囲気が違くて、まるで別人みたいだったから……。
ロアの周囲を黒い霧が舞う。そのせいで表情がよく見えない。
ローリックが聞き取れない声をあげて、教典が輝いた。
心臓が悲鳴を上げる。
ローリックと戦っちゃ駄目なんだ。
ロアなら、もしかしたら彼を打ち負かしてくれるかもしれないと思っていた。
でも、ローリックはとんでもない人間を所有していた。その人物の魔法を見た瞬間、私は察してしまった。ロアでは彼を倒せない。だって、それは彼の肉親で、ロアの『固定』とサナちゃんの『解除』を使いこなす。『固定』しか使えないロアにはどうあがいても太刀打ちは出来ない。
既にローリックの横には彼の父親が召喚されていた。
ロアは今、どんな気持ちでそこにいるのだろう。
全部、私のせいなんだ。街でローリックに見つかったことも。逃げるつもりがここまで連れてきてしまったことも。ロアとローリックを会わせてしまったことも。全て弱い私の罪だ。
「に……げて……」
駄目だ。声が届かない。
ローリックの前に数多の魔物が召喚される。どれもS級指定の魔物だ。それが、視界を埋め尽くさんほどの波となってロアに襲い掛かる。
必死に身体を持ち上げるも、膝がガクッと地面を打つ。
どうして思うように動かないんだ。ロアの加勢に行かないといけないのに。あんな量、『固定』じゃ捌ききれない。
夜風が強く吹き、ロアを包み込む黒い霧が晴れる。その瞬間、私は吃驚した。そして、同時にたまらなく恐ろしくなった。
いつもゆるゆるな口元が、いつも優しいその瞳が、真っ黒な殺意に塗れていた。
焦点の定まっていない虚ろな目で、彼は魔物を見据える。そして、ゆっくりと手を伸ばして、口元を微かに動かす。
「――」
何て言ったのだろう。二本指を縦に切る動作をしていないし、口の動きは確かに『固定』では無かった。
一体、何の魔法なんだろうか。
そう思ったのも束の間、ロアを中心に白黒の波動が辺りに広がる。その波に包まれた刹那、世界が静寂に包まれる。
音というものが無くなったのか、それとも私の耳が聞こえなくなったのか。
足が動かない。どうして、こんなにもロアを怖いと思ってしまうのだろう。まるで息が詰まるほどの悪感情が彼から流れ込んでくるみたいだった。
自然と身体が震え、息が詰まる。
白黒の世界が色を取り戻す。瞬間、ロアに飛び掛かっていた魔物の鼻先がぶわっと崩れて真っ黒な霧に変わる。霧は瞬く間に連なって、全ての魔物が粉塵と化す。
その黒いベールが、ロアの心の内を表しているように感じた。
今にも壊れてしまいそうなロアを見て、なぜか涙が零れた。
*
「くそっ……! 何なんだよ! お前は一体……!?」
ローリックが額に脂汗を光らせて狼狽える。自慢げに整えていた髪を掻き毟り、教典を乱暴にめくる。
うるさいなぁ……。
ゆっくりと歩き出した。定まらない揺れる視界にローリックを捉えて、ただ前に足を進める。
あぁ、やっぱりこの魔法は最悪だ。
俺が俺でなくなっていく。――いや、これも正真正銘、俺という生き物か。
「お、おい! 早く『固定』しろ! それか、『解除』だ! なんでもいいから動け!」
ローリックがベイクの背中をバシッと叩く。たったそれだけのことで、凍えるような殺意がより深まる。
これ以上、俺をどうにかしないでくれ。余計に殺したくなるじゃないか。
口角が歪に吊り上がるのが分かった。きっと、ひどく醜い顔をしているのだろう。
ベイクはピクリとも動かない。その窪み堕ちた瞳で俺をじっと見つめている。意識も、感情も、ローリックに奪われてしまったはずなのに、彼は嘆き悲しんでいるように見えた。
ごめん……。
ただ、心の中で謝る。でも、もう止まれそうにない。
麻痺したように痺れる口が、うるさいほど高鳴る心臓が、怖いほど冷たい脳裏が、目の前のコイツを殺せと叫んでいる。
どうしようもなく、身体が疼く。興奮で本当に狂ってしまいそうだ。感情がすごい速度で崩壊していくのが分かる。
「ひぃっ……! くっ、来るなぁあああ……っ!」
無様な悲鳴を上げながら尻餅をつくローリック。地面に落ちた教典がぶわっと光り輝いた。
目の前に何かが召喚される。もう、ほとんどぼやけててよく分からない。人なのか、魔物なのか、一人なのか、数匹なのか。
ま、なんでもいっか。
「――『消滅』」
自分の声がものすごく愉快に聞こえた。これじゃ、ローリックと一緒じゃないか。
一体、何のためにこんなことをしているんだっけ?
ローリックを殺したいから? ちょっと違う。
父親の仇を取りたいから? うーん、それは少しだけ。
……あれ? 俺って何がしたいんだ? 誰のために、こんなに自分らしくないことをしているだろう。
でも、どうせ感情は『固定』してしまっているんだ。全部終わるまで、解く気は無いし、そもそも自分の意識ではもう解けない。
ローリックが尻尾を巻いて後ろ向きに逃げ出す。その足がビタっと棒のように固まり、ローリックが言葉にならない口をぱくぱくと動かす。
ベイクが右手を振り下ろしていた。
「……父さん」
この人は俺がローリックを手にかけることを望んでいるんだろうか。……分からない。だって、俺はこの人のことを全然知らない。どんな性格なのか、なぜ母と結婚したのか、どんな気持ちで耐え続けていたのか、全部もう知りようがない。
でも、この人が命を懸けて俺たち家族を護ってくれた。そのことだけは揺るがない事実だ。
だからこそ、ここで終わらせなければいけないんじゃないのか? 誰かがまた犠牲になる前に。
ローリックの顔を鷲掴む。ガタガタと震える振動が伝わって来た。
「や……やめてくれぇ……お、おれが悪かった……! し、死にたくない……っ!」
それは無理だろ。ここまでしておいて、今さら都合が良すぎる話だ。
一瞬だ。俺がこのまま魔法を発動すれば、その瞬間全てが終わる。
頭が割れそうなほど脳裏で鐘が響いている。身体がすごく重たい。気を抜けば、嗚咽がこみ上げそうになった。
白黒の世界に包まれ、光も影も境界線が無くなる。空は一面の黒に支配され、星だけが白く存在を示す。
鐘の音も、焔のはじける音も、うるさい心臓の鼓動も、全部が消え去った。
この世界には生命の息吹が感じられず、ただ白と黒の混ざり合った無機質な時間だけが流れる。
もう、終わらせよう。
右手に魔力を込めた。
「――ッ!」
突然、背後から衝撃が迸った。
強く抱きしめられる。音のしない心臓が強く跳ねた。その抱擁はあまりにも力強く、腰に回る細い腕からは想像も出来なかった。
「――駄目だよ、ロア。戻ってきて……」
静寂を突き破るその声が聞こえた瞬間、世界が急速に動きだし、色彩と喧騒を取り戻していく。
何もかもが、元通りになった。
俺は動けなかった。ただ、ぎゅっと抱きしめられた温かさと、彼女のすすり泣く声だけをずっと感じていた。
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