正しい首輪の使い方

あんたが大将

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第2話 スパークリング

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 外枝は、中学三年生の夏休み明けに隣のクラスに転入してきた。
 そこから卒業までのおよそ半年を、紺色のセーラー服と黒の学ランがあふれる中、前の学校のグレーのブレザーで過ごしていたから、全校集会のような生徒が集まる場ではとにかく目立っていた。
 僕は黒い点が集まる中、グレーの背中の二つに割れた裾がなんとなく尾ひれに見えて、スイミーみたいだな、と思った。でも、外枝はスイミーではなかった。
 グレーの群れから、黒と紺の群れにやってきて、だけどそのころにはもう関係が出来上がっていて、大きな魚が襲ってくるわけでもなくて、群れに混ざるには時間も役割も、何もかもが足りなくて、どんな気持ちで泳いでいたんだろう。
 気が付くといつも外枝は顔を伏せて背中を丸めていた。その姿を寝ていると勘違いした体育教師に背中をつつかれて、とりあえず顔を上げるけど、また五分後には背中を丸めてしまって、今度は体育教師に何かを言われて顔を上げて、でもやっぱり五分経つとだめで、体育館の端っこで立たされていた時、どんな気持ちでいたんだろう。それを繰り返すうちに、ついに体育教師にも注意されなくなって、初めから終わりまで膝の間から床に視線を落として、どんな気持ちでいたんだろう。
 僕がこんな風に考えるのは、別に彼女を気の毒に思っていたからとか、ひっそりと惚れていたからとかでは決してなくて、誰とも関わらずに下を向いている姿が現在の高校での振る舞いと重なって、ただ、まったく同じに重なっているようにも見えなくて、僕は自分が彼女の何を見てその違いを感じているのかが知りたいからだ。
 きっと、彼女の腰まで伸びたつやつやの髪が、いくつもレイヤーの入ったとげとげのウルフカットになって、すべてのボタンをきっちり留めてたブレザーが袖に黒いラインの通ったスポーツブランドのパーカーに替わって、膝の下まで隠すスカートが膝のお皿にぎりぎり触れないくらいの位置まで上がったせいだと思っていたけど、下を向いて過ごすのは相変わらずだし、でも、そのうち杖でも突きだすんじゃないかってくらいの猫背だったのが、急に針金が入ったように背筋だけはしゃんと伸ばすようになったのは変化を感じさせるのに一役買ったのかもしれない、なんて考えていると、自分がこの一か月、いや、中学時代から彼女のことを気にして見ていたことに気づいた。
 だけど、僕が彼女のことを特別に好いているから、というわけではなく、むしろその逆で、僕にとって今の外枝は罰すべき罪を背負っていて、滅ぼすべき悪だ。もちろんこの罰だの罪だのというのは、僕の中にある「絶対に許せないコト」に彼女が抵触したというだけの話で、彼女が何か明確な意思や悪意を持って社会規範や法律を犯したということでは一切ないし、要は僕が僕自身の「自分ルール」に則って一方的に外枝愛佳という女を目の敵にしているだけなのだ。
 試しに彼女の罪状をいくつか挙げてみると、①僕と同じ高校に進んだこと、②入学式のホームルームの自己紹介の場で、声が小さくて聞き取れなかったこと、③そのせいで若干空気を盛り下げたこと、などがある。他にも挙げればきりがなくて、例えば⑩辺りには体育祭のリレーの走順を決めるホームルームで最後までだんまりを決め込んだことが入るし、そのいくつか後には今日バトンを落としたことが入るだろう。
 端的に言えば、僕は彼女が嫌いで、それは多分中学生の時からで、粗探しをしているうちに、もっと彼女が嫌いになって、いつか私刑を加えてやろうと考えている。
「__くん、志藤くん、聞いているかい?」
 わっ。
「あれっ、何? 何の話だっけ?」
「さっきからスプーンをくわえたまま、だんまりじゃないか。体調でも悪いのかい」
「ああ~。いや……」
「それとも、何か気に障ることでもあったかい?」
「いや、そうじゃないよ! ちょっと疲れて眠くなってただけだよ」
「あああああ、おま、アイス溶けちゃってんじゃ~ん、もったいねえなあああ」
「ん? わ、まじか」
 カップを傾けてぬるいスープをズズズ、と流し込む。
「溶けたアイスって、甘ったるくてあんまり美味しくないね。炭酸が抜けたコーラみたいな感じ」
 空になったカップに木製のスプーンを入れて、フタをする。
「で、何だったっけ?」
「だ~から、ごみ捨てがてら、そこの角のコンビニ寄らねって話。もう水筒も空だし、飲みもん買いてえ」
 黒木くんが、沿道の木々の隙間から見える発色の良い看板を指さして言う。
「イートインスペースもあるし、少し疲れたなら、休憩しよう」
 静岡くんが僕を心配して言う。
「たし」
 かに、と言いかけて、思い出した。
「あ、僕、水筒忘れた」
 黒木くんが間髪入れずに問う。
「どこに」
「学校。戻らなきゃ……」
「待って。戻るにしても、一度涼んでからの方がいいよ。それから、ドリンクも」
「だな。まだまだあちーし」
 僕のコンディションを気遣って二人が提案してくれる。疲れて眠いというのは僕のとっさのウソなわけだけど、暑いのは事実だし、さっき飲み干したアイスが喉に絡んですっきりしないし、ここは二人と一緒にコンビニに立ち寄ってから引き返すことにしよう。


「はーっ、す・ず・しー!」
 黒木くんが両手を広げて冷気を迎える。
「こら、あまり大きい声を出すんじゃないよー」
 吹き抜ける冷風と、静岡くんのローテンションながら保護者のような口調に力が抜ける。
「さて、まずはごみを捨てようか。あ、しっかり分別するんだよ」
 静岡くんが目配せすると、
「わーってるよ、俺を何だと思ってんだ」
 と言いながら黒木くんが、顔の大きい少年がプリントされた水色のパッケージと木の棒を分けて捨てる。
 僕もそれに続いてゴミを捨て、それから奥の飲料コーナーへ向かう。
  緑茶、麦茶、ウーロン茶、ジャスミン茶…。
 うーん、今はさっぱりスッキリさわやかな炭酸がいいなあ。
 コーラ、サイダー、メロンソーダ、レモンソーダ…。
 レモンかな~。
 種々の色、形のペットボトルが陳列された棚の扉を開けると、冷気が溢れ出てくる。
 インナーの吸った汗が冷えて、無意識が身体を震わせる。鳥肌が立つ。
 結露して不透明になった扉の内側に雫が垂れて、その軌跡だけがクリアになる。
 このまま涼んでいたい気持ちに抗って、僕は目当てのものに手を伸ばす。
 無色透明なラベルの中央に、黄色いたてがみが特徴的な伝説の動物がプリントされたボトル__の隣の、ゴシック体で「レモンサイダー」と印字されたラベルの巻かれたボトルを手に取り、扉を閉じて、再び冷気を閉じ込める。
 僕が選んだのは、いわゆるプライベートブランドの商品だ。
 普段は、隣のなで肩タイプのボトルと爽やかな味わいが特徴の炭酸飲料を好むのだが、僕が通うスーパーとこのコンビニでは価格に40円もの差があり、学校まで引き返す間の”繋ぎ”として買うには、この差額はいささか大きすぎた。
 そこでこの、プライベートブランドの登場だ。
 これなら隣のボトルと変わらない容量、かつワンコインでおつりが出るお手頃価格で清涼感を味わうことができる。
 早速会計を済ませて、レジの横に設けられたイートインスペースに向かうと、既に黒木くんと静岡くんが腰かけていた。建物の隅に合わせたL字のテーブルに沿って、背もたれのない布張りの座面の丸椅子が6脚置かれていて、静岡くんはちょうどL字の折れる位置に腰を下ろし、二つ隣の席で黒木くんは2本目のアイスをシャリシャリとかじっていた。
「座れよ」
 黒木くんに促されて、二人の間に座る。
「ふ、うぅぅぅ……」
 足にたまっていた血が流れていくのを感じ、思わず息が漏れる。
「あー、そういや今日ほぼずーっと立ちっぱなしだったもんな。応援中も立ち上がって叫んでたし」
「ちょっとコレ学校まで戻るの無理かも……」
 もうここから動きたくない、という身体の声が聞こえる。
 隣で、目を閉じて、背筋をピンと伸ばし、静かに涼んでいた静岡くんがはは、と力なく笑う。
「けれど水筒がカビてしまうし、取りに戻らないとね」
「だな。ま、一旦涼もうや」
「うん」
 僕は左手でペットボトルの腹を持ち、右手でキャップを掴む。肘を外側に開くようにキャップをひねると、プシュ、と二酸化炭素の弾ける音が鼓膜を揺らす。
 口をつけて、ゆっくりとボトルを傾けると、レモンのさわやかな酸味が鼻腔を突き抜け、しゅわしゅわと細かい泡の一粒一粒が味蕾を刺激する。喉を鳴らせば、さっきのアイスクリームが洗われ、冷えた刺激が食道を伝って体内から清涼感の渦を巻き起こす。続けてごく、ごく、と二度も飲み込めば、たちまち”涼”の渦は大きな波を起こし、五臓六腑に染み渡り、爪の先まで駆け巡る。
「くぅぅぅぅ__」
 これですわ。
 今度は内に絞るようにキャップを締めて、僅かな刺激で炭酸を逃さないよう、墓前に花を供えるが如くゆっくりとテーブルの上にボトルを置いた。
「おっさんか!」
「いやいや、こうなるでしょ」
「フ、とてもおいしそうに飲むね」
 静岡くんの笑みは優しい。
 眉頭が上がって、目尻に小さなしわが寄る、困ったような笑顔に柔らかい印象を抱くと同時に、彼の薄い唇が緩むと、同性ながら僅かの艶やかさをも覚える。
 僕はほんの少しだけ恥ずかしくなって、ペットボトルに視線を落とす。
 底面からポコポコと湧き上がっている気泡を、半端に下りたサッシの隙間から差し込むオレンジの光が貫き、キラキラと輝かせる。
「そういや、さっきの続きなんだけど。あぁいや続きっつうかアレなんだけど」
「なんだい」
「外枝のことなんだけど、今日首に包帯巻いてたじゃん? アレ、どうしたんだろうな」
「僕も気になって、夏目なつめ先生に聞いてみたのだけど、どうやらチョーカーがかぶれてしまったみたいだね」
 ウチの高校は、さっき静岡くんが言ったように式典以外の登校日は制服の着崩し、というか私服の着用が認められている。これにはアクセサリーも該当して、ピアスやバングル、ネックレスなんかを着けてくる生徒もしばしば見られる。外枝も、着用が禁止されている入学式当日から黒い革製のチョーカーを愛用している。
 今朝も相変わらず着用していたようで、しかし、閉会式を終えて応援席に戻ってきたタイミングで、外枝のチョーカーに気づき小走りでやってきた担任の夏目先生に、危ないから外しなさい、と注意をされていた。
 外枝はおとなしくチョーカーを外すと、抑揚のない声で、カバンにしまってきます、と言って一人教室へ戻った。
 それから20分ほど経過して、最初の種目の100m走が終わるころに戻ってきた外枝の首には、真っ白な包帯が巻き付けられていて、再び様子を見に来た夏目先生にどうしたのかと聞かれると、包帯を両手でさすりながら、かぶれました、とまた平坦な調子で答えた。
夏目先生は保険医の小川おがわ先生に診てもらうよう提案したが、外枝が自分で処置したからいいです、と今度はやや語気を強めて断ると、無理はしないように、とだけ伝えて職員席へ戻っていったのだった。
 二人がこの一連の出来事を知らなかったのは、黒木くんは気合を入れて朝食を食べ過ぎたせいでお手洗いに籠もり、静岡くんは学級員として職員席で運営のサポートに取り組んでいたからだ。
「はーん。確かに外枝ってずっと首にアレつけてるよな。かっけえけど、苦しくないんかな?」
「どうだろう、おしゃれは我慢とも言うからね。ルールは守ってほしいけど……」
 まったくその通りだ。
「気になるなら、直接聞いてみたら?」
「やだよ、ぜってー無視されんじゃん」
静岡くんの提案に、黒木くんは間髪入れずにそう答える。
「そうなのかい?」
「なんで?」
「あら、二人とも見たことない?」
「「何を?」」
「おわ、ハモんなよ。ま、俺もたまたま廊下で見かけただけなんだけどさ。四月の初めに御波みなみさんが外枝に話しかけたことがあったんだけど、そん時におもくそシカトかましてたんだよ」
 御波さんとは、うちのクラスのもう一人の学級委員で、端正な顔立ちと誰にでも分け隔てなく接する態度から、早くも人気を集めていて、マッチョと並んでクラスの中心人物といえる人だ。
 御波さんには、一目で人を惹きつける華がある。そんな彼女に声をかけられてしまえば、否が応でも周囲の注目を集めることになるだろう。理由はわからないけど、とにかく誰とも関りを持たない外枝にとって、それは耐え難いものだったに違いない、んだと思う、おそらく。
 とはいえ、他者に声をかけられて、無視する、というのはやはり見過ごせない過ちだ。
 黒木くんの思いがけない証言によって、外枝の新たな罪が発覚した。
 加えてもう一点、僕が感じていた外枝の変化、謎の違和感の正体が明らかになった。
 中学時代の外枝と、今の外枝。
 一人だけグレーのブレザーに身を包み、一人で新しい海をさまよっていた頃。彼女が誰とも関わらなかったのは、彼女の意志ではなく、環境のせいかもしれない、という疑念があった。高校受験と卒業を間近に控えた時期の転入、既に構築された人間関係、全ての要素が、外枝藍佳とそれ以外を断絶していた。
 ところが、ヴィジュアルも佇まいも改め、全く新しい環境で全く新しい人間関係が始まる華の高校生活のスタートダッシュ、四月の初めにクラスのマドンナから声をかけられるというセンセーショナルな事件は、"無視”という自発的な拒絶により幕を閉じた。
 つまり、昔の外枝に与えられたものが、環境による不可避の孤独だったなら、今の外枝は、自らの意志で他者を遠ざけ孤高を獲得した、といえばよいだろうか。
 外枝に付属する”独り”という要素とその由来、そして彼女のメンタリティの違いを、僕は違和感として認識していたんだ。
 外枝の中で、変わったもの、変わらないもの、そのあわいに、彼女の犯行の動機を解き明かすカギがあるのかもしれない。
「流石の学級委員長様も知らなかったか」
 口を真一文字に結んだままの静岡くんに、黒木くんがジャブを入れる。
 確かに、と思う。
 さっきのマッチョの件といい、少し怖いくらいにクラスの様子を把握している静岡くんが、女生徒間のトラブルなんて火種を見過ごすことがあるのだろうか…?
 なんて、考えすぎか。
「人間の目は二つしかないからね。何でも知っているわけじゃないさ」
 そりゃそうだ。
「そりゃそうだ」
 僕が思ったのと同じことを黒木くんが言って笑う。
 静岡くんは、知性に溢れて、品性も備えていると思う。そして、時々妙なセンスでスマートにこっちの口角を上げてくる。
 僕も笑って、静岡くんの方を見ると、静岡くんも僕を見ていた。静岡くんは笑ってない。
 視線と視線がぶつかる。
 静岡くんの目元は優しい雰囲気がある。だけど、少しもブレることなく真っすぐに向けられる視線に、僕はなんだかばつが悪くなって、一秒にも満たないうちに目を逸らしてしまった。
「どうかした?」
 アイスにかじりつく黒木くんに、この妙な空気が伝わらないよう、努めてフラットな質感で尋ねる。
「__いや。なんでもないんだ」
 不思議な間を取って、そう返された。それより、と静岡くんが続ける。
「そろそろ、水筒を取りに戻った方が良いと思う」
「また来週!」
 僕はコンビニを後にした。
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