上 下
1 / 1

第1話 雪村さんとアオイさん

しおりを挟む
 僕は信じる。
 小さい頃に、お祖母ちゃんが教えてくれた、「お米の一粒に七人の神様がいる」という教えを。
 中学生の時、20年も前に卒業したお笑い芸人が語った、「夢は必ず叶う」という言葉を。
 高校の掃除の時間、一週間毎日「家族が熱を出したから」と、僕に代わるよう頼んできたクラスメイトの嘘を。
 僕は信じる。
 人間の素晴らしさを。
 良いところも、悪いところも、それが人間だと信じて、丸ごと愛することができたら、それが一番幸せだから。
 僕が何か良くないことをこうむった時、それはどんな場合でも、全部僕のせいだ。
 逆に何か良いことが起きたなら、それはきっと僕が信じた人たちのおかげだ。
 僕が生きる世界では、間違えるのも悪いのも僕一人だ。
 そういう世界は、たまにとても苦しいような気がするけれど、きっと一番楽だ。





「あの、プリント見せてくれない?」
 4限の終わりを知らせる音楽が鳴り終わると同時に、声を掛けられる。
 声の主は、空席を一つ挟んで腰掛ける女の子だ。
 僕は教材を片付ける手を止めることなく答える。
「プリントなら前にありますよ、前回の分も」
「や、あの。や、さっきのとこ、メモ取り忘れちゃって」
 女の子は前髪をなおしながら言う。 
「そういうことなら、どうぞ」
 僕はたった今ファイルにしまったばかりのプリントを差し出す。
 女の子は、A4の紙一枚を、両手で受け取る。
「あ、ありがとう」
「読みづらいとこがあったら、ごめんなさい」
 小さく頭を下げ、断りを入れる。
「や、あの、全然助かる。ありがとう」
 そう言いながらスマホを取り出して、パシャパシャと写真を撮る。
「大丈夫そう?」
 シャッター音が止んでから尋ねると、女の子は、何枚か写真をスクロールするそぶりを見せてから、うなずいた。
「あの、ありがとう、ほんとに。助かった」
 女の子は両手でプリントを持って、向きもこちらに合わせて丁寧に返してくる。
「助けになれたなら良かったです」
 僕も両手で受け取って、女の子と目を合わせる。
 すると、既にこちらを向いていた女の子の視線とぶつかる。
 微妙な空気が流れる。
「それじゃ、お疲れさまでした」
 沈黙を振り切るように荷物をまとめ、席を立とうとすると、女の子が再び口を開いた。
「あのっ」
「はい……?」
 浮かせた腰を落ち着けて、再び女の子に向き直る。
「ライン、聞いてもい?」
 女の子の頬が、ほんのりと赤みを帯びている。
「いいですけど、どうして……?」
「…れは、その」
 女の子の耳は、燃えているように真っ赤に染まっている。
 反対に、目の横を落ちる触覚と耳にかけた髪の間からみえる素肌は、脱色したように真っ白だ。
 長くて豊かなまつげが、パチパチと上下している。
 僕が無遠慮に視線を向けている間も、女の子は二の句が出ない。
「体調悪い?」
 努めて優しく尋ねると、女の子はハッとして答えた。
「プリント…! もらい忘れて」
「前回の分なら、前にありますよ」
 教壇を指すと、ちょうど教授が教材をまとめているところだった。
「や、その、もう一個前の、なくて」
 しどろもどろな言葉が、腑に落ちる。
「ああ、アレ、テストに出るって言ってましたよね」
「そう、それそれ。だから、写真、送ってほしい」
 女の子がQRコードを表示させたスマホの画面を、こちらに向ける。
「いや、それなら今そのプリント持ってるので、コピーして渡しますよ」
 僕は再びファイルを取り出す。
 日付順に重ねたプリントをパラパラとめくっている間、「あ…」と女の子が再び何かを言いかけたのが聞こえた。
「しまった、家で復習に使って、そのまま置いてきてしまったみたいです」
「じゃ、じゃあ…!」
「少しお待たせすることになりますけど、後で写真、送りますね」
 今度は僕から、QRコードを提示する。
「あ、りがと……」
 女の子はやはり両手でスマホを持って、慎重にQRコードを読み取る。
「ばん、くん……」
 呟く声に、どこか聞き覚えがあるような気がした。
「あっ。や、その、引き留めてごめんね…?」
 恐る恐る、という様子で女の子が言う。
「いや、急いでないし、大丈夫ですよ」
 腕時計を確認して、答える。
「あ、そっか、よかった……」
 再び、微妙な空気が流れる。
 今度こそ、席を立とうとすると、僕がお尻を浮かせるよりも早く、女の子が立ち上がった。
「あ、わたしバイトだ。それじゃ…」
 足早に立ち去ろうとする女の子に、僕は慌てて別れの挨拶を投げかける。
「えっと、バイト頑張って! 写真、後で送るから!」
 一瞬、スマホに目線を落とす。
「またね! 雪村さん!」
 名前を呼ぶと、ドアを開けたままの体勢で雪村さんが振り返る。
 遠目にわかるほど、その顔は赤い。
「うん!」
 ここまで一番の声量で答えて、小走りに去っていった。
 それから、僕も席を立ち、リュックを背負う。
 雪村さんの開けたドアを通って、教室に誰も残っていないのを確認してから、閉じる。
 ゆっくり、廊下に音が響かないように、ゆっくりドアノブから手を放す。
「ん……?」
 そういえば、どうして雪村さんは、あのプリントがテストに出ると知っていたんだろう。
 プリントをもらっていないってことは、授業に出なかったってこと。
 授業に出てないなら、そのプリントがテストに出ること自体、知らないはずだ。
「まあ、いいか」
 頭の片隅で生まれた小さな疑問を追い出して、僕は家路を急ぐ。
 さっき、「急いでない」といったのは、嘘じゃない。
 この後、時間を急ぐような約束事があるわけじゃない。
 ならばどうして急ぐのかというと、今日は、同居人が夕飯を作ってくれる日だからだ。
 
 

*

  
 ドアを開けると、間髪入れずに同居人が胸に飛び込んでくる。
「おかえりなさいっ」
 その声は少女のように可憐で、しかし淑女のような安らぎさえ感じさせる。
「ただいま」
 僕は彼女の髪が乱れないように、頭をそっと指で撫でる。
 ほんのりと甘い、フローラルの香りがふわりと漂う。
「えへへ、くすぐったいよ」
 彼女が少し照れて言うけれど、僕の手を止めることはしない。
「あんまり綺麗な髪だから、つい触れたくなってしまうんだ」
 後ろ手にドアを閉めながら、部屋に入る。
 僕が靴を脱いでいる間に、同居人はぱたぱたとリビングへ駆けていく。
「確認! 夕ご飯、まだだよね?」
 後ろから鼓膜を揺らす、優しい声色に、僕の心は温かくなって、ふわふわする。
「うん、食べてない」
 スニーカーの向きを揃えながら答える。
 隣に置いてある同居人の靴は、白くて小さくて、とても綺麗だ。
 僕の28cmのスニーカーと並べるともっと小さく見えて、それがなんだか可愛らしくて、自然と口角が上がる。
「もしかして、もうご飯出来てる?」
 僕は半ば確信して聞く。
 換気扇の音。わずかに残った香ばしい匂い。
「ピンポーン」
 穏やかな声が、弾む。それだけで、世界が木漏れ日のような幸せに満たされる。
「さっき、連絡くれたでしょ? それで、伴くんがお家に着く時間に合わせて、作っちゃいました」
「えー! ありがとう」
 父、母、祖父、祖母。
 僕に繋がるまで、連綿と紡がれてきた命の連なりは、この時のためにあったのかもしれない。
 この気持ちが、そっくりそのまま、同期するように伝わればいいのに、と思う。
 形のない心の代謝を表すのに、秩序ある言葉じゃ少し足りない。
 だから、せめて、精一杯心を込めて、大切に「ありがとう」の五文字を言うんだ。
「へへ、時間、ぴったりだったね!」
 軽やかな声に、僕の胸が高鳴る。
「ベストタイミングで帰ってこられたみたいで、良かった」
 手を洗い、興奮を落ち着けてから、洗面所を出る。
「うんうん! あ、ちょっと暗いよね、電気点ける」
 同居人がピ、っと唱えて、部屋の中は暖かいオレンジ色の明かりに照らされる。
「ジャーン! 今日のご飯はオムライスです!」
 得意げな同居人の表情が、美しくて、可愛い。
「めっちゃ美味しそう……」
「ふふん、でしょ。更に、ここから美味しくなるよ」
 同居人が、両手で真っ赤なチューブを持って、オムライスに口を向ける。
「よいしょーっ、ほっ、はっ」
 威勢のいい掛け声と裏腹に、ゆっくりと黄色いキャンパスに赤い文字が描かれていく。
「ば、ん、く、ん……」
 眉間に皺を寄せた表情は、まさに真剣そのものだ。
「よし、できたーっ」
 完成したオムライスには、「伴くん」と僕の名前、そして最後に、皿にはみ出るほどのハートマークがあしらわれていた。
「わあ、ありがとう」
 感極まった僕の声に、同居人は照れ隠しに頬をかく。
「ちょっとはみ出しちゃったけど……」
「めちゃくちゃ嬉しいよ…!」
「そ? そう言ってくれて、私もうれしー」
 同居人の緩い笑顔には、引力があると思う。
「それじゃ、さっそく……」
 僕はデザート用の小さいスプーンを手に取り、オムライスを一口分、浅い小皿に取り分ける。
「はい、アオイさん」
「ありがとう」
 アオイさんが手をかざすと、小皿は瞬く間に、一円玉と同じくらいまで縮んだ。
 テーブルの上に置いてある、木目調の小さな丸テーブルと丸椅子は、百均で買ったものだ。
 そこに腰かけたアオイさんが、僕を見上げながら、口元に手を添えてささやく。
「せーの」
「「いただきます」」
 二人の声が重なる。
 僕は、この味や、アオイさんが料理に掛けた時間、気持ち、お皿に乗った何もかもを取りこぼしたくなくて、そして万が一にも、下品な咀嚼音なんて聞かせたくなくて、口を結んで、ゆっくりと下あごを動かす。
 アオイさんはといえば、一度に頬張りすぎたのか、両の頬を膨らませながら、もぐもぐと一生懸命に噛んでいる。
 僕はそれを見て、ああ、アオイさんも生き物なんだな、なんて思う。
 生きるための食事。
 かけがけのない時間を、僕はアオイさんと、アオイさんは僕と共に過ごしている。
 その事実がたまらなく愛おしくて、オムライスがもっと、何倍にも美味しくなる。
 僕の喉の隆起が上下して、アオイさんの頬がしぼんだ時、もう一度二人の声が重なる。
「「美味しいねっ」」
 僕の同居人は、アオイさんという。
 ある日、ひょんなことから出会った、妖精である。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

大嫌いな歯科医は変態ドS眼鏡!

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
……歯が痛い。 でも、歯医者は嫌いで痛み止めを飲んで我慢してた。 けれど虫歯は歯医者に行かなきゃ治らない。 同僚の勧めで痛みの少ない治療をすると評判の歯科医に行ったけれど……。 そこにいたのは変態ドS眼鏡の歯科医だった!?

百合系サキュバスにモテてしまっていると言う話

釧路太郎
キャラ文芸
名門零楼館高校はもともと女子高であったのだが、様々な要因で共学になって数年が経つ。 文武両道を掲げる零楼館高校はスポーツ分野だけではなく進学実績も全国レベルで見ても上位に食い込んでいるのであった。 そんな零楼館高校の歴史において今まで誰一人として選ばれたことのない“特別指名推薦”に選ばれたのが工藤珠希なのである。 工藤珠希は身長こそ平均を超えていたが、運動や学力はいたって平均クラスであり性格の良さはあるものの特筆すべき才能も無いように見られていた。 むしろ、彼女の幼馴染である工藤太郎は様々な部活の助っ人として活躍し、中学生でありながら様々な競技のプロ団体からスカウトが来るほどであった。更に、学力面においても優秀であり国内のみならず海外への進学も不可能ではないと言われるほどであった。 “特別指名推薦”の話が学校に来た時は誰もが相手を間違えているのではないかと疑ったほどであったが、零楼館高校関係者は工藤珠希で間違いないという。 工藤珠希と工藤太郎は血縁関係はなく、複雑な家庭環境であった工藤太郎が幼いころに両親を亡くしたこともあって彼は工藤家の養子として迎えられていた。 兄妹同然に育った二人ではあったが、お互いが相手の事を守ろうとする良き関係であり、恋人ではないがそれ以上に信頼しあっている。二人の関係性は苗字が同じという事もあって夫婦と揶揄されることも多々あったのだ。 工藤太郎は県外にあるスポーツ名門校からの推薦も来ていてほぼ内定していたのだが、工藤珠希が零楼館高校に入学することを決めたことを受けて彼も零楼館高校を受験することとなった。 スポーツ分野でも名をはせている零楼館高校に工藤太郎が入学すること自体は何の違和感もないのだが、本来入学する予定であった高校関係者は落胆の声をあげていたのだ。だが、彼の出自も相まって彼の意志を否定する者は誰もいなかったのである。 二人が入学する零楼館高校には外に出ていない秘密があるのだ。 零楼館高校に通う生徒のみならず、教員職員運営者の多くがサキュバスでありそのサキュバスも一般的に知られているサキュバスと違い女性を対象とした変異種なのである。 かつては“秘密の花園”と呼ばれた零楼館女子高等学校もそういった意味を持っていたのだった。 ちなみに、工藤珠希は工藤太郎の事を好きなのだが、それは誰にも言えない秘密なのである。 この作品は「小説家になろう」「カクヨム」「ノベルアッププラス」「ノベルバ」「ノベルピア」にも掲載しております。

『イケメンイスラエル大使館員と古代ユダヤの「アーク探し」の5日間の某国特殊部隊相手の大激戦!なっちゃん恋愛小説シリーズ第1弾!』

あらお☆ひろ
キャラ文芸
「なつ&陽菜コンビ」にニコニコ商店街・ニコニコプロレスのメンバーが再集結の第1弾! もちろん、「なっちゃん」の恋愛小説シリーズ第1弾でもあります! ニコニコ商店街・ニコニコポロレスのメンバーが再集結。 稀世・三郎夫婦に3歳になったひまわりに直とまりあ。 もちろん夏子&陽菜のコンビも健在。 今作の主人公は「夏子」? 淡路島イザナギ神社で知り合ったイケメン大使館員の「MK」も加わり10人の旅が始まる。 ホテルの庭で偶然拾った二つの「古代ユダヤ支族の紋章の入った指輪」をきっかけに、古来ユダヤの巫女と化した夏子は「部屋荒らし」、「ひったくり」そして「追跡」と謎の外人に追われる! 古代ユダヤの支族が日本に持ち込んだとされる「ソロモンの秘宝」と「アーク(聖櫃)」に入れられた「三種の神器」の隠し場所を夏子のお告げと客観的歴史事実を基に淡路、徳島、京都、長野、能登、伊勢とアークの追跡が始まる。 もちろん最後はお決まりの「ドンパチ」の格闘戦! アークと夏子とMKの恋の行方をお時間のある人はゆるーく一緒に見守ってあげてください! では、よろひこー (⋈◍>◡<◍)。✧♡!

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

憧れの先輩とイケナイ状況に!?

暗黒神ゼブラ
恋愛
今日私は憧れの先輩とご飯を食べに行くことになっちゃった!?

処理中です...