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前日譚:青百合の王と灰の魔術師

9.いつかあなたにも

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 寝台の上でティーナは意識を失っていた。あれだけ手酷く抱いたのだから当然と言えば当然だ。

 左胸には、呪いの証として青い百合の紋章を刻んだ。これがある限り、ティーナはマルコ以外に抱かれると、この苦痛を味わうことになる。
 エアハルトは手早く衣服を身に着けた。

「いいかな、ハーディ」
 気遣うようなノックの音が部屋に響く。エアハルトは「終わったよ」とだけ返した。

 扉を開けてマルコが入ってくる。自分の妻を抱かせてどんな顔をしてくるだろうと思ったけれど、彼はいつもと変わらぬままだった。

「ありがとう、ハーディ」
 マルコは持ってきた革袋をテーブルの上に置いた。金属の重たい音が響く。マルコは、ティーナが外した髪飾りを手に取って、少しの間それを見つめていた。けれど、何もなかったかのように、またテーブルの上にそれを戻した。

「約束のものは用意したよ」
 革袋は全部で五つで、どれにもぎっしりと金塊が詰まっていた。エアハルトが一つ目の対価に望んだのとぴったり同じだけの量の金塊だった。

「ねえ、ハーディ。僕を愚かだと思うかい?」
 マルコは寝台の端に腰掛けた。そして、寝台に投げ出されたティーナの肢体にゆっくりとブランケットを掛ける。まるで壊れ物にするようなその手つきは、とても彼女を呪いたいと願った人のものとは思えなかった。

「おれに、誰かを愚かだと決めつけることはできないよ」
 それもそうだとマルコは笑った。穏やかで、満たされた笑みだった。

「最初に僕が願ったことを、あなたは覚えているかい?」
「覚えてるよ」
 あの時も、彼はこの城でエアハルトに願った。

「僕はあなたに、攻めてきた隣国の軍勢からこの国を守ってくれるように願った」
 黒曜石の瞳は、あの日を振り返るように遠くを見遣る。エアハルトにとっては昨日のような出来事でも、少年が大人になるだけの十分な時間、過去の話だ。

「あの時のあなたはすごかったね。僕の願いを聞き入れて、左手を振るだけであれだけの数の軍勢に火を放った」
「ああ、そうだったな」

 絶対的な強さ。全てを燃やし尽くす青の炎。生きたまま焼かれて、悲鳴を上げて死んでいく兵士達。そうして残るのは、灰だけ。

「ハーディは僕の英雄だった」
 どこからどう見ても地獄でしかなかったはずだ。けれど、エアハルトは確かにマルコの願いを叶えたし、彼にとっては救いだったんだろう。

 マルコの目が真っ直ぐにエアハルトを見つめてくる。

「ありがとう。だから、最後にこれを対価に払うよ、僕がこれから先、あなたに何かを願う権利」

 これが、エアハルトがマルコに望んだもう一つの対価だった。

 ああ、本当に最後なんだと思った。
 寝台から立ち上がったマルコは右手を差し出した。握ったその手は、自分のものと変わりない大きさの男の手だった。

「確かに、対価を受け取った」
 東の空が明るくなってくる。もうすぐ夜が明ける。やることは全て終わった。いつまでもここにいる意味もない。一つ念じて、金塊の入った革袋を魔術で全てローブに仕舞込んだ。

「それじゃあ、おれはこれで」
 ひらりとローブを羽織るエアハルトに、マルコは尋ねた。

「ハーディ、あなたは自分の為に誰かを呪ったことはある?」
「ないな」
 この二百年と少しの間、自分のために誰かを呪ったことはない。

「そう」
 マルコは乱れたティーナの金の髪を撫でた。

「いつかあなたにもわかるはずだよ」
 予言のような、何かを見透かした声だった。

「あなたもきっと、誰かを好きになる日が来る。そして、思うはずだ。僕だけを見て、僕のことだけ考えて、僕だけのものになってほしいって」

「どうして、そう思うんだ?」
「あなたが優しくて、そして嘘が吐けないからだよ、ハーディ」
 そう告げて、マルコは微笑んだ。寂しい笑みだった。そこでやっと、彼にはもう追い越されていたのだと気が付いた。

「こんな回りくどい対価を要求しないで、あなたは僕に言えばよかったんだよ。こんな願いを叶えるのは嫌だって」
 マルコは分かっていたのだ。エアハルトがこの願いを叶えたくないと思っていたことを。それでも、彼は呪いを望んだ。

 そして、断ることもできたのに、エアハルトはそうしなかった。

「約束したからな。困ったときは願いを叶えてやるって」
「それでも、この願いじゃなくて他の願いにしろって言うこともできたはずだよ。だけど、あなたはそうしなかった」
「そうすればよかったって、今気づいたよ」
 気づいたところで、もうどうしようもないことだけれど。


「僕も、あなたも、同じように愚かな人間だよ」


 成長した王は魔術師に告げる。

「これから先、それが明日なのか、百年先なのか二百年先なのか、分からないけれど。あなたが誰かを愛した時、どうしたいか、ちゃんと考えておいたほうがいい」
 昇った朝日が窓から差し込んで、二人の間にするりと落ちた。

「あなたより先に老いて、あなたより先に死ぬ者からの精一杯の忠告だ」
 到底そんな日が来るとはエアハルトには思えなかった。

「もしそんな日がきたら、おれは笑ってやるよ」
「ははは、その時のハーディの顔を見られないのが残念だな」
 もう二度と、あなたに会うことはないだろうから。

「さようなら、僕の魔法使い」
「ああ、さよならだ。マルコ」

 鳥に姿を変えて、エアハルトは飛び立っていく。
 翼にきらきらと太陽が反射して、とてもきれいだった。
 マルコシアスは小さく見えなくなるまで、ずっとその姿を目で追いかけた。

「さあ、これで君はずっと僕の物だ。アルベルティーナ」
 振り返れば、そこには愛しい伴侶が居る。
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