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第二部
6.あなたに会いたい
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そんな夢を見て目覚めるからか、わたしは朝食をまったくと言っていいほど食べられなかった。あの石を握らずに眠れば、ちゃんと眠れるのかもしれない。けれど、わたしはあの人の夢を見たかった。
いつも心を尽くして料理をしてくれる料理長に申し訳ない。
「最近はパンをお二つ召し上がれるようになっていたのに、残念ですね」
それはいつのことなのだろう。わたしは以前から朝食は簡単なものか果物ぐらいしか食べられなかったはずなのに。
「姫様。これならいかがでしょう?」
ある日、料理長がありとあらゆるお菓子を作って持ってきてくれた。マドレーヌ、ガレット、フィナンシェ。ビスケットにバターケーキ。あとはわたしの大好きなブラウニーも。
めっきり食が細くなって痩せてきたわたしを心配してくれたのだろう。その気遣いが嬉しかった。
甘いお菓子の香りに気分がふっと明るくなる。お気に入りの紅茶を淹れてもらうように頼むと、コルネリアはきれいなお辞儀をして下がった。
紅茶を待ちながら手始めにマドレーヌを口に運ぶ。すると、
“ほら、口開けて”
声が響いた。
舌の上でとろける、ショコラのような声。
「あ……」
マドレーヌを咀嚼しながら、わたしは口を押さえた。視界が滲んでいく。ぽたりぽたりと雫が落ちる。
テーブルの向いには誰もいない。ただ椅子が置いてあるだけ。
どんなお菓子も、この声の甘さには敵わないだろう。
涙が溢れて止まらなかった。
きっと、わたしはこのお菓子を誰かと一緒に食べたのだ。
思い出せないのに、その人に会いたくて仕方なかった。
「姫様っ! どうされたのですか?」
紅茶を運んできたコルネリアが血相を変えて駆け寄ってくる。彼女にしては珍しく、乱暴にテーブルに置かれた食器が音を立てる。それでもわたしは泣き止むことができなかった。
「大した、ことじゃ、ないの……ひっ」
せっかくのお菓子は、どれも砂を噛むような味しかしなかった。
*
「月の姫」を失った地上の人々は、彼女が帰った月を眺めてずっと泣き暮らすという。
覚えているのと、思い出せないのと、どちらがつらいのだろうと思った。
わたしは多くのことを忘れてしまっている。けれど、それは覚えていたくなかったからかもしれない。抱えているにはつらすぎることだったから。
だったら、このまま無理に思い出そうとせずに、通り過ぎていくのを待つのもいいのかもしれない。
一時、目を閉じて願う。このまま全部忘れてしまえと。
「……無理ね」
あんな声を思い出してしまったら、もう無理だ。彼の声はわたしをなんて呼んだのかしら。
わたしは部屋の中を探し始めた。なんでもいい。彼が確かに存在するなら、何かそれに繋がるものがあるはず。
刺繍の図案の本、Eのページに、挟まっている紙があった。
「E……?」
銀色の三日月に合わせて青い糸でEのイニシャルを刺繍する図案。ちまちまとした字で色々とメモがしてある。覚えはないけれど間違いない、わたしの字だ。
お兄さま達のイニシャルじゃない。ということは、きっとその人の名前のイニシャルはEだ。これを刺すのに使ったのが、あの宝石箱に入っていた刺繡糸だったんだわ。
出来上がったものは、わたしの手元にはない。つまり、これを持っている人がいる。
わざわざ嫌いな人の為に、刺繍をするほど、わたしは物好きな人間ではない。わたしは、その人のことを想っていたはずだ。
全部忘れたいかどうかは、全部思い出してから決めればいい。
わたしはこの夜も、青い石を握って眠りについた。
違うことは、知りたいと願ったこと。
彼のこと。彼と過ごしたその時間の全て。
呪いが消えたことに気づいてから二週間。空に昇る月はそろそろ、満ちる。
いつも心を尽くして料理をしてくれる料理長に申し訳ない。
「最近はパンをお二つ召し上がれるようになっていたのに、残念ですね」
それはいつのことなのだろう。わたしは以前から朝食は簡単なものか果物ぐらいしか食べられなかったはずなのに。
「姫様。これならいかがでしょう?」
ある日、料理長がありとあらゆるお菓子を作って持ってきてくれた。マドレーヌ、ガレット、フィナンシェ。ビスケットにバターケーキ。あとはわたしの大好きなブラウニーも。
めっきり食が細くなって痩せてきたわたしを心配してくれたのだろう。その気遣いが嬉しかった。
甘いお菓子の香りに気分がふっと明るくなる。お気に入りの紅茶を淹れてもらうように頼むと、コルネリアはきれいなお辞儀をして下がった。
紅茶を待ちながら手始めにマドレーヌを口に運ぶ。すると、
“ほら、口開けて”
声が響いた。
舌の上でとろける、ショコラのような声。
「あ……」
マドレーヌを咀嚼しながら、わたしは口を押さえた。視界が滲んでいく。ぽたりぽたりと雫が落ちる。
テーブルの向いには誰もいない。ただ椅子が置いてあるだけ。
どんなお菓子も、この声の甘さには敵わないだろう。
涙が溢れて止まらなかった。
きっと、わたしはこのお菓子を誰かと一緒に食べたのだ。
思い出せないのに、その人に会いたくて仕方なかった。
「姫様っ! どうされたのですか?」
紅茶を運んできたコルネリアが血相を変えて駆け寄ってくる。彼女にしては珍しく、乱暴にテーブルに置かれた食器が音を立てる。それでもわたしは泣き止むことができなかった。
「大した、ことじゃ、ないの……ひっ」
せっかくのお菓子は、どれも砂を噛むような味しかしなかった。
*
「月の姫」を失った地上の人々は、彼女が帰った月を眺めてずっと泣き暮らすという。
覚えているのと、思い出せないのと、どちらがつらいのだろうと思った。
わたしは多くのことを忘れてしまっている。けれど、それは覚えていたくなかったからかもしれない。抱えているにはつらすぎることだったから。
だったら、このまま無理に思い出そうとせずに、通り過ぎていくのを待つのもいいのかもしれない。
一時、目を閉じて願う。このまま全部忘れてしまえと。
「……無理ね」
あんな声を思い出してしまったら、もう無理だ。彼の声はわたしをなんて呼んだのかしら。
わたしは部屋の中を探し始めた。なんでもいい。彼が確かに存在するなら、何かそれに繋がるものがあるはず。
刺繍の図案の本、Eのページに、挟まっている紙があった。
「E……?」
銀色の三日月に合わせて青い糸でEのイニシャルを刺繍する図案。ちまちまとした字で色々とメモがしてある。覚えはないけれど間違いない、わたしの字だ。
お兄さま達のイニシャルじゃない。ということは、きっとその人の名前のイニシャルはEだ。これを刺すのに使ったのが、あの宝石箱に入っていた刺繡糸だったんだわ。
出来上がったものは、わたしの手元にはない。つまり、これを持っている人がいる。
わざわざ嫌いな人の為に、刺繍をするほど、わたしは物好きな人間ではない。わたしは、その人のことを想っていたはずだ。
全部忘れたいかどうかは、全部思い出してから決めればいい。
わたしはこの夜も、青い石を握って眠りについた。
違うことは、知りたいと願ったこと。
彼のこと。彼と過ごしたその時間の全て。
呪いが消えたことに気づいてから二週間。空に昇る月はそろそろ、満ちる。
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