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3.想像のキス

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 それから何度か互いの家を行き来したりした。彼が持参する花は、スイトピーだったり芍薬だったりした。

 そしてある時、レオンハルトがフランツィスカの仕事場にやって来た。

「フランツィスカ様、お客様です」

 その頃はちょうど月末で、フランツィスカはとても忙しかった。今月中に提出しなければならない書類が山のようにあった。あっちの請求書を確認し、こっちの予算申請を時に退け、時に通した。長く仕えている部下でもそうそう近づかない、経理の鬼が本気を出している時である。
 不機嫌を隠す余裕もなく、度がきつい眼鏡を一度掛け直した。

「今は忙しいとお断りしてくれ」
「それがその、ほんの一瞬でいいとのことなのですが……」

 ここまで食い下がる来客も珍しい。一体誰だろう。

「一瞬の定義は人による。具体的にどれぐらい必要か聞いてきてくれ」
 そう、フランツィスカは物事を曖昧なままにしておけない質なのである。いつも白黒つけてしまう。

「三分ほど欲しいとのことです」
「はあ。三分か」

 三分ぐらいならいいか。ちょうど頭も煮詰まってきたところだったので。
「分かった。会おう」

 部下が連れてきたのは茶色の頭だった。まるで玄関で主人の帰りを待つ大型犬のよう。ただ、今日はあまり尻尾は揺れていなくて、どことなく元気がなさそうに見える。

「なんだ、君か」
「お久しぶりです。フランツィスカさん」

 一通り婚約関連の儀式は済ませたのだが、互いに仕事が忙しくて会うのは久しぶりだった。レオンハルトだと知っていたら別に三分だとか細かいことは言わなかったのに。

「何かあったのかい?」
「その、えっと……」

 快活で物事をはっきり言うのが彼の長所だとフランツィスカは思っているのだけれど、今日はそれがなかった。わしゃわしゃと髪をかき上げて所在なげにきょろきょろとしている。

「言われないと分からないが」
「そう、ですよね……」

 レオンハルトは、フランツィスカと目線を合わせるように屈んだ。

「ちょっと騎士団の任務で二週間ほど遠征することになりまして」
「そう言えば予算の申請が来ていたな」

 頭の中で全く情報が結びついていなかった。装備品の購入希望も見ていたのに、それを持つ人のことをフランツィスカは考えていなかった。

 それがましてや夫となる予定の男だなんて。

「そこまで危険な任務ではないんですけど。行く前にフランツィスカさんに会いたかったんです」

 現在この国はどこかと戦争状態にあるということはない。レオンハルトの言うことはもっともである。
 しかし、絶対ではない。

「あの、フランツィスカさん」
 彼はまたもじもじとし始めた。大きな手を体の前で組んだかと思うと、それをずっと眺めていた。

「なんだい」
 意を決したようにレオンハルトは顔を上げる。それでも、たっぷり十秒ほど子犬のような目でフランツィスカを見つめてから言った。

「ちゃんと帰ってこれたら、ご褒美に、ちゅー……とかしてくれますか?」

 これは、その、なんだ。

「はあ」
 フランツィスカはまだ結婚もしていないのに、未亡人に限りなく近い何かになる可能性が出てきてしまった。

「実に、非合理的だ」

 やれやれと天井を仰ぐ。毎日仕事をする執務室の天井だ。見上げたところで何も目新しいものはなかった。

「そうですよね……だめですよね」
 目の前の犬は項垂れていた。しょんぼり。見えない尻尾も耳も垂れている。

「おそらく君は勘違いをしている」
 椅子から立ち上がって、精悍な顔に手を当てた。特別小さいと思ったことはなかったけれど、レオンハルトの手と比べるとこの手は小さいなと思った。

 榛色の瞳と見つめ合う。澄んだその目は近くで見てもやはりきれいだった。

「想像のキスごときで頑張って帰って来られるのなら、先にしておいた方が費用対効果が高いと言えるだろう」

 一つ息をついてから、その頬に自分の唇で触れてみた。気負った割には、随分と簡単にできてしまった。

 これは減るものではないから、費用はほぼないようなものだ。それぐらいならしてやる。期待されているのがこういうことなのかは、分からなかったけれど。

「気を付けて行ってきたまえ。帰りを、待っているよ」

 レオンハルトは、頬に手で触れて確かめるようにした。何回も、何回も。彼が思っていたのと一致しているとよいのだけれど。

 レオンハルトはすっと立ち上がる。
 光を宿した目が、フランツィスカを捉える。

 それから、肩に手が置かれた。痛いというほどではなかったけれど強い力で、こんな顔をしていても男の人なのだなぁと頭の片隅で思った。

 髪と同じ色の茶色の睫毛が伏せられていって、あたたかいものが触れた。噛みつくようにぶつけてきたくせに、それはためらいがちに繰り返し、やわらかくフランツィスカの唇を食んだ。

 再び榛色の目と見つめ合った時、離れがたかったのはなせだろう。

「いってきます」
 それだけ言い残して、レオンハルトは去っていった。茶色の髪から覗く耳まで真っ赤だった。フランツィスカの三歩分の歩幅はやはり大きくて、すぐにその背中は見えなくなった。

 所要時間は三分をゆうに超えていた。けれど五分にも満たなかった。

 仕事に戻ったけれどちっとも手につかない。
 煮詰まっていたのではない。いや強いて言えば、煮詰めすぎたのかもしれない。

 ――ばかばかしい。鬼とも言われた、この私が。

 なにせ茶色の頭のことしか、考えられなかったので。フランツィスカもちゃんと、人の子だった。
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