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1.事のはじまり
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男が泣いていた。
「ごめんなさい」
大きな肩を震わせて、これまた大きな手を握って、眦を拭う。文字通りしくしくといった感じだ。
「おかしいと思ってたんです。やっぱりこんなこと、続けちゃいけない」
「いやいやいや!」
フランツィスカはそれを見て面食らってしまった。泣いている場合か。為すべき使命がここにあるというのに。そして、毅然とした声で答える。
「挿れてもらわないと困る。できればそう、可及的速やかに!!」
慣れた仕草でズレた眼鏡を直すが、その顔は赤かった。
彼が泣き止む兆しはない。
流れ落ちた澄んだ涙は、ぽつりと小さくシーツに染みを作った。
「こういうことは、ちゃんと、好きな人同士でするべきです」
*
事の発端は、半年前に遡る。
我がリーネルト伯爵家に縁談がやって来た。しかも、王から直々のである。
フランツィスカ自身はその場にいなかったのでこれは侍女から聞いた話だが、書状を開いた父は青ざめて天を仰ぎ、母は卒倒したという。
相手が相手だったからだ。
姓をアメルハウザー。名はレオンハルト。爵位は侯爵である。
問題は、アメルハウザー家が生粋の武官の家系であることだ。確か、騎士団に所属している。夜会か何かで姿を見かけたことはある。背の高い男だった。
対するリーネルト家は代々文官の家系。得意なのは法務と財務一般。フランツィスカも法典を子守歌に、算盤を玩具にして大きくなった。大学も優秀な成績で卒業した。今は王宮で文官として勤務している。
この国では女でも爵位が継げるため、いつかフランツィスカも婿を迎え家を盛り立てていこう、そう思っていた矢先だった。
三代前の祖父同士が揉めたせいで両家の仲はすこぶる悪い。王がそれをお嘆きになっての婚姻だった。なお、何故揉めていたのかは知らない。
野蛮な武官の家に、刑法よ分数よと愛でて育てた長女が嫁ぐ。
両親はそのことに絶望したのだ。
「仕方がないことです」
嘆き続ける両親を前に、フランツィスカは言った。その時まだ、結婚ということの意味はよく分かってはいなかった。
けれど、跡継ぎとしては二つ年下の弟もいる。正直、頭の出来としてはフランツィスカの方がいいのだけれど。レオンハルトの他に子供のいないアメルハウザー家には、自分が嫁ぐのが順当ということは容易に理解ができた。
いわゆる政略結婚だ。よくあることだ。
そう、言い聞かせていた。
それから一週間もしないうちにレオンハルト本人が婚約のために訪ねてきた。父と母に結婚に結婚を乞い、フランツィスカも彼を迎えた。
やわらかそうな茶色の髪を撫でつけ、儀礼用の盛装を完璧に着こなしている。育ちの良さそうな柔和な顔立ちに、小柄なフランツィスカの首が痛くなるぐらいの長身。
「はじめまして、リーネルトさん」
そう言って、手に持っていた花束を渡してくれた。ちゃんと屈んでくれたので目が合った。にっこりと、音が聞こえるかのような微笑み。獅子というよりはまるで犬のようだった。
榛色の瞳が、きれいだった。
「……フランツィスカと呼んでくれて構わない」
「それでは、フランツィスカさん。どうぞ」
差し出されたのは、アネモネの花だった。赤と白のものを巧く組み合わせてアレンジしてある。彼が持つにはいささか似つかわしくない、可憐で美しいものだった。
「君は、この花の意味を分かっているのかい」
けれど、思わずため息が出てしまった。
「え、花に意味なんか、あるんですか?」
フランツィスカが訊くと、レオンハルトは首を傾げた。
「きれいだと思ったので、持ってきました」
本当にそれだけの理由だったのだろう。会って間もないが、それでも分かってしまうものがあった。
フランツィスカが黙っていると、レオンハルトが心配そうに見下ろしてきた。形のいい眉がハの字に下がる。
「すみません、俺なにかいけないことをしたでしょうか?」
さて、ここで本当のことを言うべきか。適当に「嬉しかったです」と流すべきか。
フランツィスカには、大学時代から現在にかけて拝命したありがたい二つ名がある。
「鉄の女」「経理の鬼」「笑わない魔女」
リーネルト家では普通のことだが、学問に邁進する女はまだ少ない。奇異の目で見られたし、男の学生にも馬鹿にされた。
『女のくせに生意気だな』
そういう奴は大体成績で完膚なきまでにぶちのめしてやった。毎週のように事業計画書を叩きつけらたこともある。勿論、片っ端から添削してお返し申し上げたけれど。騎士団にいた彼はこのことを知らないのだろう。
見た目は悪くないのに、と面と向かって言われたこともある。
背が小さくて母親似の顔立ちは黙っていればそれなりに見えるらしい。まあ大体会話を五分ほどすると崩れ去る砂上の楼閣だが。
きらきらが、ずっとこっちを見ていた。主人を慕う犬はきっとこんな目をしているに違いない。
――鉄の女に花を贈る奴がいるなんてな。
「いいや、なんでもない。ありがたく頂戴しよう。次は貴家の財務三表を持って来て頂けるとなお嬉しい」
「財務三表ってなんです?」
「貸借対照表とキャッシュフロー計算書と損益計算書のことだ。家令に聞けばわかる」
「分かりました! 次は持ってきますね!!」
見えない尻尾をぶんぶんと振って、彼は頷いた。やはり獅子ではなくて犬だと思う。
アネモネには見た目のかわいらしさとは裏腹に毒がある。花言葉は“はかない恋”だ。恋人に贈るものとしては不適と言わざるを得ない。はじまってもいない恋が終わってしまうところである。
けれど、それでもフランツィスカは嬉しかったのだ。そして同時に自分に似合いだとも。
「ごめんなさい」
大きな肩を震わせて、これまた大きな手を握って、眦を拭う。文字通りしくしくといった感じだ。
「おかしいと思ってたんです。やっぱりこんなこと、続けちゃいけない」
「いやいやいや!」
フランツィスカはそれを見て面食らってしまった。泣いている場合か。為すべき使命がここにあるというのに。そして、毅然とした声で答える。
「挿れてもらわないと困る。できればそう、可及的速やかに!!」
慣れた仕草でズレた眼鏡を直すが、その顔は赤かった。
彼が泣き止む兆しはない。
流れ落ちた澄んだ涙は、ぽつりと小さくシーツに染みを作った。
「こういうことは、ちゃんと、好きな人同士でするべきです」
*
事の発端は、半年前に遡る。
我がリーネルト伯爵家に縁談がやって来た。しかも、王から直々のである。
フランツィスカ自身はその場にいなかったのでこれは侍女から聞いた話だが、書状を開いた父は青ざめて天を仰ぎ、母は卒倒したという。
相手が相手だったからだ。
姓をアメルハウザー。名はレオンハルト。爵位は侯爵である。
問題は、アメルハウザー家が生粋の武官の家系であることだ。確か、騎士団に所属している。夜会か何かで姿を見かけたことはある。背の高い男だった。
対するリーネルト家は代々文官の家系。得意なのは法務と財務一般。フランツィスカも法典を子守歌に、算盤を玩具にして大きくなった。大学も優秀な成績で卒業した。今は王宮で文官として勤務している。
この国では女でも爵位が継げるため、いつかフランツィスカも婿を迎え家を盛り立てていこう、そう思っていた矢先だった。
三代前の祖父同士が揉めたせいで両家の仲はすこぶる悪い。王がそれをお嘆きになっての婚姻だった。なお、何故揉めていたのかは知らない。
野蛮な武官の家に、刑法よ分数よと愛でて育てた長女が嫁ぐ。
両親はそのことに絶望したのだ。
「仕方がないことです」
嘆き続ける両親を前に、フランツィスカは言った。その時まだ、結婚ということの意味はよく分かってはいなかった。
けれど、跡継ぎとしては二つ年下の弟もいる。正直、頭の出来としてはフランツィスカの方がいいのだけれど。レオンハルトの他に子供のいないアメルハウザー家には、自分が嫁ぐのが順当ということは容易に理解ができた。
いわゆる政略結婚だ。よくあることだ。
そう、言い聞かせていた。
それから一週間もしないうちにレオンハルト本人が婚約のために訪ねてきた。父と母に結婚に結婚を乞い、フランツィスカも彼を迎えた。
やわらかそうな茶色の髪を撫でつけ、儀礼用の盛装を完璧に着こなしている。育ちの良さそうな柔和な顔立ちに、小柄なフランツィスカの首が痛くなるぐらいの長身。
「はじめまして、リーネルトさん」
そう言って、手に持っていた花束を渡してくれた。ちゃんと屈んでくれたので目が合った。にっこりと、音が聞こえるかのような微笑み。獅子というよりはまるで犬のようだった。
榛色の瞳が、きれいだった。
「……フランツィスカと呼んでくれて構わない」
「それでは、フランツィスカさん。どうぞ」
差し出されたのは、アネモネの花だった。赤と白のものを巧く組み合わせてアレンジしてある。彼が持つにはいささか似つかわしくない、可憐で美しいものだった。
「君は、この花の意味を分かっているのかい」
けれど、思わずため息が出てしまった。
「え、花に意味なんか、あるんですか?」
フランツィスカが訊くと、レオンハルトは首を傾げた。
「きれいだと思ったので、持ってきました」
本当にそれだけの理由だったのだろう。会って間もないが、それでも分かってしまうものがあった。
フランツィスカが黙っていると、レオンハルトが心配そうに見下ろしてきた。形のいい眉がハの字に下がる。
「すみません、俺なにかいけないことをしたでしょうか?」
さて、ここで本当のことを言うべきか。適当に「嬉しかったです」と流すべきか。
フランツィスカには、大学時代から現在にかけて拝命したありがたい二つ名がある。
「鉄の女」「経理の鬼」「笑わない魔女」
リーネルト家では普通のことだが、学問に邁進する女はまだ少ない。奇異の目で見られたし、男の学生にも馬鹿にされた。
『女のくせに生意気だな』
そういう奴は大体成績で完膚なきまでにぶちのめしてやった。毎週のように事業計画書を叩きつけらたこともある。勿論、片っ端から添削してお返し申し上げたけれど。騎士団にいた彼はこのことを知らないのだろう。
見た目は悪くないのに、と面と向かって言われたこともある。
背が小さくて母親似の顔立ちは黙っていればそれなりに見えるらしい。まあ大体会話を五分ほどすると崩れ去る砂上の楼閣だが。
きらきらが、ずっとこっちを見ていた。主人を慕う犬はきっとこんな目をしているに違いない。
――鉄の女に花を贈る奴がいるなんてな。
「いいや、なんでもない。ありがたく頂戴しよう。次は貴家の財務三表を持って来て頂けるとなお嬉しい」
「財務三表ってなんです?」
「貸借対照表とキャッシュフロー計算書と損益計算書のことだ。家令に聞けばわかる」
「分かりました! 次は持ってきますね!!」
見えない尻尾をぶんぶんと振って、彼は頷いた。やはり獅子ではなくて犬だと思う。
アネモネには見た目のかわいらしさとは裏腹に毒がある。花言葉は“はかない恋”だ。恋人に贈るものとしては不適と言わざるを得ない。はじまってもいない恋が終わってしまうところである。
けれど、それでもフランツィスカは嬉しかったのだ。そして同時に自分に似合いだとも。
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