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十六、ずっとこの目に

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 だから、それからは弁えていたつもりだった。
 何も欲しいと思わないように。何にも心が揺れないように。

 息を潜めて、自分を殺して、生きてきた。大学も、尊と同じ帝大に行けると言われていたけれどやめた。家から通うには遠いところを受けて、下宿するようにした。兄から少しでも、離れたかったから。

 彩恵は、出会った時にはもう、尊の許嫁だった。
 だからずっと、見ないようにしていた。ゆるやかに波打つ栗色の髪も、くるくると表情の変わる瞳のきらめきも、決してこの目に映してはならない。そう、己を律していた。

 けれど、想うことまでは止められない。

 早生まれの翔は、昔は体が小さかった。一緒に遊ぶ尊や恵一を追いかけても、追い付くことができない。必死に走って転んだ翔に、あの人は手を差し伸べてくれた。

 ――だいじょうぶ? かけるちゃん。

 年の差は二つしかないのに、彩恵は大人びてやさしくて。その手に縋りついてしまった。

 それは大人になった今も変わらない。

 彼女は、雨に濡れた自分を見過ごせないままだった。放っておけばいいのに、傘を差し出してくる。
 代わりに持った傘の柄には、まだ彩恵の体温が残っている。気づけば、確かめるようにそれを撫でていた。

 視界の端に、花柄のワンピースの裾が揺れる。きっと兄の為に選んだ服なのだろう。見なくても分かる。彩恵はずっと、尊に惚れている。
 彼女の視線の先にはずっと、兄がいる。その目が翔を見ることは、ない。

 手を伸ばしてしまったのは、せっかくのワンピースが汚れるのを見ていられなかったから。

 引き寄せたら、雨の匂いよりも濃く、甘やかな香りがした。湿った髪から立ち上る、彩恵の匂い。

 体の芯がぐらりとする。絡め取られたように、急に動けなくなる。
 女の髪がこんなにも香るものだと知っていたら、こんなこと絶対にしなかったのに。

 そして、見てしまった。
 雨上がり、漂う水滴が虹の欠片のように輝いて、彼女を彩っている。スカートの裾から、丸い膝小僧が覗く。

 ああ、なんて、なんて。

「きれい、ですね」
 溢れた想いが、するりと言葉になって出てくる。

「その服、とてもよく彩恵さんに似合っています。着物よりずっといい」

 ずっとこの目に焼き付けておきたい。触れたいとも愛されたいとも望まないから、だから、それぐらいは許されたかった。

 項の辺りがぶわりと粟立ったのは、その時だった。

 振り返ると、離れの障子が開いていた。つい先ほどまで、そこに誰かがいたことを明確に表すように。
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