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十、黒衣の死神
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彼はずっと膝の上に乗せた己の手を見つめていた。その手をぐっと、握りしめる。
「こんな時になんなのですが、結婚のことについてです」
言われて、やっと思い出した。
予定されていた結婚式はもう二ヶ月後に迫っている。そのことにさえ、彩恵は気づいていなかった。
「ですが、うちはもう……」
隣に座る父がそう言った時、やっと考えが追い付いた。
兄がいたから、彩恵は黒木家の嫁に望まれたのだ。けれど、もう、彩恵の他にこの家に子供はいない。
「婚約解消となるのなら、結納金を返還していただかなければなりません」
父の顔色が途端に苦々しいものになる。
そう、黒木家はこの婚姻に際して莫大とも言える結納金を納めた。
その金で、新しい織機を買ったばかりだ。跡継ぎを失って先行きが見えない瀧沢家に、そんな余裕はない。
「申し訳ございません」
ただ深々と、父は頭を下げる。そうすることしかできなかった。
「頭を上げて下さい」
父に向かって、翔は淡々と話す。
「ここからは、当家からの提案です」
その声からはどんな感情も読み取れなかった。重ための前髪は、彼の表情を簡単に覆い隠してしまう。
「僕を、瀧沢家の婿にするというのはどうでしょうか」
これは、どういうことだろう。
弾かれるように顔を上げた父が、焦ったように返事をする。
「けれど君はまだ学生だろう!」
「あと三年もすれば卒業です。ほんの些末なことでしょう」
聞こえてくる会話の意味は分かる。けれど、頭がその内容を咀嚼して理解することを拒んでいる。
「だが……」
「元よりこれは家同士の結びつきの為の結婚です。ならば、相手が次男であっても長男であっても、何の違いもないのでは」
遮るようにぴしゃりと、翔は言った。
彼の日頃からは考えられないほど、強い声だった。
このことを伝えるために、翔はやって来た。まるで黒衣の死神のようだ。
「この条件を呑んで頂ければ、当家は一切、結納金の返還を求めません」
父がちらりと、彩恵の方を見る。窺うような、申し訳なさそうな、その目。
こうするほかないと、自分の冷静な部分は分かっている。
家のためならば、相手は尊でも翔でも変わりはない。だから、置いてきぼりなのはこの心だけだ。
「よろしく、お願い申し上げます」
父はもう一度、畳に額を擦りつけるようにして、翔に頭を下げた。
ああ、わたしは結局、金のためにこの身を捧げるほかない。
彩恵はもう、どうやっても、尊の妻にはなれないのだ。
「こんな時になんなのですが、結婚のことについてです」
言われて、やっと思い出した。
予定されていた結婚式はもう二ヶ月後に迫っている。そのことにさえ、彩恵は気づいていなかった。
「ですが、うちはもう……」
隣に座る父がそう言った時、やっと考えが追い付いた。
兄がいたから、彩恵は黒木家の嫁に望まれたのだ。けれど、もう、彩恵の他にこの家に子供はいない。
「婚約解消となるのなら、結納金を返還していただかなければなりません」
父の顔色が途端に苦々しいものになる。
そう、黒木家はこの婚姻に際して莫大とも言える結納金を納めた。
その金で、新しい織機を買ったばかりだ。跡継ぎを失って先行きが見えない瀧沢家に、そんな余裕はない。
「申し訳ございません」
ただ深々と、父は頭を下げる。そうすることしかできなかった。
「頭を上げて下さい」
父に向かって、翔は淡々と話す。
「ここからは、当家からの提案です」
その声からはどんな感情も読み取れなかった。重ための前髪は、彼の表情を簡単に覆い隠してしまう。
「僕を、瀧沢家の婿にするというのはどうでしょうか」
これは、どういうことだろう。
弾かれるように顔を上げた父が、焦ったように返事をする。
「けれど君はまだ学生だろう!」
「あと三年もすれば卒業です。ほんの些末なことでしょう」
聞こえてくる会話の意味は分かる。けれど、頭がその内容を咀嚼して理解することを拒んでいる。
「だが……」
「元よりこれは家同士の結びつきの為の結婚です。ならば、相手が次男であっても長男であっても、何の違いもないのでは」
遮るようにぴしゃりと、翔は言った。
彼の日頃からは考えられないほど、強い声だった。
このことを伝えるために、翔はやって来た。まるで黒衣の死神のようだ。
「この条件を呑んで頂ければ、当家は一切、結納金の返還を求めません」
父がちらりと、彩恵の方を見る。窺うような、申し訳なさそうな、その目。
こうするほかないと、自分の冷静な部分は分かっている。
家のためならば、相手は尊でも翔でも変わりはない。だから、置いてきぼりなのはこの心だけだ。
「よろしく、お願い申し上げます」
父はもう一度、畳に額を擦りつけるようにして、翔に頭を下げた。
ああ、わたしは結局、金のためにこの身を捧げるほかない。
彩恵はもう、どうやっても、尊の妻にはなれないのだ。
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