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80.望んだ契約
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この世界は契約に満ちている。
売買、賃貸、ありとあらゆる契約が結ばれ、破られ、そうして過ぎていく。
その全てが思い通りということはないだろう。望まれない契約は数多くある。その中で消えていく願いがあることも、知っているつもりだ。
けれど、今日アネットは自分の意志で、また一つ契約を結ぶ。
この身を包むのは、眩いばかりの純白のウェディングドレス。
取り立てて華美というような意匠ではないが、それでも悪魔が選んだものだ。細かいスパンコールや刺繍がふんだんに施されていて、翻る度に星の欠片でも散りばめたように輝く。
人生で二度だけ袖を通すことが許される色を、結局二度ともあの男に選ばせてしまった。
後悔があるわけではないが、なんだか不思議な気分である。アネットはそっと裾を持ち上げてこっそりと笑った。
「行きましょうか」
静かにヴェールを下ろして、オリアンヌが言う。本来なら父親が花嫁の手を引くものらしいが、アネットにはもう父はいない。最初は渋っていた母を見事説き伏せたのは自分ではない。
『亡き私の母とアネットの育ての母の代わりに、歩いては頂けないでしょうか』
そう言われてはオリアンヌはもう何も断る術を持たなかった。シャルルは本当にこういう時に口が回るのである。やはり、正しく彼は悪魔なのかもしれない。
扉を開けた向こうに、悠然と一人の男が立っている。彼に向ってゆっくりと歩を進める。
すらりとした長身を包むのは、同じく純白のタキシード。
ステンドグラスを通した虹色の光を受けて、赤みがかった金髪がきらきらと輝いた。
参列者の拍手の音が雨のように降る。
彼の手に己の手を重ねて、ともに立つ。祭司は、アネットとシャルルに等しく問いかける。
健やかなる時も 病める時も
喜びの時も 悲しみの時も
富める時も 貧しい時も
これを愛し 敬い 慰め合い 共に助け合い
その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか
この世に神様がいるのかどうか、ほんとうのところアネットには分からない。世界には残酷なことが沢山ある。マリエットが生き返ることはないし、シャルルの背中の傷が消えることはない。
それは多分、人の身ではどうしようもできないことだ。
だから、わたしは神様に誓うのではない。
わたしは、わたしが選んだこの人に誓うのだ。
「はい、誓います」
母が下ろしたヴェールを、男がゆっくりと上げる。
白い手袋をはめた手が、顎に伸びてくる。強制的に彼と見つめ合わされた。立っているだけでも美しいその顔は、微笑むと眩しすぎるほどだ。
長身を屈めて、男は顔を近づけてくる。
途端に全ての音が消えた。
他の多くの式の参加者も祭司の男も、見えなくなる。まるでこの今、世界中に彼しかいないようだった。
時が止まったかのように、見つめ合った。
悪魔はどんな願いも叶えてくれる。けれど、その代わりに魂を奪っていくという。
結局のところアネットは奪われてしまったのだ。
眩いばかりに金色の髪をした、この悪魔に。
だから惜しみなく、わたしの心を捧げよう。
どうせほかに、与えられるものなんてないのだから。
今日結ぶのは、婚姻という名の契約である。
アネットは目を閉じて、幸せな口づけの予感に身を任せた。
売買、賃貸、ありとあらゆる契約が結ばれ、破られ、そうして過ぎていく。
その全てが思い通りということはないだろう。望まれない契約は数多くある。その中で消えていく願いがあることも、知っているつもりだ。
けれど、今日アネットは自分の意志で、また一つ契約を結ぶ。
この身を包むのは、眩いばかりの純白のウェディングドレス。
取り立てて華美というような意匠ではないが、それでも悪魔が選んだものだ。細かいスパンコールや刺繍がふんだんに施されていて、翻る度に星の欠片でも散りばめたように輝く。
人生で二度だけ袖を通すことが許される色を、結局二度ともあの男に選ばせてしまった。
後悔があるわけではないが、なんだか不思議な気分である。アネットはそっと裾を持ち上げてこっそりと笑った。
「行きましょうか」
静かにヴェールを下ろして、オリアンヌが言う。本来なら父親が花嫁の手を引くものらしいが、アネットにはもう父はいない。最初は渋っていた母を見事説き伏せたのは自分ではない。
『亡き私の母とアネットの育ての母の代わりに、歩いては頂けないでしょうか』
そう言われてはオリアンヌはもう何も断る術を持たなかった。シャルルは本当にこういう時に口が回るのである。やはり、正しく彼は悪魔なのかもしれない。
扉を開けた向こうに、悠然と一人の男が立っている。彼に向ってゆっくりと歩を進める。
すらりとした長身を包むのは、同じく純白のタキシード。
ステンドグラスを通した虹色の光を受けて、赤みがかった金髪がきらきらと輝いた。
参列者の拍手の音が雨のように降る。
彼の手に己の手を重ねて、ともに立つ。祭司は、アネットとシャルルに等しく問いかける。
健やかなる時も 病める時も
喜びの時も 悲しみの時も
富める時も 貧しい時も
これを愛し 敬い 慰め合い 共に助け合い
その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか
この世に神様がいるのかどうか、ほんとうのところアネットには分からない。世界には残酷なことが沢山ある。マリエットが生き返ることはないし、シャルルの背中の傷が消えることはない。
それは多分、人の身ではどうしようもできないことだ。
だから、わたしは神様に誓うのではない。
わたしは、わたしが選んだこの人に誓うのだ。
「はい、誓います」
母が下ろしたヴェールを、男がゆっくりと上げる。
白い手袋をはめた手が、顎に伸びてくる。強制的に彼と見つめ合わされた。立っているだけでも美しいその顔は、微笑むと眩しすぎるほどだ。
長身を屈めて、男は顔を近づけてくる。
途端に全ての音が消えた。
他の多くの式の参加者も祭司の男も、見えなくなる。まるでこの今、世界中に彼しかいないようだった。
時が止まったかのように、見つめ合った。
悪魔はどんな願いも叶えてくれる。けれど、その代わりに魂を奪っていくという。
結局のところアネットは奪われてしまったのだ。
眩いばかりに金色の髪をした、この悪魔に。
だから惜しみなく、わたしの心を捧げよう。
どうせほかに、与えられるものなんてないのだから。
今日結ぶのは、婚姻という名の契約である。
アネットは目を閉じて、幸せな口づけの予感に身を任せた。
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