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64.お別れ
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エミリアンが訪れてからというもの、ほとんど監禁されたように過ごした。大体はロイクが部屋に控える様に立っていて、そうでなくても二、三人の侍女が常にいる。一度も、シャルルは姿を見せなかった。
話したいことが沢山あった。怪我はもう大丈夫なのか。この穏やかな執事は逐一取り次いではくれたが、返事はなかった。
シャルルが残した痕がきれいに消える頃、アネットはまた赤いドレスを着せられた。奔放な赤い髪は丁寧に梳られて、上半分だけ結い上げられる。残りの半分はくるりと巻かれたあと肩から流される。まるでその色を見せつけるみたいに。
最後にドレスの編み上げを調節している時に、ノックの音がした。静かに扉を開けて男が入ってくる。
久しぶりに見た彼も、何も変わらなかった。ただ紫の瞳は確かな決意を込めて、鏡の前に立つアネットを見つめた。
「旦那様、まだお仕度が」
「いい、残りは私がやる。全員下がってくれ」
「ですが」
「下がれと言ったのが聞こえなかったのか?」
鋭い声に気圧されたように、侍女達はそそくさと礼をして部屋を後にする。
「あの、」
振り返ろうとしたら、肩に手が伸びてきた。鏡の方を向くように動かされる。「大人しくしていろ」
そのままシャルルは器用にドレスの編み上げを編んでいく。この人はこんなこともできるのか。きっと脱がせるのも巧みなのだろうなと頭の片隅で思った。
しゅるしゅると糸を引く音以外は何の音も聞こえない。
「……どうして会ってくれなかったんですか」
何度も何度も、会いたいと言ったのに。
沈黙に耐え兼ねて口を開いても、返事は素っ気ない。
「聞く必要があるか」
虚像のシャルルは怜悧な顔で俯き加減に手を動かしているが、表情までは伺い知れない。
「言われないと、分からないです」
優美に広がるドレスの裾をぎゅっと握りしめる。
「会いたくなかった、それだけだ」
鏡の中のシャルルが、真っ直ぐにアネットを見つめた。
最後に一番上できれいに蝶々結びをして、彼はポケットに手を入れた。丁寧な手つきでそれを取り出して、正装用の黒手袋をはめた。
掛けられたのは、自分の鈴蘭のネックレスだった。銀の煌めきは、不思議なほどに赤いドレスとよく似合ってアネットを彩ってくれる。
けれど、これはどういうことだろう。
これは、アネットの願いの担保にしたものだ。悪魔に預けた契約の証。それを返されるということの意味は。
「今日お会いする方はとびきり高貴な方だ。教えた通りにやれ、いいな」
「待って、まだ三ヶ月経ってない!!」
約束の三ヶ月にはまだ時間があったはずなのに。どうして。
「一千万だ」
「えっ……」
「先方はお前に一千万クレール出すと言っている。商売としては、より利益の大きな方を取る。当然のことだろう」
途方もない金額だった。“閣下”はそれほどの金額をアネットに払うと言っているのだろうか。元々の金額だって覚束なかったのに、一千万だなんて。
「それとも何か、お前にそれを上回る金額が払えるのか?」
冷ややかな目が睥睨する。
「そもそも信じたのか。この私の言うことを」
にやりと口角を上げて悪魔が笑う。信用は積み重ねるものだと言った人。
「お別れだ、野良猫」
もしそれがあるのなら、音を立てて崩れていく、そんな気がした。広い背はすたすたと歩いていく。大きな手はもう、アネットの手を引いてくれることはなかった。
話したいことが沢山あった。怪我はもう大丈夫なのか。この穏やかな執事は逐一取り次いではくれたが、返事はなかった。
シャルルが残した痕がきれいに消える頃、アネットはまた赤いドレスを着せられた。奔放な赤い髪は丁寧に梳られて、上半分だけ結い上げられる。残りの半分はくるりと巻かれたあと肩から流される。まるでその色を見せつけるみたいに。
最後にドレスの編み上げを調節している時に、ノックの音がした。静かに扉を開けて男が入ってくる。
久しぶりに見た彼も、何も変わらなかった。ただ紫の瞳は確かな決意を込めて、鏡の前に立つアネットを見つめた。
「旦那様、まだお仕度が」
「いい、残りは私がやる。全員下がってくれ」
「ですが」
「下がれと言ったのが聞こえなかったのか?」
鋭い声に気圧されたように、侍女達はそそくさと礼をして部屋を後にする。
「あの、」
振り返ろうとしたら、肩に手が伸びてきた。鏡の方を向くように動かされる。「大人しくしていろ」
そのままシャルルは器用にドレスの編み上げを編んでいく。この人はこんなこともできるのか。きっと脱がせるのも巧みなのだろうなと頭の片隅で思った。
しゅるしゅると糸を引く音以外は何の音も聞こえない。
「……どうして会ってくれなかったんですか」
何度も何度も、会いたいと言ったのに。
沈黙に耐え兼ねて口を開いても、返事は素っ気ない。
「聞く必要があるか」
虚像のシャルルは怜悧な顔で俯き加減に手を動かしているが、表情までは伺い知れない。
「言われないと、分からないです」
優美に広がるドレスの裾をぎゅっと握りしめる。
「会いたくなかった、それだけだ」
鏡の中のシャルルが、真っ直ぐにアネットを見つめた。
最後に一番上できれいに蝶々結びをして、彼はポケットに手を入れた。丁寧な手つきでそれを取り出して、正装用の黒手袋をはめた。
掛けられたのは、自分の鈴蘭のネックレスだった。銀の煌めきは、不思議なほどに赤いドレスとよく似合ってアネットを彩ってくれる。
けれど、これはどういうことだろう。
これは、アネットの願いの担保にしたものだ。悪魔に預けた契約の証。それを返されるということの意味は。
「今日お会いする方はとびきり高貴な方だ。教えた通りにやれ、いいな」
「待って、まだ三ヶ月経ってない!!」
約束の三ヶ月にはまだ時間があったはずなのに。どうして。
「一千万だ」
「えっ……」
「先方はお前に一千万クレール出すと言っている。商売としては、より利益の大きな方を取る。当然のことだろう」
途方もない金額だった。“閣下”はそれほどの金額をアネットに払うと言っているのだろうか。元々の金額だって覚束なかったのに、一千万だなんて。
「それとも何か、お前にそれを上回る金額が払えるのか?」
冷ややかな目が睥睨する。
「そもそも信じたのか。この私の言うことを」
にやりと口角を上げて悪魔が笑う。信用は積み重ねるものだと言った人。
「お別れだ、野良猫」
もしそれがあるのなら、音を立てて崩れていく、そんな気がした。広い背はすたすたと歩いていく。大きな手はもう、アネットの手を引いてくれることはなかった。
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