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44.お前は知らないかもしれないが
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劇場を出てからも、繋がれた手はそのままだった。その手に導かれるままに歩く。石畳が乾いた足音を立てる。
シャルルの長い足は、とある店の前で止まった。店名には、喫茶と書いてある。
黒塗りの大きな柱が美しい。こんなところに、入るのか。
アネットの戸惑いをよそに、彼はするすると店に入っていく。手を引かれているから、自分も続くほかない。よく来るのだろうか。店員は何も言うことなく、二人を二階に案内した。
きょろきょろしてはいけないと思うのに、アネットは内装の上品さに目移りしてしまう。階段の手すりに施された葡萄の蔓のような繊細な飾り。置かれているテーブルは大理石。店自体も大きいが、壁にかかっている金縁の大きな鏡が奥行きを醸し出している。窓の濃紺のカーテンさえも典雅だ。
通されたのは奥のテラス席だった。促されるがままに座る。シャルルは何かを店員に注文したようだった。
向かいに座る紫の瞳は、ふと下を見遣る。
「ここが一番、よく見える」
その視線を追っていくと、自分にも見えた。
「あっ」
ドーレブールの広場の泉。滾々と清らかな水が湧き出ている。水しぶきがきらきらと舞って、本当に宝石のようだった。躍動感の溢れる精緻な彫刻を見ようと、沢山の人々が集っている。その正面が、ちょうどこのテラス席なのだ。
全てを見下ろしていることに、少しだけ優越感を覚えてしまった。ずっとここで見ていられる、そんな気がした。
やがて、また店員がやってくる。音もなく静かに、アネットの前にガラスの器が置かれた。
美しく円形に、アイスクリームが盛り付けられていた。
朝からずっと、こうだ。
今日は、一体なんなんだ。
「なんでこんなこと、してくれるんですか」
訊ねると、目の前で悠然とコーヒーを飲んでいた男が言う。
「お前は知らないかもしれないが、アイスは溶けるんだ。早く食べたほうがいい」
「それぐらいは知っています!」
もうはぐらかされるのはこりごりだ。立ち上がってテーブルに手を突いたら、ばんっと大きな音がした。添えられていたスプーンが微かに震える。
紫水晶が呆れたような色でアネットを見上げてくる。シャルルは手を振ってアネットに座るように示した。
「今日の日付は?」
「五月一日です」
そこまで応えてやっと気が付いた。すとん、ともう一度椅子に座る。
「……覚えててくれたんですか、誕生日」
「私から尋ねたからな」
この男は一度耳にしたことを忘れないのだとジェルヴェーズは言っていた。悪魔の頭の中で、アネットの生まれた日はやんごとなき方々の不祥事の横にでも仕舞われているのだろうか。
「誕生日プレゼントなんですか?」
「そう思いたいならそれでいい」
これ以上は説明をしてくれる気はないらしい。そして、シャルルの言う通り着実にアイスは溶けていく。仕方なく、アネットはスプーンでそれを掬った。
シャルルの長い足は、とある店の前で止まった。店名には、喫茶と書いてある。
黒塗りの大きな柱が美しい。こんなところに、入るのか。
アネットの戸惑いをよそに、彼はするすると店に入っていく。手を引かれているから、自分も続くほかない。よく来るのだろうか。店員は何も言うことなく、二人を二階に案内した。
きょろきょろしてはいけないと思うのに、アネットは内装の上品さに目移りしてしまう。階段の手すりに施された葡萄の蔓のような繊細な飾り。置かれているテーブルは大理石。店自体も大きいが、壁にかかっている金縁の大きな鏡が奥行きを醸し出している。窓の濃紺のカーテンさえも典雅だ。
通されたのは奥のテラス席だった。促されるがままに座る。シャルルは何かを店員に注文したようだった。
向かいに座る紫の瞳は、ふと下を見遣る。
「ここが一番、よく見える」
その視線を追っていくと、自分にも見えた。
「あっ」
ドーレブールの広場の泉。滾々と清らかな水が湧き出ている。水しぶきがきらきらと舞って、本当に宝石のようだった。躍動感の溢れる精緻な彫刻を見ようと、沢山の人々が集っている。その正面が、ちょうどこのテラス席なのだ。
全てを見下ろしていることに、少しだけ優越感を覚えてしまった。ずっとここで見ていられる、そんな気がした。
やがて、また店員がやってくる。音もなく静かに、アネットの前にガラスの器が置かれた。
美しく円形に、アイスクリームが盛り付けられていた。
朝からずっと、こうだ。
今日は、一体なんなんだ。
「なんでこんなこと、してくれるんですか」
訊ねると、目の前で悠然とコーヒーを飲んでいた男が言う。
「お前は知らないかもしれないが、アイスは溶けるんだ。早く食べたほうがいい」
「それぐらいは知っています!」
もうはぐらかされるのはこりごりだ。立ち上がってテーブルに手を突いたら、ばんっと大きな音がした。添えられていたスプーンが微かに震える。
紫水晶が呆れたような色でアネットを見上げてくる。シャルルは手を振ってアネットに座るように示した。
「今日の日付は?」
「五月一日です」
そこまで応えてやっと気が付いた。すとん、ともう一度椅子に座る。
「……覚えててくれたんですか、誕生日」
「私から尋ねたからな」
この男は一度耳にしたことを忘れないのだとジェルヴェーズは言っていた。悪魔の頭の中で、アネットの生まれた日はやんごとなき方々の不祥事の横にでも仕舞われているのだろうか。
「誕生日プレゼントなんですか?」
「そう思いたいならそれでいい」
これ以上は説明をしてくれる気はないらしい。そして、シャルルの言う通り着実にアイスは溶けていく。仕方なく、アネットはスプーンでそれを掬った。
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