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31.あなたには分からない
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ばかみたいだ。
泣いたってなんにもならないのに。
母は帰って来ないし、時は戻らない。こんな涙は何の役にも立たなくて、アネットは何も変えられなかった。
無力で弱い、みじめなわたし自身。
シャルルはトレイごと、スープをサイドボードによけた。
そのまますっと立ち上がった彼は、じっとアネットを見つめてくる。
「騙される方が悪くて、何も分かってない世間知らずのわたしが愚かだったって、きっと思ってるんでしょう」
諭されるのも、嘲られるのも嫌だった。
無造作に袖口で涙を拭く。ぐしゃぐしゃの顔を見られたくなくてそっぽを向いた。もうどんな言葉も聞きたくなかった。
けれど、シャルルの腕は躊躇いがちにアネットへと伸びてきた。
意を決したように、ぎゅっと抱き寄せられる。
「無理をして、泣き止む必要はない」
これはなんだろう。どんな憐みだろうか。悪魔が、聞いて呆れる。
「わたしの気持ちなんて、あなたには分からないわっ!」
大切にされて、立派なお屋敷で傅かれて育ったあなたに、分かるはずがない。
振りほどこうと思ったのに、細身の割にシャルルの腕は力強かった。抗議のように、握った拳でその胸を叩いても、びくともしない。すっぽりと、その腕の中に我が身は収まってしまう。
体が強張るのを見透かしたように、シャルルが言った。
「ああ、分からないよ」
頭にそっと手が触れてくる。幼い子供にするように、とんとん、と撫でられる。
「お前の心は、お前だけのものだから。僕には分からない」
高級そうなシャツに、自分の涙が吸い込まれるように落ちる。弁償しろと言われたらどうしよう。
「だからこそ、どんなに金を積まれても、どんな契約も、心の中までは縛れない」
けれど、髪に触れる手も、この声も、ひどくやさしいのだ。
「つらいとか悲しいとか、そういうふうに思う心まで、売り渡してしまうことはないんだよ、アネット」
お前、とシャルルはいつもはそうぞんざいに呼ぶのに。大切に、確かめるように、アネットの名をなぞる。
この人は今、一体どんな顔をしているのだろう。
腕の中から彼を見上げたら、紫の瞳は湖面のように凪いでいた。嘲笑も憐憫も、その目には浮かんでいなかった。
頬に伸びてきた手は、そっと零れた涙を拭うだけだ。
「泣きたい時は、泣いていいんだ」
それがだめ押しの一手だった。
広い背に手を回してしがみついた。その胸に顔を埋めて、ただただ泣いた。
シャルルはもう、何も言わなかった。うるさいぐらいに自分が叫んでいても、何も。
いつまでもいつまでも、シャルルの手はアネットの頭を撫でてくれていた。
泣いたってなんにもならないのに。
母は帰って来ないし、時は戻らない。こんな涙は何の役にも立たなくて、アネットは何も変えられなかった。
無力で弱い、みじめなわたし自身。
シャルルはトレイごと、スープをサイドボードによけた。
そのまますっと立ち上がった彼は、じっとアネットを見つめてくる。
「騙される方が悪くて、何も分かってない世間知らずのわたしが愚かだったって、きっと思ってるんでしょう」
諭されるのも、嘲られるのも嫌だった。
無造作に袖口で涙を拭く。ぐしゃぐしゃの顔を見られたくなくてそっぽを向いた。もうどんな言葉も聞きたくなかった。
けれど、シャルルの腕は躊躇いがちにアネットへと伸びてきた。
意を決したように、ぎゅっと抱き寄せられる。
「無理をして、泣き止む必要はない」
これはなんだろう。どんな憐みだろうか。悪魔が、聞いて呆れる。
「わたしの気持ちなんて、あなたには分からないわっ!」
大切にされて、立派なお屋敷で傅かれて育ったあなたに、分かるはずがない。
振りほどこうと思ったのに、細身の割にシャルルの腕は力強かった。抗議のように、握った拳でその胸を叩いても、びくともしない。すっぽりと、その腕の中に我が身は収まってしまう。
体が強張るのを見透かしたように、シャルルが言った。
「ああ、分からないよ」
頭にそっと手が触れてくる。幼い子供にするように、とんとん、と撫でられる。
「お前の心は、お前だけのものだから。僕には分からない」
高級そうなシャツに、自分の涙が吸い込まれるように落ちる。弁償しろと言われたらどうしよう。
「だからこそ、どんなに金を積まれても、どんな契約も、心の中までは縛れない」
けれど、髪に触れる手も、この声も、ひどくやさしいのだ。
「つらいとか悲しいとか、そういうふうに思う心まで、売り渡してしまうことはないんだよ、アネット」
お前、とシャルルはいつもはそうぞんざいに呼ぶのに。大切に、確かめるように、アネットの名をなぞる。
この人は今、一体どんな顔をしているのだろう。
腕の中から彼を見上げたら、紫の瞳は湖面のように凪いでいた。嘲笑も憐憫も、その目には浮かんでいなかった。
頬に伸びてきた手は、そっと零れた涙を拭うだけだ。
「泣きたい時は、泣いていいんだ」
それがだめ押しの一手だった。
広い背に手を回してしがみついた。その胸に顔を埋めて、ただただ泣いた。
シャルルはもう、何も言わなかった。うるさいぐらいに自分が叫んでいても、何も。
いつまでもいつまでも、シャルルの手はアネットの頭を撫でてくれていた。
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