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16.恋か過失か?
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「子供は寝る時間だろう。何しに来た」
口を開くなりそれである。
「すみません、私の手が足りなかったので少々お手伝いをして頂いておりました」
ロイクの執り成しでアネットはローテーブルの上にバスケットを置く。
「そもそも菓子など頼んだ覚えは」
「旦那様、いつものお菓子でございますよ」
にっこりとロイクが微笑むと、シャルルの顔が何とも言えず苦々しいものになった。けれど、何も言い返しはしなかった。
いそいそと執事は紅茶を淹れる。主の分と、その前にもう一つ。
「お嬢様もいかがですか?」
「失礼します」
静かに腰掛ける。結局悪魔と差し向かいで座ることになってしまった。彼はまた難しそうな資料を読んでいる。
そう言えば、この人がこんなにゆったりとした服を着ているところをはじめて見た。寝間着にガウンを羽織っただけだから、本当に寝る前なのかもしれない。
資料を見つめていた紫の目が、こちらをちらりと見遣る。
「お前はそんな恰好で私の屋敷をうろついているのか」
「だめ、ですか?」
今日アネットが着ているのはいたって普通の寝間着である。例のふりふりしたものではない。元々水を飲みに行くだけのつもりだったし、これぐらい別にいいだろうと思っていた。
シャルルは持っていた資料をテーブルの隅に置くと、頬杖をついた。なんだかひどく機嫌が悪そうだ。
「はあ」
彼はおもむろに自分のガウンを脱いだかと思うと、アネットの肩に掛けた。
「……は、はい?」
「着ていろ」
なんだかとても手触りのいい素材である。こんな上等なものを着ていいのだろうか。
「でも」
「いいから。言うとおりにしろ」
怒らせてしまったらしい。言われるがままに袖を通す。元々シャルルのものだけあって、自分には袖が長かった。
彼はそれ以上何も言わない。元のように資料を睨みつける様に見つめている。
膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめる。意を決してアネットは口を開いた。
「あ、あの」
「なんだ」
「昨日、お皿を割ってしまいました。申し訳ございません」
謝らないといけないと思っていた。後から請求されたらもっと恐ろしいことになるだろうから。
「その、四枚も」
なんて叱られるだろう。他の人達は、シャルルは杖で打つことはしないと言っていたが殴るぐらいはするのかもしれない。
「手を見せろ」
「えっ」
「いいから」
結局自分の返事を待たずして、手首を掴まれた。シャルルは、固まった手のひらをそっと解いていく。
「怪我はないんだな?」
どこにも怪我なんてしていない。アネットは、ぶんぶんと首を縦に振る。
「あの、お皿の分のお金は……」
悪魔は静かな声で問いかけてくる。
「お前は意図的に私の屋敷の皿を割ったのか?」
「そんなことしないわよ!」
これでも仕事には真面目に取り組んでいるつもりである。
「ふむ。こいでないなら請求する道理はないな」
こい。
「こい……?」
この人は一体何の話をしているのだろう。アネットは思わず首を傾げた。
愛だの恋だのとは、悪魔が口にするのには最も似つかわしくない言葉ではないだろうか。もっとも、彼に恋する女性は星の数ほどいるだろうけど。
「お前は一体何を考えているんだ」
途端に平坦になったシャルルの目がこちらを見つめる。「こいつはやはり頭が悪いんだな」とその端整な顔に書いてある。言われなくても分かる。どうやら“恋”ではないらしい。
「……過失に補償を求めるのなら、他の者が皿を割った時もそうしなければならない。それだけだ。分かったか」
一回りは大きなその手は、確かめるようにアネットの手を撫でた。
「お前は商品だからな。傷がついたら大事だ。気を付けろ」
この人は口から出ることは、何一つやさしくはない。
けれど、触れられれば分かってしまうものがある。この手は、ひどくやさしい。いささか強引ではあるけれど、乱暴にはしない。
「はい」
ぎゅっと手を握られる。言葉とは裏腹に指先から滲み出す慈しみに、囚われてしまう。
そのまま少しの間そうしていた。繋いでしまった手を、どうしていいのか分からなくて。
「さあさ、お二人とも。お茶が冷めてしまう前にどうぞ」
これが二人きりでなくてよかったと心底思った。完璧な間で放たれた執事の言葉に、どちらともなく手を離してカップを持った。
口を開くなりそれである。
「すみません、私の手が足りなかったので少々お手伝いをして頂いておりました」
ロイクの執り成しでアネットはローテーブルの上にバスケットを置く。
「そもそも菓子など頼んだ覚えは」
「旦那様、いつものお菓子でございますよ」
にっこりとロイクが微笑むと、シャルルの顔が何とも言えず苦々しいものになった。けれど、何も言い返しはしなかった。
いそいそと執事は紅茶を淹れる。主の分と、その前にもう一つ。
「お嬢様もいかがですか?」
「失礼します」
静かに腰掛ける。結局悪魔と差し向かいで座ることになってしまった。彼はまた難しそうな資料を読んでいる。
そう言えば、この人がこんなにゆったりとした服を着ているところをはじめて見た。寝間着にガウンを羽織っただけだから、本当に寝る前なのかもしれない。
資料を見つめていた紫の目が、こちらをちらりと見遣る。
「お前はそんな恰好で私の屋敷をうろついているのか」
「だめ、ですか?」
今日アネットが着ているのはいたって普通の寝間着である。例のふりふりしたものではない。元々水を飲みに行くだけのつもりだったし、これぐらい別にいいだろうと思っていた。
シャルルは持っていた資料をテーブルの隅に置くと、頬杖をついた。なんだかひどく機嫌が悪そうだ。
「はあ」
彼はおもむろに自分のガウンを脱いだかと思うと、アネットの肩に掛けた。
「……は、はい?」
「着ていろ」
なんだかとても手触りのいい素材である。こんな上等なものを着ていいのだろうか。
「でも」
「いいから。言うとおりにしろ」
怒らせてしまったらしい。言われるがままに袖を通す。元々シャルルのものだけあって、自分には袖が長かった。
彼はそれ以上何も言わない。元のように資料を睨みつける様に見つめている。
膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめる。意を決してアネットは口を開いた。
「あ、あの」
「なんだ」
「昨日、お皿を割ってしまいました。申し訳ございません」
謝らないといけないと思っていた。後から請求されたらもっと恐ろしいことになるだろうから。
「その、四枚も」
なんて叱られるだろう。他の人達は、シャルルは杖で打つことはしないと言っていたが殴るぐらいはするのかもしれない。
「手を見せろ」
「えっ」
「いいから」
結局自分の返事を待たずして、手首を掴まれた。シャルルは、固まった手のひらをそっと解いていく。
「怪我はないんだな?」
どこにも怪我なんてしていない。アネットは、ぶんぶんと首を縦に振る。
「あの、お皿の分のお金は……」
悪魔は静かな声で問いかけてくる。
「お前は意図的に私の屋敷の皿を割ったのか?」
「そんなことしないわよ!」
これでも仕事には真面目に取り組んでいるつもりである。
「ふむ。こいでないなら請求する道理はないな」
こい。
「こい……?」
この人は一体何の話をしているのだろう。アネットは思わず首を傾げた。
愛だの恋だのとは、悪魔が口にするのには最も似つかわしくない言葉ではないだろうか。もっとも、彼に恋する女性は星の数ほどいるだろうけど。
「お前は一体何を考えているんだ」
途端に平坦になったシャルルの目がこちらを見つめる。「こいつはやはり頭が悪いんだな」とその端整な顔に書いてある。言われなくても分かる。どうやら“恋”ではないらしい。
「……過失に補償を求めるのなら、他の者が皿を割った時もそうしなければならない。それだけだ。分かったか」
一回りは大きなその手は、確かめるようにアネットの手を撫でた。
「お前は商品だからな。傷がついたら大事だ。気を付けろ」
この人は口から出ることは、何一つやさしくはない。
けれど、触れられれば分かってしまうものがある。この手は、ひどくやさしい。いささか強引ではあるけれど、乱暴にはしない。
「はい」
ぎゅっと手を握られる。言葉とは裏腹に指先から滲み出す慈しみに、囚われてしまう。
そのまま少しの間そうしていた。繋いでしまった手を、どうしていいのか分からなくて。
「さあさ、お二人とも。お茶が冷めてしまう前にどうぞ」
これが二人きりでなくてよかったと心底思った。完璧な間で放たれた執事の言葉に、どちらともなく手を離してカップを持った。
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