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15.眠れない
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「お嬢様」
こんこんこん、とノックの音がする。これはロイクの声だ。
「お夕食のお時間です。いかがされましたか?」
決められた時間になってもアネットが姿を見せないので呼びに来てくれたのだろう。
寝台に寝転がって上掛けに包まる。
「具合が悪くて……とてもお食事には行けそうにありません」
頑張ってか弱げに聞こえそうな声を喉から絞り出してみる。
「承知いたしました。少々お待ちくださいませ」
扉の向こうの執事の気配が遠ざかる。上手くいった。そう思ったのもつかの間。
こんこんこん、とまたノックの音がした。
「お嬢様。旦那様からのご伝言です。『どうせ仮病だろう、野良猫。私と一緒でなければ夕食は抜きだ』とのことでございます」
ロイクの丁寧な声で紡がれる言葉が、シャルルの癇に障る声に見事に変換された。
「なんですって! 少しは心配ぐらいしなさいよっ!!」
勢いよく跳ね起きてしまって、はっとする。あの紫の目は千里眼か何かなのか。
「お嬢様……」
ロイクを伝書鳩のようにするのは申し訳ない。彼自身は何も悪くはない。けれど、こうなったらもう意地だ。
「『あなたの顔なんて見たくもありません』とお伝えくださいっ!!」
アネットは、もう一度上掛けを引っ掴んで寝台に突っ伏した。
眠れない。
何度寝返りを打っても、目をぎゅっと瞑っても眠れない。
原因ははっきりしている。お腹が空いているからだ。
競売で売られる前は一日一食が当たり前だったというのに。ここにきて毎日三食食事をしていたツケがこれだ。ちょっと食事を抜いただけでひもじくて仕方がない。明日になれば賄いが食べられると分かっているのに。
今日の夕食はなんだったのだろう。シャルルと食事をするなんてまっぴらごめんだが、どんな内容だったかは気になる。
仕方がないのでごそごそと起き出して厨房に行った。水でも飲んでお腹を膨らませよう、そう思っていた。
甘い匂いがする。多分、バターとお砂糖と何か。
「なに、これ」
見ると、作業台にクッキーの入ったバスケットが置いてあった。まだ少しあたたかいから焼き立てだろう。真ん中に赤いいちごのジャムまで乗っていて、可愛らしい。
ごっくん。
喉が鳴った。
見てはいけないと思うのに、匂いに吸い寄せられるように目がそちらを向いてしまう。
果たしてこれは誰のために焼かれたクッキーなのだろう。一枚ぐらい食べてもバレないとは思うけれど。
そう思っていたところで、声がした。
「お嬢様」
「ろろろろ、ロイクさん!!!」
気配も足音も全くしなかった。これがプロの使用人というものなのだろうか。
「お加減はいかがですか?」
そうだった。一応具合が悪いということになっていたのだった。
「もう、全然大丈夫です。ご心配をおかけしてすみません」
「それならよろしゅうございました」
にこにこと初老の執事は微笑む。そうだ、これが正しい反応だろう。あの顔だけいい悪魔め。
「それから、私に“さん”は不要です」
あ、また忘れていた。
「お嬢様。大変申し訳ないのですが、少しお手をお借りしてもよろしいでしょうか?」
「はい。勿論です」
「では」
渡されたのは先ほどまで食い入るように見つめていたバスケットである。
「こちらを私と一緒にお持ち頂けますか」
「分かりました」
ロイクは飲み物の入ったポットをワゴンに載せて運ぶ。その後ろを、てくてくとアネットは歩いた。歩く度にふわりと香ばしい香りが漂って、いよいよよだれでも出てきそうである。
「お嬢様は甘いものはお好きですか?」
「大好きです!!」
砂糖を沢山使った菓子は贅沢品だ。そんなに頻繁に食べられるわけではなかったけれど、どれも大好きだった。
「特にお好きなものなどはございますか?」
「ケーキも焼き菓子も、何でも大好きです」
といっても、ケーキなんて誕生日ぐらいしか食べたことがないけれど。
「さようでございますか」
そんな話をしながら辿り着いた扉を見て、アネットは絶望した。
ここは、この屋敷で一番上等で大きな部屋。つまりはシャルルの部屋である。
「え、あ、はい?」
よく考えれば分かるはずだった。ロイクの主人はシャルルなのだから。
つまりこれは悪魔のクッキーというわけだ。もしも、誘惑に負けてこれをうっかり口にしていたとしたら。つまみ食いをしなくてよかった。
しかしながら、あのシャルルがこんなにも可愛らしいお菓子を食べるのだろうか。
「旦那様、お菓子をお持ちしました」
ロイクが扉を開けてくれて、部屋に入る。アネットの姿を認めると、露骨に悪魔の顔が曇った。
こんこんこん、とノックの音がする。これはロイクの声だ。
「お夕食のお時間です。いかがされましたか?」
決められた時間になってもアネットが姿を見せないので呼びに来てくれたのだろう。
寝台に寝転がって上掛けに包まる。
「具合が悪くて……とてもお食事には行けそうにありません」
頑張ってか弱げに聞こえそうな声を喉から絞り出してみる。
「承知いたしました。少々お待ちくださいませ」
扉の向こうの執事の気配が遠ざかる。上手くいった。そう思ったのもつかの間。
こんこんこん、とまたノックの音がした。
「お嬢様。旦那様からのご伝言です。『どうせ仮病だろう、野良猫。私と一緒でなければ夕食は抜きだ』とのことでございます」
ロイクの丁寧な声で紡がれる言葉が、シャルルの癇に障る声に見事に変換された。
「なんですって! 少しは心配ぐらいしなさいよっ!!」
勢いよく跳ね起きてしまって、はっとする。あの紫の目は千里眼か何かなのか。
「お嬢様……」
ロイクを伝書鳩のようにするのは申し訳ない。彼自身は何も悪くはない。けれど、こうなったらもう意地だ。
「『あなたの顔なんて見たくもありません』とお伝えくださいっ!!」
アネットは、もう一度上掛けを引っ掴んで寝台に突っ伏した。
眠れない。
何度寝返りを打っても、目をぎゅっと瞑っても眠れない。
原因ははっきりしている。お腹が空いているからだ。
競売で売られる前は一日一食が当たり前だったというのに。ここにきて毎日三食食事をしていたツケがこれだ。ちょっと食事を抜いただけでひもじくて仕方がない。明日になれば賄いが食べられると分かっているのに。
今日の夕食はなんだったのだろう。シャルルと食事をするなんてまっぴらごめんだが、どんな内容だったかは気になる。
仕方がないのでごそごそと起き出して厨房に行った。水でも飲んでお腹を膨らませよう、そう思っていた。
甘い匂いがする。多分、バターとお砂糖と何か。
「なに、これ」
見ると、作業台にクッキーの入ったバスケットが置いてあった。まだ少しあたたかいから焼き立てだろう。真ん中に赤いいちごのジャムまで乗っていて、可愛らしい。
ごっくん。
喉が鳴った。
見てはいけないと思うのに、匂いに吸い寄せられるように目がそちらを向いてしまう。
果たしてこれは誰のために焼かれたクッキーなのだろう。一枚ぐらい食べてもバレないとは思うけれど。
そう思っていたところで、声がした。
「お嬢様」
「ろろろろ、ロイクさん!!!」
気配も足音も全くしなかった。これがプロの使用人というものなのだろうか。
「お加減はいかがですか?」
そうだった。一応具合が悪いということになっていたのだった。
「もう、全然大丈夫です。ご心配をおかけしてすみません」
「それならよろしゅうございました」
にこにこと初老の執事は微笑む。そうだ、これが正しい反応だろう。あの顔だけいい悪魔め。
「それから、私に“さん”は不要です」
あ、また忘れていた。
「お嬢様。大変申し訳ないのですが、少しお手をお借りしてもよろしいでしょうか?」
「はい。勿論です」
「では」
渡されたのは先ほどまで食い入るように見つめていたバスケットである。
「こちらを私と一緒にお持ち頂けますか」
「分かりました」
ロイクは飲み物の入ったポットをワゴンに載せて運ぶ。その後ろを、てくてくとアネットは歩いた。歩く度にふわりと香ばしい香りが漂って、いよいよよだれでも出てきそうである。
「お嬢様は甘いものはお好きですか?」
「大好きです!!」
砂糖を沢山使った菓子は贅沢品だ。そんなに頻繁に食べられるわけではなかったけれど、どれも大好きだった。
「特にお好きなものなどはございますか?」
「ケーキも焼き菓子も、何でも大好きです」
といっても、ケーキなんて誕生日ぐらいしか食べたことがないけれど。
「さようでございますか」
そんな話をしながら辿り着いた扉を見て、アネットは絶望した。
ここは、この屋敷で一番上等で大きな部屋。つまりはシャルルの部屋である。
「え、あ、はい?」
よく考えれば分かるはずだった。ロイクの主人はシャルルなのだから。
つまりこれは悪魔のクッキーというわけだ。もしも、誘惑に負けてこれをうっかり口にしていたとしたら。つまみ食いをしなくてよかった。
しかしながら、あのシャルルがこんなにも可愛らしいお菓子を食べるのだろうか。
「旦那様、お菓子をお持ちしました」
ロイクが扉を開けてくれて、部屋に入る。アネットの姿を認めると、露骨に悪魔の顔が曇った。
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