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3.ドーレブールの悪魔ー②

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 ずっと眠っていたのだろうか。あの競売の後の記憶がない。この男と見つめ合ってから、アネットの記憶はぷっつりと途絶えている。

「あなたは」
 そうだ、彼は自分を買い付けた男。

 訊ねられたから名乗ったけれど、アネットはこの男の名前も知らないのだ。今日もその装いは、彼が明らかに高貴な身分だと示している。

「ふむ」
 ひらりと、羊皮紙が眼前に広げられる。奴隷としての契約書。

 アネット=ロロー、値段、五百万クレール。

 家名を示す赤い封蝋の紋章は、三つの頭をもつ地獄の番犬。王の金庫番をも務めることからそれを与えられたという。とてつもない誉れだ。

 流れるような筆跡で書かれた主の名は、
「シャルル、カヴェニャック……」

 庶民のアネットでさえ、知っている。
 この国で五本の指に入る大富豪で、爵位は男爵。噂で金貨の詰まった枕で寝ていると聞いたことがある。そんなもの、寝にくくてしょうがないだろうけど。

 アネットは、自分が寝かされていた枕をぽふぽふと叩いてみた。ふかふかとやわらかい。きっと羽毛だろう。

「なるほど、字は読めるのか。好都合だ」

 もっと、後ろ暗い噂もある。
 家は食堂だった。だから、色んな人の話が集まってくる。酒を片手に彼らが語る話を、アネットはずっと聞き流していた。

 その顔は、一目見たら忘れられないほど美しく。
 契約は絶対で、どんな時でも冷酷無比。たとえ銅貨一枚たりともまけてくれることはない。
 けれど、代金さえ払えばどんなものでも用立ててくれるという。
 最も栄える交易の町の名を冠し、人々は彼をこう呼んだ。

「ドーレブールの、悪魔」

「ご名答」
 その顔に浮かんだのは、正しく悪魔と呼ぶにふさわしい、凄絶なまでの笑みだった。

「う、売られる先ぐらいわたしにだって選ぶ権利があるわ!」

 変態のところなんてまっぴらごめんだ。きっ、と目の前の悪魔を睨みつける。それでも、シャルルは顔色ひとつ変えることはない。

 すっと、男が立ち上がる。長身の影に覆われたようになる。彼は大柄というわけではないが、そんなふうに見下ろされると怯んでしまうような威圧感が立ちのぼる。

「まったく。己の身の程が分かっていないらしいな、この馬鹿は」
 一段、声が低くなる。どうしてだろう、この声はひどくお腹の奥に響く。

「お前は私が買い上げた奴隷だ」
 神様が特別に造り上げた整いきった顔立ちが、凄みを増した。

「生きることも死ぬことも、息をすることも、私の支配下にある」

 目を落とすと、手首には白い包帯が巻かれている。あの重たかった手錠はもう、ない。
 シャルルの手が、首元に伸びてくる。布越しのざわりとした感触が、首筋に触れる。

「っく」
 大きな手にぐっと力が入る。呼吸がうまくできない。その体温も何も、感じることはできない。

「ここで今、お前を殺しても、私は何の罪にも問われない」

 彼との契約を守らなかった者は魂を食われてしまうという。苦しくて恐ろしくて、涙が滲んだ。どくどくと、張り裂けそうなほど心臓が脈打っている。

 このまま死ぬのかもしれない。
 そう思ったところで、手が離れた。

「分かったか?」

「かはっ、かはっ」
 突然にひゅうっと喉に空気が入ってきて、アネットは咳をする。体を二つに折り曲げて、必死で息を吸うことしかできなかった。

 これが自由ではないということなのだ。
 何一つ、自分の意志では、決めることができない。わたしの全ては、この男の手の中にある。

 その絶望の中で気が付いた。確かめるように首に触れる。

「ネックレスは?!」
 死んだ母の形見だ。ずっと大切に身に着けていたはずのそれがない。売られてからもずっと、それだけは隠すように持っていたのに。

「探しているのはこれか?」
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