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二十二 最終話・後日談

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 東の空に月が登り始め、辺りは夜に包まれていく。同時に点々と街が色めきだし、私たちは夜に生きる人々と入れ替わり、それぞれの家路へと足を速める。
 
 急な大口注文が入ってパートが長引き、帰るのがすっかり遅くなってしまった。
 保育園のお迎えは午後六時半まで、そこからわずかでも遅れると延長料金が発生してしまう。私は解れかけたスニーカーの靴紐を結わえ直して小走りで園へと急いだ。
 
「遅くなりましたー!」
 
 首に下げたままの社員証を慌てて外し、代わりに鞄から園から支給された保護者証を取り出す。玄関にいた女性職員は親と子の氏名を確認し、保育室のひとつに向かって呼びかける。
  
「牧野さんおかえりなさい。大和くん、ママお迎え来たよー!」
 
「ままー!」
 
 色とりどりのブロックで何かを組み立てていた大和は、私を見つけると足元に絡みついてきた。
 保育士に牧野さんと呼ばれるのも、大和にママと呼ばれるのも未だに慣れない。
 先月の私の誕生日に頼くんと籍を入れ、私は晴れて『牧野優月』となった。結婚して好きな人の名字になるのを夢見ていたものの、いざ名前を呼ばれると別の人みたいで違和感がすごい。
 
「牧野さん結婚されたんですね。おめでとうございます。聞くところによると大和くんの本当のママだそうで。パパさんとても喜んでたんですよ」
 
「えっ……あ、あはは……! 恥ずかしいです」
 
 頼くんは大和を引き取ってしばらくは育休を取得し、その後生後二ヶ月からはずっとこの保育施設に預けているそうだ。
 園の先生方は私よりも父親となった彼と長く接している訳で、もはや家族のように仲がいい。
 そこに突如として現れた私。
 実質部外者のようなものなのに、私のことも分け隔てなく暖かい目で見守ってくれている。
 次々とお迎えに来る保護者のひとりひとりに軽く会釈し、にこやかに子供を引き渡していく。 
 
「恥ずかしがらなくてもいいのよ、実質新婚なんだからイチャイチャするのが仕事なんだから」
 
「そんな……」
 
 先生はわざと片目をつぶりウインクして見せた。
 自分たちのことは気にせずいちゃつけと言われているようで、ポッと顔が火照る。
 公の場でベタベタくっつく訳にはいかないのに、ちょっと期待してしまう自分が不甲斐ない。
 我慢すべき場所でツンとして見せることなんか簡単だけど、我慢しなくていいと言われれば、心はあっという間にあの頃へ戻ってしまう。
 
 二人きりの幸せなひとときはもう終わってしまったけれど、少し形を変えてまた繋がった。
 当時想像していた未来とは違うけど、彼が私の一番近くで見守っていてくれることは変わっていない。
 私は振り返って、やや後方を歩く頼くんに手を振った。
 
「気付いてたのか」
 
「お迎え当番が私でも、絶対あなたも来るからね」
 
 営業先から円へ直行したであろう彼の手には、ビジネスバッグの他に大小様々な紙袋がたくさん握られていた。
 
「持つよ」
 
「んー?」
 
「疲れたでしょ、私は頼くんより疲れてないから大丈夫だよ」
 
 右手を差し出すと、彼は紙袋の持ち手を手首に通しぎゅっと私の手を握った。 
  
「うん、疲れた。だから優月を真ん中にして帰ってもいいか?」
 
 彼はそう言うと、ふんわり笑った。
 疲れの滲む顔が鮮やかに輝く。
 些細なことでも彼の力になれていることが嬉しくて、つられて微笑んだ。
 右手に頼くんの大きな手を絡め、左手に大和の小さな手をしっかりと掴んだ。
 
「大和くん、さようなら!」
 
 先生が呼びかけると、大和は歩きながら後ろ手に手を振った。
 
  
 龍平と婚約を解消することになって最初は肩を落とした両親だったが、代わりに頼くんと暮らすことになると思うと告げると、感嘆の声をあげて喜んでくれた。
 私が子どもを産んだこと、子の父親が頼くんであることは周知していたが、記憶力を失ったがゆえに無理に思い出しても子どもがいないことに強い精神的ショックを受けるだろうということで、無理強いしないよう口止めされていたらしい。
 寺田病院の計画と私に対する普段の龍平の振る舞いを知った父は憤り、婚約の白紙撤回は至極当然だと言った。しかしながら病院側と気まずい雰囲気になってしまうことは避けられず、私は平謝りした。それでも構わないと、娘の幸せが一番だと言ってくれたことが心底嬉しかった。
 龍平の母は無事に道光製薬の治験に参加することはできたが、思ったような効果は得られず未だに病床に伏しているようだと、頼くんは言った。
 最新医療をもってしてもどうにもならないことも少なくない。
 もしかしたら龍平は「薬品との飲み合わせが悪いものを教えてくれなかった」と頼くんのせいにしているのかも知れないが、きっと誰のせいでもない。
 世の中にはそういうこともたくさんある。
 
  
「……あ」
 
「どうした?」
 
「あ、ちょっと……掃除機をね……かけるの忘れちゃって。ごめんね」
 
 頼くんは掃除なんてたまにでいい、体力や精神面の回復を優先して、と言ってくれるのだが、長く龍平と過ごしていたせいか完璧にできない自分への罪悪感は消えない。少しでも後回しにしてしまうと怒られるのではないかという恐怖感に襲われる。
 
「いいって。大丈夫だよ。死にはしないんだから」
 
「……うん……ありがとう」 
 
 しかし私に反して、頼くんはそんなことは全く気にも止めていないような口振りだ。
 彼に大丈夫だと言われると何でもできるような気がしてくる。万能で有能な、理想の自分になれるような魔法がかかる。
 ゆっくりと少しずつ、今までの価値観が置き換えられていくのを感じる。 
 
「今日は中華にするね。餃子は冷凍だけど、スープと、炒飯と……ナムルはちゃんと作ろうかな」
 
 私が言うと、男性陣は小躍りして喜んだ。
 
「じゃあその間に、俺たちはお片付けバトルしよう、大和」
 
「ばとる?」
 
「パパは洗濯物を畳んでタンスにしまうから、大和はおもちゃをおもちゃ箱にポイだ。早く終わった方がママとお風呂に入れる権利な。どうだ?」
 
 大和は迷うことなく目を輝かせた。
 
「やまと、ばとるするー!」
 
「何勝手に決めてるの!? 」 
 
 言ってから、そういえば大和のお風呂は同居してからもずっと頼くんに任せきりだと気がついた。
 入浴の介助は頼くんで保湿や着替えは私の仕事になっているけど、二歳の大和は可愛い盛りだ。ふわふわもちもちの身体を素肌で堪能するのもきっと悪くない。
 
「大和、頑張ってね! ママも大和とお風呂入りたい!」
 
「え!? 俺は!? 俺とも入りたいよね優月!? 」
 
 懇願する頼くんを敢えてスルーして、大和と顔を見合わせて笑った。
 この先どんな危機が訪れようと、私はもう二人と離れ離れになったりしない。私は両手に力を込めた。 
 空を見上げればあの頃と同じように、たくさんの星が瞬いていた。
 
 |(田舎へ行かなくても、こんなに美しく見えたんだね)
 
 満月や街灯で明るく照らされた狭い歩道を、白線からはみ出ないようにぎゅうぎゅうにくっつきながら踏みしめた。両手から伝わる温かい温度に、私はしばらくの間酔いしれた。
 
 
 
 
 
 
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