20 / 22
二十
しおりを挟む
「頼くんと一緒にいたい!」
私は彼の姿を指差した。
出会ったときより少し背が伸びて恰幅が良くなって、人の親になった大好きな人。
彼自身が理想として掲げていた「自立した人間」にはとっくになっている。だから次は私を迎えに来る番だ。
今度は隠れたりしないで、堂々と生きていきたい。二人……いや、子どもを含めた三人で、一緒に歩いていきたい。
「農園の土地はなくなるかも知れない。二番目に好きな人と結婚するべきっていうお母さんのアドバイスも、聞けないかたちになる。でも、それでも許して欲しいって思うくらい、私は彼のことが好き。龍平との婚約は破棄します」
腕時計を外して彼の眼前に差し出し、深々と頭を下げた。婚約するときに龍平から指輪代わりに貰ったものだ。
「はぁ? おまえ何言ってんだよ」
龍平は私の手首を掴むと腕時計をもぎ取り、もう片方の手で手のひらにそれをもう一度乗せた。
「おまえ阿保だな。今からこの男はオレがクビにする。ろくな貯金もねぇ貧乏人についてく奴いんの?」
貧乏人という強い言葉に、私は軽く身震いした。私の実家も龍平の家と比べたら天と地ほどの収入差がある。天候不順で不作の年、クラスのみんなが持っていた流行のグッズを買って貰えなかったこともある。
でも、それが不幸だとは思ったことはない。代わりの楽しみを自分で見つけてきた。両親と妹と、和気あいあい生活してきた。
大人になった私が子ども時代を後悔していないことが、何よりの証拠だ。
お金はあった方がいいけれど、お金じゃ得られないものがあること、それが大事なこと、私自身がよく知っている。
「ついていくよ。お金がないなら私が稼げばいい。私働けるよ」
腕時計を掴んでもう一度突き返すと、グーにした手の甲をピシャリと払われた。
その拍子に飛び出した時計が、宙を舞って冷たい床に落下した。
「ろくに働いた経験ねぇ奴なんていらねえんだよ」
龍平の怒声が病室の中に響き渡った。
刹那……カタン、と何かが倒れる音がした。
音の出所を振り向くと、龍平の母が力なく項垂れており、ベッドテーブに置いた湯飲みが倒れ白湯がこぼれ出ていた。
「大丈夫ですか!? 」
「母さん!」
龍平と頼くんは同時に呼びかけ、龍平は慌ててベッドサイドに駆け寄った。
「ごめんね、龍ちゃん……ちょっと、しんどくなってきちゃったみたい……」
病床の彼女は肩で息をしていた。
龍平は湯飲みを起こすと周辺をティッシュで拭い、苛立ったように「クソッ」とゴミ箱に投げ捨てた。
「薬はまだかよ! おっせーんだよ! グズグズしやがって役に立たねぇんなら消えろよボケ!」
龍平の怒りは鎮まることなく、新薬の遅延と相まって私たちの周りにはなんとも言えない嫌な空気が漂った。
|(あぁ、嫌だ。逃げ出したい。なかなか治らないけど一分一秒を争うような事態じゃないし、今更焦ったってしょうがないじゃない……)
私は目を伏せた。
婚約者の母親にそんなことを思ってしまうなんて、実は冷たい人間なのかも知れない。
何気なく横の頼くんに目を向けると、彼は持参してきていた箱の蓋を開けて何やらガサゴソと探し物をしていた。
「……あー、あったあった。すいません、失念していました。寺田さん、求めているのはこれですね」
「はぁ?」
「頼くん、何を……」
皆の注目が集まる中、彼は小さな茶色のガラス瓶を取り出した。
「これが寺田さんの症状を快方に向かわせる唯一のお薬、ミヤボトヤバゼです」
「「!!」」
私と龍平は一斉にに息を飲んだ。
頼くんは数歩前に進み出ると、龍平の眼前にそれをちらつかせる。
「何でおまえが」
驚きの余り龍平が声を震わせると、頼くんは毅然とした態度で向き合った。
「何でって、道光製薬の営業だからに決まってるじゃないですか。今日お邪魔する予定って事前にお伝えしていますよね」
「仕事を口実に優月に会いに来たんじゃなかったのか?」
「全くの偶然です。小さな会社なのでこの辺一帯は全て私が担当してるだけです。将来経営に携わるお方なのにそんなこともご存知ないのですか? 心配ですね。もっとよく取引先の特徴を覚えておいた方が良いですよ。他の人に後継者の座を奪われてしまうんじゃないですか?」
頼くんが煽るように正論を言い、龍平は頭に血が上らないはずがなかった。
「おまえに言われる筋合いねぇんだよ!」
頼くんのスーツの襟元を掴んで強引に引き寄せた。
「……っ!」
私は思わず目を反らした。
頼くんが殴られるところなんて見たくない。
しかし、その瞬間は訪れることはなかった。
「……?」
何かが起こっているはずの暗闇からは何の音もせず、私は恐る恐る目を開けた。
頼くんは親指と人差し指でガラス瓶の薬品をつまみ、頭の遥か上へかざしていた。
「いいですよ、私を殴っても。その代わりこの薬が無事である保証はないですけどね」
「おまえ……謀ったな!」
龍平は額にうっすらと汗をうかべながら、頼くんを睨みつけている。
「あなたが私をクビにさせ、半澤農園の土地を少しでも我が物にしようとするなら、今ここでこの瓶を落とすだけです。ガラスが粉々に砕け散って散剤は床に散乱、衛生的に飲めたものではなくなると思いますけどね。どうしますか」
頼くんは腕を高く上げ、ガラス瓶を持つ手首をわざと揺らした。容器の中で薬品がサラサラと左右に揺れる。
「あ、言っておきますけど、これはうちの独自開発中の製品なので他社に頼もうとしても無駄ですよ。後発もまだできていません。今日持って来たのは開発中の貴重なサンプリングのひとつです。前回の治験は半年前でしたから、次もそのくらいになるでしょうね」
彼は苦しそうに呼吸する龍平の母に問いかける。
「どうしますか? 婚約やめますか? それとも、薬やめちゃいますか?」
にっこりと微笑みかけたその姿は悪魔のようだった。
治療薬を持っている救世主であるはずなのに、待ち焦がれていた人物には違いないのに、彼の背後にはどす黒いオーラが、鎌を振りかざしている死神の姿が見えるような気がした。
私は彼の姿を指差した。
出会ったときより少し背が伸びて恰幅が良くなって、人の親になった大好きな人。
彼自身が理想として掲げていた「自立した人間」にはとっくになっている。だから次は私を迎えに来る番だ。
今度は隠れたりしないで、堂々と生きていきたい。二人……いや、子どもを含めた三人で、一緒に歩いていきたい。
「農園の土地はなくなるかも知れない。二番目に好きな人と結婚するべきっていうお母さんのアドバイスも、聞けないかたちになる。でも、それでも許して欲しいって思うくらい、私は彼のことが好き。龍平との婚約は破棄します」
腕時計を外して彼の眼前に差し出し、深々と頭を下げた。婚約するときに龍平から指輪代わりに貰ったものだ。
「はぁ? おまえ何言ってんだよ」
龍平は私の手首を掴むと腕時計をもぎ取り、もう片方の手で手のひらにそれをもう一度乗せた。
「おまえ阿保だな。今からこの男はオレがクビにする。ろくな貯金もねぇ貧乏人についてく奴いんの?」
貧乏人という強い言葉に、私は軽く身震いした。私の実家も龍平の家と比べたら天と地ほどの収入差がある。天候不順で不作の年、クラスのみんなが持っていた流行のグッズを買って貰えなかったこともある。
でも、それが不幸だとは思ったことはない。代わりの楽しみを自分で見つけてきた。両親と妹と、和気あいあい生活してきた。
大人になった私が子ども時代を後悔していないことが、何よりの証拠だ。
お金はあった方がいいけれど、お金じゃ得られないものがあること、それが大事なこと、私自身がよく知っている。
「ついていくよ。お金がないなら私が稼げばいい。私働けるよ」
腕時計を掴んでもう一度突き返すと、グーにした手の甲をピシャリと払われた。
その拍子に飛び出した時計が、宙を舞って冷たい床に落下した。
「ろくに働いた経験ねぇ奴なんていらねえんだよ」
龍平の怒声が病室の中に響き渡った。
刹那……カタン、と何かが倒れる音がした。
音の出所を振り向くと、龍平の母が力なく項垂れており、ベッドテーブに置いた湯飲みが倒れ白湯がこぼれ出ていた。
「大丈夫ですか!? 」
「母さん!」
龍平と頼くんは同時に呼びかけ、龍平は慌ててベッドサイドに駆け寄った。
「ごめんね、龍ちゃん……ちょっと、しんどくなってきちゃったみたい……」
病床の彼女は肩で息をしていた。
龍平は湯飲みを起こすと周辺をティッシュで拭い、苛立ったように「クソッ」とゴミ箱に投げ捨てた。
「薬はまだかよ! おっせーんだよ! グズグズしやがって役に立たねぇんなら消えろよボケ!」
龍平の怒りは鎮まることなく、新薬の遅延と相まって私たちの周りにはなんとも言えない嫌な空気が漂った。
|(あぁ、嫌だ。逃げ出したい。なかなか治らないけど一分一秒を争うような事態じゃないし、今更焦ったってしょうがないじゃない……)
私は目を伏せた。
婚約者の母親にそんなことを思ってしまうなんて、実は冷たい人間なのかも知れない。
何気なく横の頼くんに目を向けると、彼は持参してきていた箱の蓋を開けて何やらガサゴソと探し物をしていた。
「……あー、あったあった。すいません、失念していました。寺田さん、求めているのはこれですね」
「はぁ?」
「頼くん、何を……」
皆の注目が集まる中、彼は小さな茶色のガラス瓶を取り出した。
「これが寺田さんの症状を快方に向かわせる唯一のお薬、ミヤボトヤバゼです」
「「!!」」
私と龍平は一斉にに息を飲んだ。
頼くんは数歩前に進み出ると、龍平の眼前にそれをちらつかせる。
「何でおまえが」
驚きの余り龍平が声を震わせると、頼くんは毅然とした態度で向き合った。
「何でって、道光製薬の営業だからに決まってるじゃないですか。今日お邪魔する予定って事前にお伝えしていますよね」
「仕事を口実に優月に会いに来たんじゃなかったのか?」
「全くの偶然です。小さな会社なのでこの辺一帯は全て私が担当してるだけです。将来経営に携わるお方なのにそんなこともご存知ないのですか? 心配ですね。もっとよく取引先の特徴を覚えておいた方が良いですよ。他の人に後継者の座を奪われてしまうんじゃないですか?」
頼くんが煽るように正論を言い、龍平は頭に血が上らないはずがなかった。
「おまえに言われる筋合いねぇんだよ!」
頼くんのスーツの襟元を掴んで強引に引き寄せた。
「……っ!」
私は思わず目を反らした。
頼くんが殴られるところなんて見たくない。
しかし、その瞬間は訪れることはなかった。
「……?」
何かが起こっているはずの暗闇からは何の音もせず、私は恐る恐る目を開けた。
頼くんは親指と人差し指でガラス瓶の薬品をつまみ、頭の遥か上へかざしていた。
「いいですよ、私を殴っても。その代わりこの薬が無事である保証はないですけどね」
「おまえ……謀ったな!」
龍平は額にうっすらと汗をうかべながら、頼くんを睨みつけている。
「あなたが私をクビにさせ、半澤農園の土地を少しでも我が物にしようとするなら、今ここでこの瓶を落とすだけです。ガラスが粉々に砕け散って散剤は床に散乱、衛生的に飲めたものではなくなると思いますけどね。どうしますか」
頼くんは腕を高く上げ、ガラス瓶を持つ手首をわざと揺らした。容器の中で薬品がサラサラと左右に揺れる。
「あ、言っておきますけど、これはうちの独自開発中の製品なので他社に頼もうとしても無駄ですよ。後発もまだできていません。今日持って来たのは開発中の貴重なサンプリングのひとつです。前回の治験は半年前でしたから、次もそのくらいになるでしょうね」
彼は苦しそうに呼吸する龍平の母に問いかける。
「どうしますか? 婚約やめますか? それとも、薬やめちゃいますか?」
にっこりと微笑みかけたその姿は悪魔のようだった。
治療薬を持っている救世主であるはずなのに、待ち焦がれていた人物には違いないのに、彼の背後にはどす黒いオーラが、鎌を振りかざしている死神の姿が見えるような気がした。
12
お気に入りに追加
97
あなたにおすすめの小説
財閥御曹司は左遷された彼女を秘めた愛で取り戻す
花里 美佐
恋愛
榊原財閥に勤める香月菜々は日傘専務の秘書をしていた。
専務は御曹司の元上司。
その専務が社内政争に巻き込まれ退任。
菜々は同じ秘書の彼氏にもフラれてしまう。
居場所がなくなった彼女は退職を希望したが
支社への転勤(左遷)を命じられてしまう。
ところが、ようやく落ち着いた彼女の元に
海外にいたはずの御曹司が現れて?!
冷徹社長は幼馴染の私にだけ甘い
森本イチカ
恋愛
妹じゃなくて、女として見て欲しい。
14歳年下の凛子は幼馴染の優にずっと片想いしていた。
やっと社会人になり、社長である優と少しでも近づけたと思っていた矢先、優がお見合いをしている事を知る凛子。
女としてみて欲しくて迫るが拒まれてーー
★短編ですが長編に変更可能です。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?

包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~
吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。
結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。
何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。

ネカフェ難民してたら鬼上司に拾われました
瀬崎由美
恋愛
穂香は、付き合って一年半の彼氏である栄悟と同棲中。でも、一緒に住んでいたマンションへと帰宅すると、家の中はほぼもぬけの殻。家具や家電と共に姿を消した栄悟とは連絡が取れない。彼が持っているはずの合鍵の行方も分からないから怖いと、ビジネスホテルやネットカフェを転々とする日々。そんな穂香の事情を知ったオーナーが自宅マンションの空いている部屋に居候することを提案してくる。一緒に住むうち、怖くて仕事に厳しい完璧イケメンで近寄りがたいと思っていたオーナーがド天然なのことを知った穂香。居候しながら彼のフォローをしていくうちに、その意外性に惹かれていく。
そういう目で見ています
如月 そら
恋愛
プロ派遣社員の月蔵詩乃。
今の派遣先である会社社長は
詩乃の『ツボ』なのです。
つい、目がいってしまう。
なぜって……❤️
(11/1にお話を追記しました💖)
オオカミ課長は、部下のウサギちゃんを溺愛したくてたまらない
若松だんご
恋愛
――俺には、将来を誓った相手がいるんです。
お昼休み。通りがかった一階ロビーで繰り広げられてた修羅場。あ~課長だあ~、大変だな~、女性の方、とっても美人だな~、ぐらいで通り過ぎようと思ってたのに。
――この人です! この人と結婚を前提につき合ってるんです。
ほげええっ!?
ちょっ、ちょっと待ってください、課長!
あたしと課長って、ただの上司と部下ですよねっ!? いつから本人の了承もなく、そういう関係になったんですかっ!? あたし、おっそろしいオオカミ課長とそんな未来は予定しておりませんがっ!?
課長が、専務の令嬢とのおつき合いを断るネタにされてしまったあたし。それだけでも大変なのに、あたしの住むアパートの部屋が、上の住人の失態で水浸しになって引っ越しを余儀なくされて。
――俺のところに来い。
オオカミ課長に、強引に同居させられた。
――この方が、恋人らしいだろ。
うん。そうなんだけど。そうなんですけど。
気分は、オオカミの巣穴に連れ込まれたウサギ。
イケメンだけどおっかないオオカミ課長と、どんくさくって天然の部下ウサギ。
(仮)の恋人なのに、どうやらオオカミ課長は、ウサギをかまいたくてしかたないようで――???
すれ違いと勘違いと溺愛がすぎる二人の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる