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二十
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「頼くんと一緒にいたい!」
私は彼の姿を指差した。
出会ったときより少し背が伸びて恰幅が良くなって、人の親になった大好きな人。
彼自身が理想として掲げていた「自立した人間」にはとっくになっている。だから次は私を迎えに来る番だ。
今度は隠れたりしないで、堂々と生きていきたい。二人……いや、子どもを含めた三人で、一緒に歩いていきたい。
「農園の土地はなくなるかも知れない。二番目に好きな人と結婚するべきっていうお母さんのアドバイスも、聞けないかたちになる。でも、それでも許して欲しいって思うくらい、私は彼のことが好き。龍平との婚約は破棄します」
腕時計を外して彼の眼前に差し出し、深々と頭を下げた。婚約するときに龍平から指輪代わりに貰ったものだ。
「はぁ? おまえ何言ってんだよ」
龍平は私の手首を掴むと腕時計をもぎ取り、もう片方の手で手のひらにそれをもう一度乗せた。
「おまえ阿保だな。今からこの男はオレがクビにする。ろくな貯金もねぇ貧乏人についてく奴いんの?」
貧乏人という強い言葉に、私は軽く身震いした。私の実家も龍平の家と比べたら天と地ほどの収入差がある。天候不順で不作の年、クラスのみんなが持っていた流行のグッズを買って貰えなかったこともある。
でも、それが不幸だとは思ったことはない。代わりの楽しみを自分で見つけてきた。両親と妹と、和気あいあい生活してきた。
大人になった私が子ども時代を後悔していないことが、何よりの証拠だ。
お金はあった方がいいけれど、お金じゃ得られないものがあること、それが大事なこと、私自身がよく知っている。
「ついていくよ。お金がないなら私が稼げばいい。私働けるよ」
腕時計を掴んでもう一度突き返すと、グーにした手の甲をピシャリと払われた。
その拍子に飛び出した時計が、宙を舞って冷たい床に落下した。
「ろくに働いた経験ねぇ奴なんていらねえんだよ」
龍平の怒声が病室の中に響き渡った。
刹那……カタン、と何かが倒れる音がした。
音の出所を振り向くと、龍平の母が力なく項垂れており、ベッドテーブに置いた湯飲みが倒れ白湯がこぼれ出ていた。
「大丈夫ですか!? 」
「母さん!」
龍平と頼くんは同時に呼びかけ、龍平は慌ててベッドサイドに駆け寄った。
「ごめんね、龍ちゃん……ちょっと、しんどくなってきちゃったみたい……」
病床の彼女は肩で息をしていた。
龍平は湯飲みを起こすと周辺をティッシュで拭い、苛立ったように「クソッ」とゴミ箱に投げ捨てた。
「薬はまだかよ! おっせーんだよ! グズグズしやがって役に立たねぇんなら消えろよボケ!」
龍平の怒りは鎮まることなく、新薬の遅延と相まって私たちの周りにはなんとも言えない嫌な空気が漂った。
|(あぁ、嫌だ。逃げ出したい。なかなか治らないけど一分一秒を争うような事態じゃないし、今更焦ったってしょうがないじゃない……)
私は目を伏せた。
婚約者の母親にそんなことを思ってしまうなんて、実は冷たい人間なのかも知れない。
何気なく横の頼くんに目を向けると、彼は持参してきていた箱の蓋を開けて何やらガサゴソと探し物をしていた。
「……あー、あったあった。すいません、失念していました。寺田さん、求めているのはこれですね」
「はぁ?」
「頼くん、何を……」
皆の注目が集まる中、彼は小さな茶色のガラス瓶を取り出した。
「これが寺田さんの症状を快方に向かわせる唯一のお薬、ミヤボトヤバゼです」
「「!!」」
私と龍平は一斉にに息を飲んだ。
頼くんは数歩前に進み出ると、龍平の眼前にそれをちらつかせる。
「何でおまえが」
驚きの余り龍平が声を震わせると、頼くんは毅然とした態度で向き合った。
「何でって、道光製薬の営業だからに決まってるじゃないですか。今日お邪魔する予定って事前にお伝えしていますよね」
「仕事を口実に優月に会いに来たんじゃなかったのか?」
「全くの偶然です。小さな会社なのでこの辺一帯は全て私が担当してるだけです。将来経営に携わるお方なのにそんなこともご存知ないのですか? 心配ですね。もっとよく取引先の特徴を覚えておいた方が良いですよ。他の人に後継者の座を奪われてしまうんじゃないですか?」
頼くんが煽るように正論を言い、龍平は頭に血が上らないはずがなかった。
「おまえに言われる筋合いねぇんだよ!」
頼くんのスーツの襟元を掴んで強引に引き寄せた。
「……っ!」
私は思わず目を反らした。
頼くんが殴られるところなんて見たくない。
しかし、その瞬間は訪れることはなかった。
「……?」
何かが起こっているはずの暗闇からは何の音もせず、私は恐る恐る目を開けた。
頼くんは親指と人差し指でガラス瓶の薬品をつまみ、頭の遥か上へかざしていた。
「いいですよ、私を殴っても。その代わりこの薬が無事である保証はないですけどね」
「おまえ……謀ったな!」
龍平は額にうっすらと汗をうかべながら、頼くんを睨みつけている。
「あなたが私をクビにさせ、半澤農園の土地を少しでも我が物にしようとするなら、今ここでこの瓶を落とすだけです。ガラスが粉々に砕け散って散剤は床に散乱、衛生的に飲めたものではなくなると思いますけどね。どうしますか」
頼くんは腕を高く上げ、ガラス瓶を持つ手首をわざと揺らした。容器の中で薬品がサラサラと左右に揺れる。
「あ、言っておきますけど、これはうちの独自開発中の製品なので他社に頼もうとしても無駄ですよ。後発もまだできていません。今日持って来たのは開発中の貴重なサンプリングのひとつです。前回の治験は半年前でしたから、次もそのくらいになるでしょうね」
彼は苦しそうに呼吸する龍平の母に問いかける。
「どうしますか? 婚約やめますか? それとも、薬やめちゃいますか?」
にっこりと微笑みかけたその姿は悪魔のようだった。
治療薬を持っている救世主であるはずなのに、待ち焦がれていた人物には違いないのに、彼の背後にはどす黒いオーラが、鎌を振りかざしている死神の姿が見えるような気がした。
私は彼の姿を指差した。
出会ったときより少し背が伸びて恰幅が良くなって、人の親になった大好きな人。
彼自身が理想として掲げていた「自立した人間」にはとっくになっている。だから次は私を迎えに来る番だ。
今度は隠れたりしないで、堂々と生きていきたい。二人……いや、子どもを含めた三人で、一緒に歩いていきたい。
「農園の土地はなくなるかも知れない。二番目に好きな人と結婚するべきっていうお母さんのアドバイスも、聞けないかたちになる。でも、それでも許して欲しいって思うくらい、私は彼のことが好き。龍平との婚約は破棄します」
腕時計を外して彼の眼前に差し出し、深々と頭を下げた。婚約するときに龍平から指輪代わりに貰ったものだ。
「はぁ? おまえ何言ってんだよ」
龍平は私の手首を掴むと腕時計をもぎ取り、もう片方の手で手のひらにそれをもう一度乗せた。
「おまえ阿保だな。今からこの男はオレがクビにする。ろくな貯金もねぇ貧乏人についてく奴いんの?」
貧乏人という強い言葉に、私は軽く身震いした。私の実家も龍平の家と比べたら天と地ほどの収入差がある。天候不順で不作の年、クラスのみんなが持っていた流行のグッズを買って貰えなかったこともある。
でも、それが不幸だとは思ったことはない。代わりの楽しみを自分で見つけてきた。両親と妹と、和気あいあい生活してきた。
大人になった私が子ども時代を後悔していないことが、何よりの証拠だ。
お金はあった方がいいけれど、お金じゃ得られないものがあること、それが大事なこと、私自身がよく知っている。
「ついていくよ。お金がないなら私が稼げばいい。私働けるよ」
腕時計を掴んでもう一度突き返すと、グーにした手の甲をピシャリと払われた。
その拍子に飛び出した時計が、宙を舞って冷たい床に落下した。
「ろくに働いた経験ねぇ奴なんていらねえんだよ」
龍平の怒声が病室の中に響き渡った。
刹那……カタン、と何かが倒れる音がした。
音の出所を振り向くと、龍平の母が力なく項垂れており、ベッドテーブに置いた湯飲みが倒れ白湯がこぼれ出ていた。
「大丈夫ですか!? 」
「母さん!」
龍平と頼くんは同時に呼びかけ、龍平は慌ててベッドサイドに駆け寄った。
「ごめんね、龍ちゃん……ちょっと、しんどくなってきちゃったみたい……」
病床の彼女は肩で息をしていた。
龍平は湯飲みを起こすと周辺をティッシュで拭い、苛立ったように「クソッ」とゴミ箱に投げ捨てた。
「薬はまだかよ! おっせーんだよ! グズグズしやがって役に立たねぇんなら消えろよボケ!」
龍平の怒りは鎮まることなく、新薬の遅延と相まって私たちの周りにはなんとも言えない嫌な空気が漂った。
|(あぁ、嫌だ。逃げ出したい。なかなか治らないけど一分一秒を争うような事態じゃないし、今更焦ったってしょうがないじゃない……)
私は目を伏せた。
婚約者の母親にそんなことを思ってしまうなんて、実は冷たい人間なのかも知れない。
何気なく横の頼くんに目を向けると、彼は持参してきていた箱の蓋を開けて何やらガサゴソと探し物をしていた。
「……あー、あったあった。すいません、失念していました。寺田さん、求めているのはこれですね」
「はぁ?」
「頼くん、何を……」
皆の注目が集まる中、彼は小さな茶色のガラス瓶を取り出した。
「これが寺田さんの症状を快方に向かわせる唯一のお薬、ミヤボトヤバゼです」
「「!!」」
私と龍平は一斉にに息を飲んだ。
頼くんは数歩前に進み出ると、龍平の眼前にそれをちらつかせる。
「何でおまえが」
驚きの余り龍平が声を震わせると、頼くんは毅然とした態度で向き合った。
「何でって、道光製薬の営業だからに決まってるじゃないですか。今日お邪魔する予定って事前にお伝えしていますよね」
「仕事を口実に優月に会いに来たんじゃなかったのか?」
「全くの偶然です。小さな会社なのでこの辺一帯は全て私が担当してるだけです。将来経営に携わるお方なのにそんなこともご存知ないのですか? 心配ですね。もっとよく取引先の特徴を覚えておいた方が良いですよ。他の人に後継者の座を奪われてしまうんじゃないですか?」
頼くんが煽るように正論を言い、龍平は頭に血が上らないはずがなかった。
「おまえに言われる筋合いねぇんだよ!」
頼くんのスーツの襟元を掴んで強引に引き寄せた。
「……っ!」
私は思わず目を反らした。
頼くんが殴られるところなんて見たくない。
しかし、その瞬間は訪れることはなかった。
「……?」
何かが起こっているはずの暗闇からは何の音もせず、私は恐る恐る目を開けた。
頼くんは親指と人差し指でガラス瓶の薬品をつまみ、頭の遥か上へかざしていた。
「いいですよ、私を殴っても。その代わりこの薬が無事である保証はないですけどね」
「おまえ……謀ったな!」
龍平は額にうっすらと汗をうかべながら、頼くんを睨みつけている。
「あなたが私をクビにさせ、半澤農園の土地を少しでも我が物にしようとするなら、今ここでこの瓶を落とすだけです。ガラスが粉々に砕け散って散剤は床に散乱、衛生的に飲めたものではなくなると思いますけどね。どうしますか」
頼くんは腕を高く上げ、ガラス瓶を持つ手首をわざと揺らした。容器の中で薬品がサラサラと左右に揺れる。
「あ、言っておきますけど、これはうちの独自開発中の製品なので他社に頼もうとしても無駄ですよ。後発もまだできていません。今日持って来たのは開発中の貴重なサンプリングのひとつです。前回の治験は半年前でしたから、次もそのくらいになるでしょうね」
彼は苦しそうに呼吸する龍平の母に問いかける。
「どうしますか? 婚約やめますか? それとも、薬やめちゃいますか?」
にっこりと微笑みかけたその姿は悪魔のようだった。
治療薬を持っている救世主であるはずなのに、待ち焦がれていた人物には違いないのに、彼の背後にはどす黒いオーラが、鎌を振りかざしている死神の姿が見えるような気がした。
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