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「……っ!? ちょっと、私一応婚約者がいるんだから……っ!」
 
 私は咄嗟に彼の手を腰から剥がそうとするが、大きくて厚い男の手はびくともしない。
 
「う……力、強っ……」
 
「優月ちゃんを守らないといけないからね」
 
 それどころか一層手に力を込めて、反対側の腕で私を引き込むように胸の中へ抱き込んだ。
 瞬間、彼の巻いている黒いマフラーから彼の匂いがふんわりと鼻をくすぐって、嗅いだことはないのに懐かしいような感覚をおぼえた。
 これが身体が覚えているっていうことなんだろうかと意識すると、途端に身体が火照ってしまって、慌てて腕の中からすり抜けた。
 
「でもお前結局守るどころか子供つくってるから負担しかねぇよな」 
 
 友人のひとりが言った言葉に、ピクッと彼の指先が動いた。
 負担という点で見れば、確かにそうなのかも知れない。定期的に通っていた産婦人科でも、妊婦さんは幸せなだけじゃなかった。顔色が悪くしんどそうにしていたり、お腹が重い中で上の子の世話をしていたり、
 マタニティ雑誌に出てくるような生活はあくまでも理想に過ぎないのだと知った。  
 それに、こうなってみて初めてマタニティマークを意識した。ここに来るまでの電車の中でも何人か見かけたけど、以前は目に入りすらしないから、席を譲ったことなんてほとんどなかった。
 
「……」
 
 図星なのか彼は黙った。  
 しかし記憶がないにしろ、頼くんが無理矢理女の子を襲うなんてことは、到底考えられない。
 
 私の頭の中からは一時的に消えてしまっているけど、お互いに信頼しあっていることはこれまでの頼くんの私への表情や態度から伝わってくるのだ。
 彼が自信の生き写しのような息子を抱き上げて微笑みかける姿は慈愛に満ち、うっとりするほど美しい。 
 昔の私が見たらときめきすぎて卒倒するんじゃないかとさえ思う。好きな人が爽やか系イケメンパパになっていて、遠慮なく自分の名前を呼び捨てにしているなんて、いったい誰が想像できただろうか。前世でどんな徳を積んだろう。
 
 それとも……連日のように龍平に怒られ続ける私へのご褒美だろうか。
 神様もたまにはいい仕事する。
 私は震える頼くんの指先を両手で握った。
 
「それはそうかも知れないね。でもきっと頼くんと一緒にいれることの嬉しさが上回ってたと思うよ」
 
 龍平とは結婚を前提に同居を始めた。
 若い男女が同じ家に住んでいるのだ。身体を求められることが無いとは言えない。
 もちろんそんなことは承知の上だったけど、好きではない男性に触れられるのは私にとって想像以上に苦痛だった。
 気持ちがいいと嘘をつき、漫画や小説で学んだ色っぽいような声を出す。長い長い演技の時間だ。
 
 その長い女優業の時間を、ずっと彼のことを脳裏に浮かべてやり過ごしていたなんて、頼くんは知らない。 
 
 その想像が現実だった世界線があるのだ。  
 そこにはきっと後悔なんて微塵もなかった。
 もし記憶がなくならなかったとしたら、全てを捨ててでもどこか遠いところで彼の子どもと共に生きる道を選んだだろう。
 
 私にとって、彼の存在はそれくらい大切だったんだ。だから彼が何かを思い悩む必要は全くない。
 
「充分だよ、充分幸せだったと思う。頼くんの赤ちゃんを身籠っていたときの私は、今まで生きてきたなかで一番幸せだったよ」
 
 私は右隣に立つ彼を見上げた。
 私を見下ろす彼の眼差しは、不安を残しつつ想像していたより柔らかかった。
 
「優しいな、君は。離れ離れになってしまうことを想定しなかった俺が馬鹿なのに。真の漢なら、あらゆるケースを推測してそれに応じた対策を練るべきだったのにな」
 
「真のおとこって」
 
「優月、周りに味方がいなくて心細かっただろう? いつも世話になっている女性にあんなこと平気で言うなんて、どういう神経してるんだろうな。いちいち自己肯定感下がるような事ばかり言って、見下して、自分がされて嫌なこと他人にしないって教わらなかったのか? あぁいうヤツがいるから精神病む人間が後を絶たないんだ」
  
 頼くんはぶつくさとぼやいた。言葉の端々から、私より私の婚約者に対して憤ってくれているのが伝わってきた。
 その心遣いが嬉しくて、鼻の奥がツンとした。
 そんな私に気づいて、頼くんは私を再び抱きしめた。
 
「絶対に迎えに行くから、もうちょっとだけ頑張って」
 
 再度近づいた逞しい身体から、また懐かしい香りがした。懐かしくて、それでいて愛しさが込み上げる不思議な彼の匂い。
 
 ふと、脳裏に浮かんだのは龍平のつけているスパイシーで魅惑的な大人の香水の香り。イケメンをよりイケメンにしてくれるという触れ込みの高給フレグランスだが、そこそこ値段も張り、貶してはいけないので気を遣う。
 キツい香りと共に私に辛辣な言葉を蒔き散らすのだった。
 
「まったくお前は。何一つまともにできねぇな」 
 
 繰り返し言われ続け、こんなときにも思い出してしまう。今だけは全てを忘れて昔の気分に浸ろうと思っていたのに、何度も呟かれたそれは私の頭の中に深く根を張り、胸の辺りから何かが込み上げる。
 
「……頼くん」
 
「どうした?」
 
 やっとの思いで音にして、彼の服の裾を握ると、頼くんは布地から私の手を引き剥がして自分の手に繋ぎ直した。
 節くれだった大きな手は想像よりもカサカサしていたのは多分冬だからだ。
 
「……大丈夫か?」
 
 じっとうつむいている私の顔を頼くんが覗き込んだ。
 彼の口は、優しい言葉を紡いでくれる。
 耳は、いつも私の泣き言を聞いてくれる。
 励ますように触れてくれる手に、いざとなれば盾になってくれる身体。
 
 目の前にいるのは、世界で一番、大好きな頼くんだ。
 ずっとずっと欲しかった温かな心を持っているひと。
 龍平にもそんなふうに接して欲しくて期待し続けていたけど、結局変わってくれることはなかった。ひとりで勝手に期待しては落ち込んで、何度も打ちのめされてきた。
 
 頼くんはいとも簡単に私が欲しい言葉をくれる。彼にとっては、私に寄り添うことなんて至極当たり前のことなのだ。
 
 |(もしこの島で今もずっと暮らしていたら、私は自分のことがもっと好きなんじゃないかな。なりたい自分に、もっと近づいていたんじゃないかな……)
 
 そう思ったら、目に溜まった涙がついにぽたりと溢れ落ちて頬を伝った。
 
「オレ、半澤さんが泣いたのを初めて見た」
 
「あたしも見たことないよ。この子は人前で泣けないタイプなんだよ。牧野の前だけだよ、優月が涙を流すのは」
 
 友人たちが口々にそう言った。
 頼くんは口元を隠してフッと微笑んで、まっすぐ私の顔を見た。
 
「それは光栄だな」
 
 そして半歩前へ進み出ると、私の後頭部をグッと傾けて唇をついばんだ。
 
 
 
 ……もう一度言おう、唇をついばんだ……
 
「……っ!? 」
 
「頼久ー、何してんだよお前、そういうのは人目につかない場所でー……」
 
 すると何故だか、密着した唇から鮮明な記憶が流れ込んできた。いや、正確にはよみがえってきた。忘れていた二人の記憶がーー
 
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