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 小さな母子手帳には妊娠中の体重遷移の記録や私の字で書かれた悪阻のメモ、赤ちゃんの欄には月齢ごとにできるようになったことが日付と共に記されてあった。これも確かに牧野くんの字だ。
 
「信じてくれた?」
 
「私産んだ記憶ないんだけど」
 
「ははっ、それもそうだな」
 
 子どもに呼ばれ、牧野くんは再び子どもを抱き上げた。両手を上げている息子の脇の下に手を差し込み、慣れた様子で持ち上げる。小さな男の子は彼の背中に手を回すと、紅葉のような手でしっかりとジャケットを掴んだ。
 小さな顔に不釣り合いの大きな瞳が、安心を得て細くなる。
 この数年間の彼のことは分からないけど、仕事に育児に必死に走り続けていたんじゃないかと思う。
 子育ては想像以上に大変だと聞く。顔に似合わずカサついた指先も、腕や首に残る引っ掻き傷も、牧野くんが子どもと向き合ってきた証だ。
 
「覚えてなくてごめんね。過去の私に代わってお礼を言うよ。可愛がってくれてありがとう」
 
「いいよ。俺も優月に会えないから、君にそそぐはずだった分まで愛情を持って育てるって決めてたんだ。それなりに大変だけど、本当に可愛いから苦じゃないよ」
 
 牧野くんはにっこり笑った。
 意識しないように律してきたけど、ずっと心持ちにしていた好きな人の笑顔につられて口元が緩んでしまう。
 全く記憶にないにしろ、私たちの間に子どもがいるということはとても仲良くしていたということである。一般的な普通の友達以上の関係だ。
 私は思わず彼の唇に目を向ける。今の私は触れたことすらないけど、過去の私は知りつくしてるかも知れない唇だ。経験豊富な過去の自分に、ゴクリと喉を鳴らす。
 
 |(そうだよ……普通の友達だったはずなのにいつの間にそんな関係になったの? 覚えていないときに何があったの? カッコいいとは思ってだけど、一応婚約者のいる身だし、牧野くんにもそれを伝えていたような気がするんだけど。無理矢理襲うなんてことも考えられないしなぁ)
 
 長考すると、また彼は笑みをこぼしながら言った。
 
「大丈夫だよ。君とは友達に戻ったつもりで接するから」
 
 何故バレたのか。 
 
「考えてないし!」
 
「本当かー?」
 
 クスクス笑いながら、私の髪の毛をひと束手に取った。飾り気のない黒い髪が、角張った指で丁寧に鋤かれる。思わず近くなった彼の顔に鼓動が速くなる。
 
「ま、どっちでもいいけど。龍平くんより先に優月を手に入れたのは俺だから」
 
 牧野くんは不意に鋭い眼差しを私に向けた。見たことのない、獲物を狙うかのような目付きに緊張が高まる。
 
「龍平を知ってるの……?」
 
「優月が教えてくれたんだよ。寺田龍平という婚約者がいると。名前も、どういう男性なのかも。そのうえで俺がいいと言ってくれたじゃないか」 
 
 牧野くんは椅子に置いた私の手をすくいあげると、指先にふんわりキスを落とした。ファンタジー小説で見た騎士とお姫様みたいなシチュエーションに、さらに顔が熱くなる。
 
「優月が、まだ<半澤>のままで良かった。絶対に寺田病院には渡さない。優月は<牧野>にさせる。今の君が覚えていようがいまいが、俺の思いはあの頃と変わらない」
 
「牧野くん?」 
 
「優月、俺が好きだろう? 俺と結婚してくれないか」
 
「け、結婚!? 」
 
 待合室で待つ女性たちが聞き耳を立てている気がするが、恥ずかしくて堂々と辺りをうかがうことなどできない。
 
「俺には優月しかいないんだ。それに大和だって、男親一人じゃ寂しいだろう? せっかく目の前に産みの母がいるのに、これでお別れなんて悲しいだろう。俺たち元サヤに戻るべきだと思うけどな」
 
「う……」
 
 そこで子どもの話題を持ち出すのはズルいと思う。
 私に記憶がなくなって、彼の記憶や母子手帳から私が出産したのは事実だし、入院していたのも婦人科の病気じゃなくて出産していたからだと考えれば辻褄が合うのだ。
 そうなれば子どもの事や子どもを授かるに至った経緯について知りたいと思うのは自然の摂理で、詳細を知りたいのなら彼と関係を継続するしか選択肢は残されていない。
 
「安心して。今すぐにどうこうしようとは思ってないから。俺も君と同じく会えただけで幸せだから、ゆっくりと会えなかった時間を埋めたいんだ」
 
 いつの間に腕の中をすり抜けたのか、足元にくっついてくる息子を撫でながら、平然とした顔で口説き文句を語り続ける。
 脳裏に浮かぶ彼は至って真面目で誠実で、こんな甘い台詞を口にできるようなキャラじゃなかったのに、私が知らない間に何があったと言うんだろう。
 
「とりあえず手始めにーーそうだな、頼久、頼久って呼んで」
 
「それは……」
 
「あ、大和の手前パパの方がいいか? 俺はママとは言わず優月って呼ぶけど、優月がその方がいいならそれでもいい……」
 
「よ、より……頼くん! 頼くんでお願いします!」
 
 名前呼びよりさらに難易度が高い呼称に変更させられそうになり、慌てて彼の名を口にする。
 しかしそれは音にすれば呼び捨てよりも甘い雰囲気を醸し出して、私が固まると、彼は懐かしむように目を細めた。
 
「いいよ、優月。優月の言う通りにしてあげる」
 
 
 かくして、産んだ覚えのない子どもと、進展した記憶はないのに進展している好きな人は、あっという間に私の日常に入り込んできてしまったのである。
 そしてそれは、龍平との関係で疲弊していた心に抑えきれない愛しさと安らぎを与え、私は刹那にして幸福で溶かされ始めた。
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