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第一話
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ひんやりとした冷気が、フランシスカの足元をかすめた。寒いエルスラー王国でもすでに雪は溶けきって、短い温暖期がやってきていた。南から暖かな風が吹き、夜でももう気温が氷点下になることはない。
今の時期に刺すような冷たさの空気が肌に触れるというのは稀で、数十年に一度の異常気象の年か、誰かが魔法を使ったときのみだ。だからこれはおそらく魔法なのだけど、フランシスカは妙に気になって動きを止めた。
大きな城の中にズラリと並ぶ、使用人部屋のひとつに彼女はいた。王子の個室とも程近いここは、皇子の専属騎士である男の居室だ。木製のデスクには書類がたくさん積み上げられ、壁には長剣が斜めに立て掛けられている。窓枠に下がったハンガーには男が着ている重厚な騎士団の制服が、ずっしりと外と内とを隔てている。
窓が窓としての役割を果たしていないせいか、南向きだというのにこの部屋はどことなく陰湿で空気が淀んでいる。
二人の時間を割いた空気にフランシスカがふと顔を上げたから、この部屋の主──ガリオン・レッツも仕方なく腰を動かすのを止めた。
フランシスカとガリオンはこの日三度目の逢瀬の真っ只中であった。
「……どうした?」
「いま、一瞬すごく寒い空気が来なかった? 氷山にいるときみたいな、吹雪いているような」
「そうかな、俺は気付かなかったけど……君がそう言うならそうだね、きっと」
ガリオンはフランシスカの乱れた髪の毛を払い、頬に唇を落とした。腰まである淡い水色の髪は静かに揺れ、彼の胸元にはらりと落ちた。
男の肉体は日々の訓練で鍛え上げられ、たくましく隆々としている。彼自身自分の身体は嫌いではなかったが、彼女といるときの自分はより一層好きだった。フランシスカの白くてしなやかな身体が、彼の屈強さをいちだんと際立たせるのだ。
赤銅色の長髪と深緑の瞳はありふれたものだが、高い身長と恵まれた体躯も相まって、縁談が持ち込まれることも少なくはない。貴族の出ではないにしろ、目を引く美しい容姿は数々の女性を釘付けにするには充分だったのだ。
けれどもガリオンが彼女らの要求に応えることは、これまで一度もなかった。どんなに若く美しく心根の優しい女性であっても、手紙の返事すらしたことがない。
彼の心の中には、フランシスカたったひとりだけ。
ガリオンにとってフランシスカは、主である皇子よりも尊く、守るべき大切な女性なのだ。
しかしフランシスカにとってのガリオンは、彼と同じ気持ちかと尋ねられれば必ずしもそうであるとは言い切れないのが現状である。
「私やっぱり見に行ってくるね」
「フラン!」
冷気の出所がどうしても気になったフランシスカはガリオンの腕の中からするりと抜け出すと、シュミーズに袖を通して廊下へ飛び出していった。
抱き合っているときは決して身体を離さないガリオンだが、ひとたび終わってしまえば小柄なフランシスカはちょこちょこ動き回って簡単に自分の元から離れていってしまう。
一日に何度も肌を重ねると言えども、ガリオンはその度に寂しく、再び触れたい衝動に駆られる。
「俺も行くよ」
身体を起こすと、ベージュのガウンを羽織って彼女の後を追った。
シンと静まり返った深夜の城内に、廊下を歩く二人の足音が反響した。ガリオンはランプを持ちながらフランシスカに付き添って歩いた。冷気は霧のように微細な粒子でできており、足首から下までを覆う煙霧は歩くほどに冷たさを増していく。
「……水属性魔法だな。誰がこんな夜中に」
「猛特訓してるのかも知れないわね」
「だとしても、これじゃあ皆凍ってしまう。訓練場でやればいいものを」
城には騎士団専用の鍛練場が設けられている。剣術や馬術用の運動場や、ドーム型に特殊な防御壁をこさえた魔術用の実験場も常設しており、城に勤務している騎士団員なら誰でも自由に使用していいこととなっている。
「こっそり上達して、喜ばせたかったのかも知れないわよ。だって、ほら、私だってそうだもん。いつかきっとマリーに振り向いてもらうの」
フランシスカは満面の笑みを浮かべた。
彼女の丸みを帯びた頬が、ガリオンとの行為中とは別の意味で赤く染まる。
「そうだね……」
ガリオンは切なさを隠して頷いた。
フランシスカはガリオンにもよく笑いかける。嬉しいことがあったとき、真っ先に彼に報告しに行く。「聞いて聞いてガリオン、あのね……」と、口元を緩ませながら近寄って来る彼女が、とても愛しくて尊い。けれど彼女がガリオンに懐いているのは、所詮マリーの代わりなのだ。
マリー・イヴ=アングル。彼女こそフランシスカが想いを寄せる相手だ。何度も裸を見ているガリオンではない。
この国の人間は皆生まれながらにして魔力は持っているが、魔術として扱うことができるほどの魔力を保有しているのは男性に限られている。
フランシスカも例外ではないが、マリーは違った。彼女は女性でも魔術が使える、稀有な存在なのだ。しかも少数派の光属性の中でも百年に一度しか産まれない治癒魔法の持ち主"聖女"でもあり、国が繁栄していく希望でもある。王や国民すべての人にとって特別で大切な女性なのだ。
ガリオンはフランシスカがマリーに夢中なのは百も承知だったが、関係を止めようと思ったことはなかった。自分と話しているときでもマリーが見えれば視線がパッと移り変わるし、マリーがいかに優れているか、憧れの対象であるかもフランシスカに何度も何度も聞かされるから。自分がマリーに劣っていることは承知の上で、フランシスカと身体を重ね合わせていた。
唯一の取り柄が、彼の自尊心を後押ししていたからだ。
男であること。ガリオンは性別だけは、マリーには覆すことのできない自分の価値だと思っていた。
フランシスカがいくらマリーとひとつになりたいと願ったところで、同性同士は結婚できないし快楽を享受することが不可能だが、男であるガリオンならいとも容易くフランシスカを抱くことができる。彼女が望んだらいつだって、期待に応えることができるのだ。
ガリオンは彼女を誘った。
「聖女マリーともっと親しくなりたいんだろう? 俺と練習した方がいいよ。悦ばせ方を教えてあげる」
今の時期に刺すような冷たさの空気が肌に触れるというのは稀で、数十年に一度の異常気象の年か、誰かが魔法を使ったときのみだ。だからこれはおそらく魔法なのだけど、フランシスカは妙に気になって動きを止めた。
大きな城の中にズラリと並ぶ、使用人部屋のひとつに彼女はいた。王子の個室とも程近いここは、皇子の専属騎士である男の居室だ。木製のデスクには書類がたくさん積み上げられ、壁には長剣が斜めに立て掛けられている。窓枠に下がったハンガーには男が着ている重厚な騎士団の制服が、ずっしりと外と内とを隔てている。
窓が窓としての役割を果たしていないせいか、南向きだというのにこの部屋はどことなく陰湿で空気が淀んでいる。
二人の時間を割いた空気にフランシスカがふと顔を上げたから、この部屋の主──ガリオン・レッツも仕方なく腰を動かすのを止めた。
フランシスカとガリオンはこの日三度目の逢瀬の真っ只中であった。
「……どうした?」
「いま、一瞬すごく寒い空気が来なかった? 氷山にいるときみたいな、吹雪いているような」
「そうかな、俺は気付かなかったけど……君がそう言うならそうだね、きっと」
ガリオンはフランシスカの乱れた髪の毛を払い、頬に唇を落とした。腰まである淡い水色の髪は静かに揺れ、彼の胸元にはらりと落ちた。
男の肉体は日々の訓練で鍛え上げられ、たくましく隆々としている。彼自身自分の身体は嫌いではなかったが、彼女といるときの自分はより一層好きだった。フランシスカの白くてしなやかな身体が、彼の屈強さをいちだんと際立たせるのだ。
赤銅色の長髪と深緑の瞳はありふれたものだが、高い身長と恵まれた体躯も相まって、縁談が持ち込まれることも少なくはない。貴族の出ではないにしろ、目を引く美しい容姿は数々の女性を釘付けにするには充分だったのだ。
けれどもガリオンが彼女らの要求に応えることは、これまで一度もなかった。どんなに若く美しく心根の優しい女性であっても、手紙の返事すらしたことがない。
彼の心の中には、フランシスカたったひとりだけ。
ガリオンにとってフランシスカは、主である皇子よりも尊く、守るべき大切な女性なのだ。
しかしフランシスカにとってのガリオンは、彼と同じ気持ちかと尋ねられれば必ずしもそうであるとは言い切れないのが現状である。
「私やっぱり見に行ってくるね」
「フラン!」
冷気の出所がどうしても気になったフランシスカはガリオンの腕の中からするりと抜け出すと、シュミーズに袖を通して廊下へ飛び出していった。
抱き合っているときは決して身体を離さないガリオンだが、ひとたび終わってしまえば小柄なフランシスカはちょこちょこ動き回って簡単に自分の元から離れていってしまう。
一日に何度も肌を重ねると言えども、ガリオンはその度に寂しく、再び触れたい衝動に駆られる。
「俺も行くよ」
身体を起こすと、ベージュのガウンを羽織って彼女の後を追った。
シンと静まり返った深夜の城内に、廊下を歩く二人の足音が反響した。ガリオンはランプを持ちながらフランシスカに付き添って歩いた。冷気は霧のように微細な粒子でできており、足首から下までを覆う煙霧は歩くほどに冷たさを増していく。
「……水属性魔法だな。誰がこんな夜中に」
「猛特訓してるのかも知れないわね」
「だとしても、これじゃあ皆凍ってしまう。訓練場でやればいいものを」
城には騎士団専用の鍛練場が設けられている。剣術や馬術用の運動場や、ドーム型に特殊な防御壁をこさえた魔術用の実験場も常設しており、城に勤務している騎士団員なら誰でも自由に使用していいこととなっている。
「こっそり上達して、喜ばせたかったのかも知れないわよ。だって、ほら、私だってそうだもん。いつかきっとマリーに振り向いてもらうの」
フランシスカは満面の笑みを浮かべた。
彼女の丸みを帯びた頬が、ガリオンとの行為中とは別の意味で赤く染まる。
「そうだね……」
ガリオンは切なさを隠して頷いた。
フランシスカはガリオンにもよく笑いかける。嬉しいことがあったとき、真っ先に彼に報告しに行く。「聞いて聞いてガリオン、あのね……」と、口元を緩ませながら近寄って来る彼女が、とても愛しくて尊い。けれど彼女がガリオンに懐いているのは、所詮マリーの代わりなのだ。
マリー・イヴ=アングル。彼女こそフランシスカが想いを寄せる相手だ。何度も裸を見ているガリオンではない。
この国の人間は皆生まれながらにして魔力は持っているが、魔術として扱うことができるほどの魔力を保有しているのは男性に限られている。
フランシスカも例外ではないが、マリーは違った。彼女は女性でも魔術が使える、稀有な存在なのだ。しかも少数派の光属性の中でも百年に一度しか産まれない治癒魔法の持ち主"聖女"でもあり、国が繁栄していく希望でもある。王や国民すべての人にとって特別で大切な女性なのだ。
ガリオンはフランシスカがマリーに夢中なのは百も承知だったが、関係を止めようと思ったことはなかった。自分と話しているときでもマリーが見えれば視線がパッと移り変わるし、マリーがいかに優れているか、憧れの対象であるかもフランシスカに何度も何度も聞かされるから。自分がマリーに劣っていることは承知の上で、フランシスカと身体を重ね合わせていた。
唯一の取り柄が、彼の自尊心を後押ししていたからだ。
男であること。ガリオンは性別だけは、マリーには覆すことのできない自分の価値だと思っていた。
フランシスカがいくらマリーとひとつになりたいと願ったところで、同性同士は結婚できないし快楽を享受することが不可能だが、男であるガリオンならいとも容易くフランシスカを抱くことができる。彼女が望んだらいつだって、期待に応えることができるのだ。
ガリオンは彼女を誘った。
「聖女マリーともっと親しくなりたいんだろう? 俺と練習した方がいいよ。悦ばせ方を教えてあげる」
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