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第三部 異世界建築士と思い出の家

第294話:敷かれた道とプライドと

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「そう……いい覚悟ですね」

 ナリクァンさんの言葉に、思わず背筋が伸びる。

 ――覚悟。

 そうなのかもしれない。ただでさえ、獣人族ベスティリングの地位は、高いものではないのだ。

 その扱いは、さっきリトリィや瀧井さんが追っ払った(結局俺はなにもできなかった!)クソガキどもの態度を見れば、一目瞭然。
 門外街ならともかく、城内街の店などは、獣人専用の窓口を設けて中に入れないようにしている店舗もあるくらいだ。

 そのような扱いを受ける彼女を、妻に迎える。つまりその時点で、俺は顧客に振り分けられることになる。

 リトリィに対して特に何も思わない、もしくは腹に含むものはあってもビジネスとして割り切れる客か。
 それとも、獣人族がいる店舗など近寄りたくもないと考える輩か。
 その振り分けを、仕事以前の問題で行われてしまうのだ。

 ……だが、それがどうしたというのか。

「覚悟など、できていますよ」

 日本への帰還をあきらめ、彼女と一緒に、この世界で生きていくことを決意した、その時から。

 俺の言葉に、ナリクァンさんが予想通りだと言わんばかりにうなずき、しかしどこか冷めた目で、俺を見た。

「そうですか。ただ、その覚悟とやら、軽くとらえていらっしゃらないかと思いまして」
「……軽く、ですか?」
「ええ」

 黒服の男が、音もなく部屋に入ってくる。
 ナリクァンさんは、その男から何やらピンバッジのようなものを受け取った。

 テーブルにそれを置く。

「これを受け取ってくださる?」

 小さな、親指の爪ほどの大きさのものだった。金細工で、精緻な彫刻が彫り込まれている。

「これは?」
「私どもの商会の紋章ですわ。上着の襟にでも留めていただけるとありがたいのですけれど」
「……はい?」

 ナリクァン商会の紋章?
 それを、俺が?
 頭の中が、「?」で埋め尽くされてゆく。

「あら、難しいことを申し上げましたかしら?」

 首をかしげていた俺に、ナリクァンさんが笑った。

「特になにか、要求するようなことはございませんわ。それを身に着けているからと言って、特に便宜を図ってあげられるわけではありませんが、そのかわり、上納金の要求なども致しません」
「……はあ、では、これは何のために――」
「あなたが、ナリクァン商会の派閥の一人であることを、一目でわかるようにするためですわ」

 ……ちょっと待って?
 俺、大工ギルドの人間であって――あまりそんな自覚もないが――商人じゃないんだけど?

 ナリクァンさんは、そんな俺の戸惑いを最初から見越していたようだった。

「私は、私財とはいえ、我が商会の資産を使って、あなたのお嫁さんとなるお嬢さんを支援しました。この意味、分かりますね?」

 ナリクァンさんが仕立ててくださった、リトリィの婚礼衣装。しかも一度凱旋パレードで着たからといって、仕立て直してくださったのだ。
 もう、ナリクァンさんのお屋敷に足を向けて寝られない……とかいう程度の話ではないわけだな?
 ゴクリとつばを飲み込み、続きを待つ。

「あの子の幸せのためにも、あなたにはそれなりにお仕事ができてもらわないと困りますからね。
 あなたのお仕事は、今後、我が商会と一蓮托生――私を失望させることのないように……ね?」

 しばらく、声が出なかった。
 というよりも、空いた口が塞がらなかった。

 つまりあれだ、ナリクァンさんは、リトリィを任せるには不安だから、ナリクァングループに俺を取り込み、仕事を斡旋してやると、そう言っているのだ。

 なんだろう。リトリィと共に生きる、それを決意してから、信じられない幸運が向こうから転がってくるかのようだ。
 この話だってそうだ。強力なナリクァングループの傘下で事務所を運営すれば、おそらく営業努力は最小限で、その上で十分な仕事ができるに違いない。

 そんな俺の内心を見透かすように、ナリクァンさんが薄く笑う。

「あの子を幸せにする……あなたのその言葉に、誠意に、間違いはないのかもしれませんけれど。でも、そのためには先立つものが必要ですからね。
 ――悪いようにはしませんわ。ですもの」

 結局、建築事務所の何が大変って、需要は確かにあるけれど決して多くはない、「家を建てたい」というひとを発掘し、逃さないようにして、自分の事務所の顧客として囲い込むことだ。

 家を建てるなんていうのは、一生に何度もやることではない。だから、客も当然、自分の持てるリソースを最大限に生かしてくれそうな事務所に頼む。真剣な人ほどいくつも事務所をめぐって、その上で納得できるところに依頼するのだ。

 これが、たとえば積水〇ウスさんとか住友〇業さんとか、そういった業界大手ならば放っておいてもひとは来るだろう。
 だが、俺が勤めていた木村設計事務所のような零細は、例えば安さのような分かりやすいコンセプトを打ち出し、とにかくまずは話を聞いてもらうところからスタートしなければならない。

 そしてそもそも、俺は大工ギルドの新参で、しかもおそらくこの街ではただ一人の「建築士」という肩書。家を建てたいと思うひとたちの身になって考えれば、たとえばマレットさんのような実績のある大工に依頼しようと思うだろう。

 しかし、ナリクァン商会がバックについているとなれば、話は変わってくる。この街で大きな力――信用を背負ったナリクァン商会の傘下であるというなら、商会と懇意にしている人は、「じゃあ、まずは話だけでも聞いてみようか」となるはずだ。
 そこから先は俺の営業努力次第だとしても、顧客の動線が用意されるのはとてつもなく大きい。

「さあ、どうぞ。ようこそ、我らがナリクァン商会へ」

 ナリクァンさんが、あらためて、テーブルの上の紋章を指す。

 複雑な彫刻が刻まれた金の紋章。
 その威光を示すが如く輝くそれ。

 ああ、間違いのない成功への道。
 リトリィと共に至る幸せへの道。
 迷う理由なんてどこにもない道。

 その道に至るチャンスが、いま、目の前にある。

 ――だから、俺は。

「……ありがとうございます」

 その紋章を手に取る。
 小さく、ひんやりとした、だが、とてつもなく重みを感じる、それ。

 それを両手で持ち、
 そして、

「せっかくのお誘いですが、いまは預かっていてもらえませんか」

 ――ナリクァン夫人の手に、お返しした。

「……どういう意味かしら?」

 背後の黒服の男たちが、息を呑むのが分かる。
 ナリクァン夫人の目が、すうっと細くなった。
 閉じた扇の先で、口元を隠すようにしながら。

「どういう意味もありません。ただ、俺にとってこの紋章は、過分すぎる名誉なんです」
「過分などと――ただの所属を示すだけの紋章ですわよ?」
「……そうなのかもしれませんが、やはり、自分には特別な意味を持ちすぎてしまうので」

 ナリクァンさんの目が、俺をとらえたまま離さない。

「……ひとである以上、愚かな選択をしてしまうことも、時にはあるでしょう。ですがそれは、正されねばならないこともまた、ご存じですね?」
「愚かなのかもしれません。ですが、これは矜持の問題でもありまして」
「矜持……? 目の前の、約束された成功をみすみす投げ捨てることが、矜持?」

 ぞわぞわと背筋に冷たいものが走る。
 ナリクァン夫人は、この街のかなりの有力者だ。
 逆らうことは、とんでもない結果を招きかねないことくらい、理解はしている。
 理解しては、いるのだが。

「俺は、俺を信じてくれたリトリィに応えたいんです。成功を約束された道をただ歩くのではなく、リトリィが信じてくれた俺の力で、この街の片隅に、俺の居場所を作りたいんです」
「ご自身で居場所を作る? ……あなたの今の家は、暮らしは、誰が与えたものなのか、理解なさっておいでなのかしら?」
「ええ、もちろんです」

 誰が与えたか?
 そんなもの、ナリクァンさんだ。

 小屋の建て替え自体は、俺の設計とマレットさんたち大工集団の力によるものだ。
 だが、その出資者はナリクァンさんをはじめとした、例の炊き出しメンバーの奥様方。

 さらには、ただの集会所としての機能しかない小屋を住める家にするために、様々な家具を持ち込んだのも、奥様方。

 加えて言うと、家を建てるときに動員された大工達への報酬とは別に、俺個人への報酬――というか、リトリィとの生活費として、ナリクァンさんから多額の現金を渡されてもいる。

 ダメ押しが、リトリィの花嫁衣裳。あれ、相当に高額なものに違いない。

 要は、現状からして、すでにナリクァンさんに養われているようなものなのだ。
 それなのに独立自尊を気取るような態度をとれば、誰もがナリクァンさんと同じような反応をするだろう。

 だが、それでもだ。

「夫人には、どれほど感謝しても足りません。彼女と生きていく筋道をつけてくださったのですから。今の仕事も、あの炊き出しのお仲間のフィネスさんが伝手となっていますから、つまりは夫人のお力添えをいただいているようなものでしょう」
「そうであれば、受け取らない理由はないのではなくて?」
「そうだからこそ、です」

 俺は、ゆっくりと、言葉を紡ぐ。

「私は、リトリィと出会うまで、これほど自分に自信を持つことはできませんでした。彼女が私を信じて、支えてくれたから、この世界で、生きていくことを決意できました。
 そして、そんな半人前でしかない私に自身の未来を託し、共に生きていきたいと願ってくれたマイセルにも、私は、自分というものの価値を教えてもらいました。だから――」

 俺は、過呼吸でしびれてきた指先を、舌先を落ち着けるように、一度、深呼吸をする。

「――私を愛してくれる彼女たちの、その愛に応えるためにも、まずは自分の足で、しっかりとこの世界を踏みしめて、彼女たちと、共に生きていきたいんです」
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