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第三部 異世界建築士と思い出の家

第176話:お勉強

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「ムラタさん、おひさしぶりです!」

 思いっきり走って来た少女を、真正面から受け止める。

 この街の、建築に関する法規を調べるために通い始めた図書館からの帰り道。俺たちは、夕食の食材を求めて、市場で夕食の買い物をしていた。

 そんな俺たちを見つけたのは、マイセルだった。少し離れたところに、手を腰に当ててこちらを見ているハマーが見える。

 俺の胸に元気いっぱいに飛び込んできたマイセル。俺の隣にはリトリィがいるというのに、度胸のあることだ。

「ムラタさん、いま、お買い物ですか?」
「まあ……そんなところだ」
「お夕飯ですか? お姉さま、今日はどんなものを作るんですか?」

 急に話を振られたリトリィが、戸惑いつつも答えると、マイセルは目を輝かせ、俺から離れるとリトリィの手を取った。

「お姉さま、私もお手伝いに行っていいですか? 私も、お姉さまのお味を覚えたいです!」

 ぐいぐいと手を引っ張るマイセルに、困ったような笑顔を浮かべてこちらを見るリトリィ。やれやれ。

 勉強熱心なのはいいことだ。
 うん、それは間違いない。

 だが、花嫁候補が二人並んで俺のために食事を作る。
 うーん……なんだか、見てはいけない暗黒面が見えてしまいそうで、少し、遠慮願いたんだが。割と、まじで。

「……マイセルだって家の手伝いがあるだろう? お母さんだってマイセルの手伝いは当てにしているはずだ、連絡もなしに、それを放り出すのはどうかな?」

 俺の言葉に、マイセルが少々、残念そうな顔をする。

「わかりました……じゃあ――」

 とりあえずあきらめてくれたようで、内心、ほっとしながらリトリィを目を合わせたときだった。
 マイセルが何かに気づいたように、すぐに顔を輝かせてリトリィを見上げた。

「私、お母様にちゃんと話を通しますから、そのうち、必ずお夕飯のお手伝いに行きますね!」
「あ、いや、そういう意味で言ってるわけじゃ……」
「大丈夫です! お二人のお邪魔にならないように、お夕飯がすんだら私、すぐに帰りますから!」

 ……分かって言っているな、その口ぶりは。

「私、お姉さまのお味を覚えたいんです。ムラタさんは、お姉さまのお味を気に入られてるんでしょう? 私も、その味でお食事を作れるようになりたいから」
「――マイセル、母さんはともかく、父さんに文句を言われるぞ?」

 いつの間に追いついたのだろうか。ハマーのふてくされるような声に、マイセルが頬を膨らませる。

「だって、八日ぶりにムラタさんに会えたんだもん! もう現場も終わっちゃったし、何かご用事がないと、ムラタさんに会えないんだから」

 八日ぶり――言われて改めて気づくが、引っ越しが終わってから、もうそんなに経っていたのか。
 今の家に引っ越してすぐリトリィのが来て、しばらく家にこもって、二人で俺の字の練習にいそしんでいたから、たしかに外にはあまり出ていなかったのだが。

「お前は修業が終わったら、そい……ムラタさんのところに行くんだろ? そしたら嫌でも毎日顔を合わせるんだから、別にいいだろ」
「お兄ちゃんにとってはそうなのかもしれないけど、私はそういうわけにはいかないの!」

 なおも渋るマイセルの手を掴むと、ハマーは「すんません、こっちも買い物途中だったんで」と、彼女を引きずるようにして遠ざかってゆく。

「ちょっと――やだ! お兄ちゃん離してよ! もうちょっとムラタさんとお話する時間くらい――」

 ……ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、有無を言わさぬハマーの力強さに感謝をする。

 苦笑いをしながらリトリィを見ると、リトリィも苦笑いだった。
 俺の左腕に自分の腕を絡め、肩に頬を擦り付けてくるその姿に、マイセルとの接触は、彼女なりに緊張したのだということが分かる。
 リトリィ自身は一応、マイセルを受け入れる気持ちはあるようだが、いざ実際に、となると、やはり、割り切れない思いが首をもたげてくるのだろう。



 二人で法律の本を読み、必要に応じて写す作業。
 リトリィはこの土地の文字で、そして俺はリトリィが読み上げてくれた言葉――翻訳首輪が訳した日本語で書き写す。
 想像以上に疲れる作業だが、翻訳の作業そのものは翻訳首輪のおかげで苦労はない。

 お金も十分頂いたし、多少高かったとしても――なんなら一冊金貨一枚とかそういう値段だったとしても、建築法規に関する本を買おうかと思ったが、売っていなかった。
 悪用を防ぐために、法律の本は市販されていないのだという。どうしても欲しければ法務家になれ、とのこと。

 そんなわけで、リトリィの体調が戻るとすぐ、図書館通いが始まった。
 しかし、リトリィの負担が半端ない。
 リトリィが慣れない法律用語を読み上げ、それを二人で別々のノートに記入する。ページも、書く位置もそろえ、この国の言葉と日本語が対応するように、ノートを作っていく。

 どうしても翻訳しなければならないぶん、俺の方の文量が増えがちになるので、字は細かくなるし、彼女のノートとすり合わせながらの作業になる。面倒くさいし、つらい。

 そんな俺のストレスを察知し、緩和するためなのか、それとも彼女自身がストレスを解消するためなのか。
 ときどき彼女が指や尻尾を絡めたりしてくるたびに、互いに目配せし合い、そっと、目立たぬように互いに触れ合ったりする。

 だが、その触れ合いで我慢できなくなると、書庫の奥に行く。人目のつかぬ書庫の奥で口づけを交わしたりして、しばらく彼女の温もりを堪能したりする。

 そんなことを繰り返しているものだから、作業は何度も中断するし、そんな中途半端な触れ合いを重ねたぶんだけ、夜が激しくなるわけだ。

「……でも、やっぱり、ナリクァンさんにお願いして、本を買った方がいいのではないでしょうか」

 リトリィが、夕食のパンを俺に手渡しながら言った。

「図書館に毎日かよって二冊の本を作るより、ちゃんとした本を買って、その本を読めるようにした方が、ムラタさんのご負担が減ると思うのですけど……」
「まあ、それは思うんだけどな」

 大学入試に挑戦するとき――つい、何冊も参考書を買って、それで安心してしまい、結局あまり活用できなかったことを思い出す。

「……本を買ってしまうと、どうしても『あることで満足してしまう』ことになりかねなくてね。手間はかかるが、身に付く方法を考えたら、今の方がいいように思うんだよ」

 それに――と思う。
 図書館にいてさえ、あんな状態なのだ。
 家に閉じこもって二人きりで作業などしていたら、どうせ一日中、彼女と――。
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