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第一部 異世界建築士と獣人の少女

閑話③:幸せの黄色い……

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 引き出しの奥から出てきた、黄色いしみのついたハンカチ。

 古ぼけてはいるが、このしみは、単に古いから、というわけではなさそうだ。
 この刺繍の形は、彼女がまだ十代の頃の造形だろう。唐草と花を組み合わせるようにした、シンプルだが可愛らしい刺繍。
 しかし珍しいことがあるものだ、何事にも几帳面な彼女が、しみの残るハンカチをしまい込んでいるなんて。
 それとも、単に長い間忘れられた結果、何かの汚れがしみになったのだろうか。

「おーい、このハンカチ、しみがついているぞ。みっともないから、捨てるか、しみ抜きをするかしたらどうだ?」
「しみのついたハンカチ、ですか?」
「ああ、これだ、これ。まあ、だいぶ古いもののようだし、捨てておこうか?」

 庭で花を摘んでいた彼女にそのハンカチを見せると、彼女は傍目にもわかるほど総毛立ち、ものすごい勢いで駆け寄ってくると俺の手からひったくった。

「どっ……どこにあったものですか!?」
「いや? 通帳を探していて、この引き出しの奥から」
「そ、そんなところに……!?」
「ああ、奥の方から出てきたんだが、だいぶ古そうだな? そのしみも落ちるかどうか分からないし、捨ててしまったらどうだ」
「……ぜったいに、いやです!」

 彼女はそう言って、くんくんとハンカチの匂いを嗅ぎ、鼻に当てて深呼吸するようにする。

「おいおい、いつから引き出しに入っていたのか分からない代物だぞ? そんなことはやめなさい」

 めずらしく逆らってみせたと思ったらこの奇行。よほど思い入れのある品らしい。

「そんなに大事なものだったのか? じゃあ、ますますしみがあるのが惜しいな、しみ抜き専門の洗濯屋に持って行ってみるか?」
「だめです! ……これでいいんです」

 そういって、微笑む。
 ……だめだ、昔からだ。
 あの微笑みで、俺はいつもやられてしまう。

「分かった分かった、よほど深い思い入れがあるんだな。よかったら、聞かせてくれないか?」
「……ないしょです」
「なんだ、俺にも言えないことなのか?」

 ちょっと意地悪をしてみる。
 彼女は俺のことを愛してやまないことを、俺は理解している。
 だからこそだ。その愛している俺にも言えないとは、どういうことなのかと。

 しかし彼女は少し考えてみせたあと、

「……あなたが婿そうですから、やっぱり、ないしょです」

 そう笑ったのだった。


 ▼ ▽ ▼ ▽ ▼


 彼の汚れを拭っていると、やっぱりというか何というか、ご立派様が元気になられました。
 わたしの手で元気になってくださるのがとってもうれしくて、その様子をうかがっていると、彼は顔を覆って「もうお婿に行けない」などとおっしゃっていました。

 お婿に行く必要なんてないのに。もらってくださるって約束してくださったのだから。
 でも今から思えば、きっと、それが彼なりの冗談だったのだと思います。

 汚れた下着をもって階下におりていくと、兄さまがそこにいました。あの人が下りてくるのを待っているのでしょう。

「おい、随分と機嫌がいいみたいだけどな、それはアイツの下着だな? なんでおめぇがそんなもんを持っているんだ?」
「お洗濯するからです」
「はぁ? こんな真夜中に……ま、まさか、まさかおめぇ、もうアイツと……!!」

 目をお皿のように見開いて、口をあんぐり開けて。

 放っておいたら、またあの人を殴りに、約束を破ってお部屋に駆け込むかもしれません。せっかくあの人と、また一歩お近づきになれたのに。邪魔されてたまるもんですか。

「言っておきますが、お兄さま。あの人はそんなことをする方じゃありません。なんにもなかったです。……なんにも、してくださらなかったです!」
「だ、だったらなんで、よりにもよって今から下着の洗濯なんか……!」
「汚れたからです。それに、お召し物を一つしかお持ちでないですから。一応、下着については見よう見真似で作ってみましたけど、女のわたしが殿方に下着を贈るなんて、おいそれとできることではないですし」

 わたしの言葉に、兄さまは少しだけ落ち着きを取り戻して……そして、顔をしかめました。

「……なんでそんな敬語なんだよ? いつもみたいに呼べよ?」
「だって、兄弟子様ですから?」
「ここでは兄弟子じゃなくて兄妹きょうだいだろ!」
「知りません」

 つんとしてみせると、兄さまは顔をくしゃくしゃにして近寄ってきました。

「おい、アイツになにか、弱みでも握られてるのか? 最近お前、やたら落ち込んだり機嫌がよかったり、本当におかしいぞ」
「兄さまにそう見えるというなら、そうなのでしょうね。兄さまの中では」
「おい! 俺は真面目に、おめぇのことを心配してだな!」

 両肩を掴まれて揺さぶられて。兄さまがわたしを心配してくださってるのは十分に分かっているんですけど、わたしだってもう十九、本当なら仔がいてもおかしくない歳なのに。

「じゃあ、妹から、兄さまへのお願いです。
 ――いい加減、妹離れしてください。兄さまは、三兄弟で一番の知恵者です。いずれはこの工房を、その知恵で支えていく方です。わたしのことを大切に思ってくださるのはうれしいですが、わたしは女です。いずれ、どこかへ嫁いでいくかもしれない身なんです」
「い、いや、だったらお前が婿をとれば――」

『もうお婿に行けない』

 そう嘆く、あのかたの影が浮かびました。
 あのかたも、もうすこしご自身に自信をもたれたらいいのに。

「それがいけないと言っているんです。今後は、わたしなどいないものと思ってください」
「お、おい――」

 兄さまを置いて、私は外に出ました。
 さきほどより、空気が少し、冷たくなった気がします。

 誰もいないのを確かめると、そっと、下着を、鼻先に近づけます。
 海魚の干物のような匂いと――栗の花のような、つんとした青臭いにおい。

 あのかたの香り。

「……ふふ」

 これを洗ってしまわなければならないのは残念ですが、やはり汚れは汚れ。綺麗にしないと、家政を預かるものとして失格ですから。

 洗い物なら家の井戸でもいいのですが、せっかくだから、畑の井戸を使うことにしました。いま、あのかたががんばって、飲めるお水にしようとしている、あの井戸です。

 ふふ、ただの言い訳です。

「このにおいが、あのかたの……」

 頭がくらくらしてきます。体の奥が熱くなってくる、この感覚。

「ムラタ、さん……!!」



 ……半刻はもう、経って、しまったでしょうか。
 いくらなんでも下着一枚にかける時間ではないでしょう。綺麗にするどころか、まだ、なんにも手が付けられていません。

 それどころか、お預かりしたときとは違うしみまでつけてしまったかもしれないと思うと、大急ぎで洗わなきゃ――

「リトリィ!」

 突然名を呼ばれて、心臓が飛び出るかと思いました。走ってきたらしく、息が上がっているみたいでした。

「ム、ムラタさん……!」
「あんまりにも遅いからさ、何かあったのかと思って探しちゃったよ。それより、大丈夫だったか?」
「あ、ご、ごめんなさい、わたし……」
「いや、いいよ。それより、大丈夫? 洗濯物は、洗い終わった?」

 まだ、洗い終わっていない、というか、まだ水に浸してもいません――

 そんなこと言えるはずもなく、どうしたらいいかもじもじしていた私に、ムラタさんはニッコリ笑うと、

「綺麗な水で洗おうと思ってこっちに来たんだろ? リトリィにそう思ってもらえたのは嬉しいよ」

 私の思いを分かってくれて、すごく、すごくうれしく思いました。でも、

「でも、まだってことは、洗濯水でも忘れたのか? ドジだなあ」

 それはひどいです。ちゃんと灰を溶かした洗濯水くらい、持ってきました。
 でも、せっかく勘違いしてもらえたのですから、それに従うことにします。
 だって、洗うって言いながら、洗うどころか、むしろしみを増やしてしまいました、なんて言えるはずもありませんから。

 綺麗にしたばかりのお水を運ぼうとすると、ムラタさんが持ってくださいました。
 お家には、洗濯水を作るための灰を保管してある倉庫がありますから、そのお水に灰を溶かせば洗濯水の出来上がりです。
 それを使えば、ムラタさんの下着も綺麗になるでしょう。

 そうしたら、このにおいとも味とも、もう、お別れです。
 ううん、もうしばらくすれば、きっと、いつでも――

「そうだリトリィ、体調、良くないのか?」
「……はい? すこぶる元気です。どうしてそんなことを?」
「いや、井戸に向かうとき、なんかうめき声っていうか、唸り声っていうか、苦しそうな声が聞こえてきたからな。リトリィが苦しんでるって思って、それで走ってきたんだ」

 そ、それ……! まさか――

「最後には悲鳴みたいなのだったから、俺、心配したんだ。まあ、無事みたいだったからいいんだけど」

 き、聞かれてた? 声を……!?
 うそ、やだ――!

「……もう、お嫁にいけません……!」
「え? あ、おい、リトリィ! 急に走り出すなって、おい――!」


 ▼ ▽ ▼ ▽ ▼


「お嫁に行けない、か」

 あのしみのついたハンカチ。
 多分、に、を拭いてついたしみなんだろうな。
 今となっては遠い記憶の彼方のはずだが、まるで昨日のことのように甦ってくる。
 あいつ、あのときのハンカチ、洗っていなかったのか。
 しかも「それ」の臭いを、残ってはいないだろうが、本人の目の前でかいでみせるとか。

 ……やるなぁ。

 あの清楚で可憐だった彼女はどこへ行ってしまったのか。
 そう考えて、苦笑する。

 彼女が可憐なのは間違いない、今もそうだ。
 だが、清楚だったか?
 人柄は確かにそうだ。だが、行動はどうだ。
 むしろ、俺を籠絡するために、あれこれ必死だったと思う。ほぼ素っ裸で、男がそこにいると分かっている夜の屋敷前に出てくるとか、今のあいつなら死んでもやらないだろう。

 当時の俺も、よくもまあ、あそこまで鈍感だったものだ。モテないわけだ。
 そんな俺に、諦めずにずっと付いてきてくれた彼女には、感謝しかない。

「ふふ……」

 机の引き出しの中から出てきた、黄色いしみのついたハンカチは、二十七になってようやくやってきた、時に甘酸っぱく、そしてあまりにも苦かった日々の象徴なのかもしれない。あの出会いは、まさに運命だったのだろう。

 彼女と歩む道は、決して平坦ではなかった。愛すべき者も増え、寂しい思いもさせてしまった。しかし、共に歩むと決めたのは、俺自身だ。

 だが、いかに好奇の視線にさらされようと、侮蔑の目に苛まれようと、彼女は俺の、最も愛するだ。彼女と共に生きる日々が、いつか次の、またその次の世代を変えると信じて。

 今までの日々に、そしてこれからの日々に、ただ、感謝だ。
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