51 / 329
第一部 異世界建築士と獣人の少女
閑話③:幸せの黄色い……
しおりを挟む
引き出しの奥から出てきた、黄色いしみのついたハンカチ。
古ぼけてはいるが、このしみは、単に古いから、というわけではなさそうだ。
この刺繍の形は、彼女がまだ十代の頃の造形だろう。唐草と花を組み合わせるようにした、シンプルだが可愛らしい刺繍。
しかし珍しいことがあるものだ、何事にも几帳面な彼女が、しみの残るハンカチをしまい込んでいるなんて。
それとも、単に長い間忘れられた結果、何かの汚れがしみになったのだろうか。
「おーい、このハンカチ、しみがついているぞ。みっともないから、捨てるか、しみ抜きをするかしたらどうだ?」
「しみのついたハンカチ、ですか?」
「ああ、これだ、これ。まあ、だいぶ古いもののようだし、捨てておこうか?」
庭で花を摘んでいた彼女にそのハンカチを見せると、彼女は傍目にもわかるほど総毛立ち、ものすごい勢いで駆け寄ってくると俺の手からひったくった。
「どっ……どこにあったものですか!?」
「いや? 通帳を探していて、この引き出しの奥から」
「そ、そんなところに……!?」
「ああ、奥の方から出てきたんだが、だいぶ古そうだな? そのしみも落ちるかどうか分からないし、捨ててしまったらどうだ」
「……ぜったいに、いやです!」
彼女はそう言って、くんくんとハンカチの匂いを嗅ぎ、鼻に当てて深呼吸するようにする。
「おいおい、いつから引き出しに入っていたのか分からない代物だぞ? そんなことはやめなさい」
めずらしく逆らってみせたと思ったらこの奇行。よほど思い入れのある品らしい。
「そんなに大事なものだったのか? じゃあ、ますますしみがあるのが惜しいな、しみ抜き専門の洗濯屋に持って行ってみるか?」
「だめです! ……これでいいんです」
そういって、微笑む。
……だめだ、昔からだ。
あの微笑みで、俺はいつもやられてしまう。
「分かった分かった、よほど深い思い入れがあるんだな。よかったら、聞かせてくれないか?」
「……ないしょです」
「なんだ、俺にも言えないことなのか?」
ちょっと意地悪をしてみる。
彼女は俺のことを愛してやまないことを、俺は理解している。
だからこそだ。その愛している俺にも言えないとは、どういうことなのかと。
しかし彼女は少し考えてみせたあと、
「……あなたがお婿にいけなくなるそうですから、やっぱり、ないしょです」
そう笑ったのだった。
▼ ▽ ▼ ▽ ▼
彼の汚れを拭っていると、やっぱりというか何というか、ご立派様が元気になられました。
わたしの手で元気になってくださるのがとってもうれしくて、その様子をうかがっていると、彼は顔を覆って「もうお婿に行けない」などとおっしゃっていました。
お婿に行く必要なんてないのに。もらってくださるって約束してくださったのだから。
でも今から思えば、きっと、それが彼なりの冗談だったのだと思います。
汚れた下着をもって階下におりていくと、兄さまがそこにいました。あの人が下りてくるのを待っているのでしょう。
「おい、随分と機嫌がいいみたいだけどな、それはアイツの下着だな? なんでおめぇがそんなもんを持っているんだ?」
「お洗濯するからです」
「はぁ? こんな真夜中に……ま、まさか、まさかおめぇ、もうアイツと……!!」
目をお皿のように見開いて、口をあんぐり開けて。
放っておいたら、またあの人を殴りに、約束を破ってお部屋に駆け込むかもしれません。せっかくあの人と、また一歩お近づきになれたのに。邪魔されてたまるもんですか。
「言っておきますが、お兄さま。あの人はそんなことをする方じゃありません。なんにもなかったです。……なんにも、してくださらなかったです!」
「だ、だったらなんで、よりにもよって今から下着の洗濯なんか……!」
「汚れたからです。それに、お召し物を一つしかお持ちでないですから。一応、下着については見よう見真似で作ってみましたけど、女のわたしが殿方に下着を贈るなんて、おいそれとできることではないですし」
わたしの言葉に、兄さまは少しだけ落ち着きを取り戻して……そして、顔をしかめました。
「……なんでそんな敬語なんだよ? いつもみたいに呼べよ?」
「だって、兄弟子様ですから?」
「ここでは兄弟子じゃなくて兄妹だろ!」
「知りません」
つんとしてみせると、兄さまは顔をくしゃくしゃにして近寄ってきました。
「おい、アイツになにか、弱みでも握られてるのか? 最近お前、やたら落ち込んだり機嫌がよかったり、本当におかしいぞ」
「兄さまにそう見えるというなら、そうなのでしょうね。兄さまの中では」
「おい! 俺は真面目に、おめぇのことを心配してだな!」
両肩を掴まれて揺さぶられて。兄さまがわたしを心配してくださってるのは十分に分かっているんですけど、わたしだってもう十九、本当なら仔がいてもおかしくない歳なのに。
「じゃあ、妹から、兄さまへのお願いです。
――いい加減、妹離れしてください。兄さまは、三兄弟で一番の知恵者です。いずれはこの工房を、その知恵で支えていく方です。わたしのことを大切に思ってくださるのはうれしいですが、わたしは女です。いずれ、どこかへ嫁いでいくかもしれない身なんです」
「い、いや、だったらお前が婿をとれば――」
『もうお婿に行けない』
そう嘆く、あのかたの影が浮かびました。
あのかたも、もうすこしご自身に自信をもたれたらいいのに。
「それがいけないと言っているんです。今後は、わたしなどいないものと思ってください」
「お、おい――」
兄さまを置いて、私は外に出ました。
さきほどより、空気が少し、冷たくなった気がします。
誰もいないのを確かめると、そっと、下着を、鼻先に近づけます。
海魚の干物のような匂いと――栗の花のような、つんとした青臭いにおい。
あのかたの香り。
「……ふふ」
これを洗ってしまわなければならないのは残念ですが、やはり汚れは汚れ。綺麗にしないと、家政を預かるものとして失格ですから。
洗い物なら家の井戸でもいいのですが、せっかくだから、畑の井戸を使うことにしました。いま、あのかたががんばって、飲めるお水にしようとしている、あの井戸です。
ふふ、ただの言い訳です。
「このにおいが、あのかたの……」
頭がくらくらしてきます。体の奥が熱くなってくる、この感覚。
「ムラタ、さん……!!」
……半刻はもう、経って、しまったでしょうか。
いくらなんでも下着一枚にかける時間ではないでしょう。綺麗にするどころか、まだ、なんにも手が付けられていません。
それどころか、お預かりしたときとは違うしみまでつけてしまったかもしれないと思うと、大急ぎで洗わなきゃ――
「リトリィ!」
突然名を呼ばれて、心臓が飛び出るかと思いました。走ってきたらしく、息が上がっているみたいでした。
「ム、ムラタさん……!」
「あんまりにも遅いからさ、何かあったのかと思って探しちゃったよ。それより、大丈夫だったか?」
「あ、ご、ごめんなさい、わたし……」
「いや、いいよ。それより、大丈夫? 洗濯物は、洗い終わった?」
まだ、洗い終わっていない、というか、まだ水に浸してもいません――
そんなこと言えるはずもなく、どうしたらいいかもじもじしていた私に、ムラタさんはニッコリ笑うと、
「綺麗な水で洗おうと思ってこっちに来たんだろ? リトリィにそう思ってもらえたのは嬉しいよ」
私の思いを分かってくれて、すごく、すごくうれしく思いました。でも、
「でも、まだってことは、洗濯水でも忘れたのか? ドジだなあ」
それはひどいです。ちゃんと灰を溶かした洗濯水くらい、持ってきました。
でも、せっかく勘違いしてもらえたのですから、それに従うことにします。
だって、洗うって言いながら、洗うどころか、むしろしみを増やしてしまいました、なんて言えるはずもありませんから。
綺麗にしたばかりのお水を運ぼうとすると、ムラタさんが持ってくださいました。
お家には、洗濯水を作るための灰を保管してある倉庫がありますから、そのお水に灰を溶かせば洗濯水の出来上がりです。
それを使えば、ムラタさんの下着も綺麗になるでしょう。
そうしたら、このにおいとも味とも、もう、お別れです。
ううん、もうしばらくすれば、きっと、いつでも――
「そうだリトリィ、体調、良くないのか?」
「……はい? すこぶる元気です。どうしてそんなことを?」
「いや、井戸に向かうとき、なんかうめき声っていうか、唸り声っていうか、苦しそうな声が聞こえてきたからな。リトリィが苦しんでるって思って、それで走ってきたんだ」
そ、それ……! まさか――
「最後には悲鳴みたいなのだったから、俺、心配したんだ。まあ、無事みたいだったからいいんだけど」
き、聞かれてた? あの声を……!?
うそ、やだ――!
「……もう、お嫁にいけません……!」
「え? あ、おい、リトリィ! 急に走り出すなって、おい――!」
▼ ▽ ▼ ▽ ▼
「お嫁に行けない、か」
あのしみのついたハンカチ。
多分、あのときに、俺のを拭いてついたしみなんだろうな。
今となっては遠い記憶の彼方のはずだが、まるで昨日のことのように甦ってくる。
あいつ、あのときのハンカチ、洗っていなかったのか。
しかも「それ」の臭いを、残ってはいないだろうが、本人の目の前でかいでみせるとか。
……やるなぁ。
あの清楚で可憐だった彼女はどこへ行ってしまったのか。
そう考えて、苦笑する。
彼女が可憐なのは間違いない、今もそうだ。
だが、清楚だったか?
人柄は確かにそうだ。だが、行動はどうだ。
むしろ、俺を籠絡するために、あれこれ必死だったと思う。ほぼ素っ裸で、男がそこにいると分かっている夜の屋敷前に出てくるとか、今のあいつなら死んでもやらないだろう。
当時の俺も、よくもまあ、あそこまで鈍感だったものだ。モテないわけだ。
そんな俺に、諦めずにずっと付いてきてくれた彼女には、感謝しかない。
「ふふ……」
机の引き出しの中から出てきた、黄色いしみのついたハンカチは、二十七になってようやくやってきた、時に甘酸っぱく、そしてあまりにも苦かった日々の象徴なのかもしれない。あの出会いは、まさに運命だったのだろう。
彼女と歩む道は、決して平坦ではなかった。愛すべき者も増え、寂しい思いもさせてしまった。しかし、共に歩むと決めたのは、俺自身だ。
だが、いかに好奇の視線にさらされようと、侮蔑の目に苛まれようと、彼女は俺の、最も愛するひとだ。彼女と共に生きる日々が、いつか次の、またその次の世代を変えると信じて。
今までの日々に、そしてこれからの日々に、ただ、感謝だ。
古ぼけてはいるが、このしみは、単に古いから、というわけではなさそうだ。
この刺繍の形は、彼女がまだ十代の頃の造形だろう。唐草と花を組み合わせるようにした、シンプルだが可愛らしい刺繍。
しかし珍しいことがあるものだ、何事にも几帳面な彼女が、しみの残るハンカチをしまい込んでいるなんて。
それとも、単に長い間忘れられた結果、何かの汚れがしみになったのだろうか。
「おーい、このハンカチ、しみがついているぞ。みっともないから、捨てるか、しみ抜きをするかしたらどうだ?」
「しみのついたハンカチ、ですか?」
「ああ、これだ、これ。まあ、だいぶ古いもののようだし、捨てておこうか?」
庭で花を摘んでいた彼女にそのハンカチを見せると、彼女は傍目にもわかるほど総毛立ち、ものすごい勢いで駆け寄ってくると俺の手からひったくった。
「どっ……どこにあったものですか!?」
「いや? 通帳を探していて、この引き出しの奥から」
「そ、そんなところに……!?」
「ああ、奥の方から出てきたんだが、だいぶ古そうだな? そのしみも落ちるかどうか分からないし、捨ててしまったらどうだ」
「……ぜったいに、いやです!」
彼女はそう言って、くんくんとハンカチの匂いを嗅ぎ、鼻に当てて深呼吸するようにする。
「おいおい、いつから引き出しに入っていたのか分からない代物だぞ? そんなことはやめなさい」
めずらしく逆らってみせたと思ったらこの奇行。よほど思い入れのある品らしい。
「そんなに大事なものだったのか? じゃあ、ますますしみがあるのが惜しいな、しみ抜き専門の洗濯屋に持って行ってみるか?」
「だめです! ……これでいいんです」
そういって、微笑む。
……だめだ、昔からだ。
あの微笑みで、俺はいつもやられてしまう。
「分かった分かった、よほど深い思い入れがあるんだな。よかったら、聞かせてくれないか?」
「……ないしょです」
「なんだ、俺にも言えないことなのか?」
ちょっと意地悪をしてみる。
彼女は俺のことを愛してやまないことを、俺は理解している。
だからこそだ。その愛している俺にも言えないとは、どういうことなのかと。
しかし彼女は少し考えてみせたあと、
「……あなたがお婿にいけなくなるそうですから、やっぱり、ないしょです」
そう笑ったのだった。
▼ ▽ ▼ ▽ ▼
彼の汚れを拭っていると、やっぱりというか何というか、ご立派様が元気になられました。
わたしの手で元気になってくださるのがとってもうれしくて、その様子をうかがっていると、彼は顔を覆って「もうお婿に行けない」などとおっしゃっていました。
お婿に行く必要なんてないのに。もらってくださるって約束してくださったのだから。
でも今から思えば、きっと、それが彼なりの冗談だったのだと思います。
汚れた下着をもって階下におりていくと、兄さまがそこにいました。あの人が下りてくるのを待っているのでしょう。
「おい、随分と機嫌がいいみたいだけどな、それはアイツの下着だな? なんでおめぇがそんなもんを持っているんだ?」
「お洗濯するからです」
「はぁ? こんな真夜中に……ま、まさか、まさかおめぇ、もうアイツと……!!」
目をお皿のように見開いて、口をあんぐり開けて。
放っておいたら、またあの人を殴りに、約束を破ってお部屋に駆け込むかもしれません。せっかくあの人と、また一歩お近づきになれたのに。邪魔されてたまるもんですか。
「言っておきますが、お兄さま。あの人はそんなことをする方じゃありません。なんにもなかったです。……なんにも、してくださらなかったです!」
「だ、だったらなんで、よりにもよって今から下着の洗濯なんか……!」
「汚れたからです。それに、お召し物を一つしかお持ちでないですから。一応、下着については見よう見真似で作ってみましたけど、女のわたしが殿方に下着を贈るなんて、おいそれとできることではないですし」
わたしの言葉に、兄さまは少しだけ落ち着きを取り戻して……そして、顔をしかめました。
「……なんでそんな敬語なんだよ? いつもみたいに呼べよ?」
「だって、兄弟子様ですから?」
「ここでは兄弟子じゃなくて兄妹だろ!」
「知りません」
つんとしてみせると、兄さまは顔をくしゃくしゃにして近寄ってきました。
「おい、アイツになにか、弱みでも握られてるのか? 最近お前、やたら落ち込んだり機嫌がよかったり、本当におかしいぞ」
「兄さまにそう見えるというなら、そうなのでしょうね。兄さまの中では」
「おい! 俺は真面目に、おめぇのことを心配してだな!」
両肩を掴まれて揺さぶられて。兄さまがわたしを心配してくださってるのは十分に分かっているんですけど、わたしだってもう十九、本当なら仔がいてもおかしくない歳なのに。
「じゃあ、妹から、兄さまへのお願いです。
――いい加減、妹離れしてください。兄さまは、三兄弟で一番の知恵者です。いずれはこの工房を、その知恵で支えていく方です。わたしのことを大切に思ってくださるのはうれしいですが、わたしは女です。いずれ、どこかへ嫁いでいくかもしれない身なんです」
「い、いや、だったらお前が婿をとれば――」
『もうお婿に行けない』
そう嘆く、あのかたの影が浮かびました。
あのかたも、もうすこしご自身に自信をもたれたらいいのに。
「それがいけないと言っているんです。今後は、わたしなどいないものと思ってください」
「お、おい――」
兄さまを置いて、私は外に出ました。
さきほどより、空気が少し、冷たくなった気がします。
誰もいないのを確かめると、そっと、下着を、鼻先に近づけます。
海魚の干物のような匂いと――栗の花のような、つんとした青臭いにおい。
あのかたの香り。
「……ふふ」
これを洗ってしまわなければならないのは残念ですが、やはり汚れは汚れ。綺麗にしないと、家政を預かるものとして失格ですから。
洗い物なら家の井戸でもいいのですが、せっかくだから、畑の井戸を使うことにしました。いま、あのかたががんばって、飲めるお水にしようとしている、あの井戸です。
ふふ、ただの言い訳です。
「このにおいが、あのかたの……」
頭がくらくらしてきます。体の奥が熱くなってくる、この感覚。
「ムラタ、さん……!!」
……半刻はもう、経って、しまったでしょうか。
いくらなんでも下着一枚にかける時間ではないでしょう。綺麗にするどころか、まだ、なんにも手が付けられていません。
それどころか、お預かりしたときとは違うしみまでつけてしまったかもしれないと思うと、大急ぎで洗わなきゃ――
「リトリィ!」
突然名を呼ばれて、心臓が飛び出るかと思いました。走ってきたらしく、息が上がっているみたいでした。
「ム、ムラタさん……!」
「あんまりにも遅いからさ、何かあったのかと思って探しちゃったよ。それより、大丈夫だったか?」
「あ、ご、ごめんなさい、わたし……」
「いや、いいよ。それより、大丈夫? 洗濯物は、洗い終わった?」
まだ、洗い終わっていない、というか、まだ水に浸してもいません――
そんなこと言えるはずもなく、どうしたらいいかもじもじしていた私に、ムラタさんはニッコリ笑うと、
「綺麗な水で洗おうと思ってこっちに来たんだろ? リトリィにそう思ってもらえたのは嬉しいよ」
私の思いを分かってくれて、すごく、すごくうれしく思いました。でも、
「でも、まだってことは、洗濯水でも忘れたのか? ドジだなあ」
それはひどいです。ちゃんと灰を溶かした洗濯水くらい、持ってきました。
でも、せっかく勘違いしてもらえたのですから、それに従うことにします。
だって、洗うって言いながら、洗うどころか、むしろしみを増やしてしまいました、なんて言えるはずもありませんから。
綺麗にしたばかりのお水を運ぼうとすると、ムラタさんが持ってくださいました。
お家には、洗濯水を作るための灰を保管してある倉庫がありますから、そのお水に灰を溶かせば洗濯水の出来上がりです。
それを使えば、ムラタさんの下着も綺麗になるでしょう。
そうしたら、このにおいとも味とも、もう、お別れです。
ううん、もうしばらくすれば、きっと、いつでも――
「そうだリトリィ、体調、良くないのか?」
「……はい? すこぶる元気です。どうしてそんなことを?」
「いや、井戸に向かうとき、なんかうめき声っていうか、唸り声っていうか、苦しそうな声が聞こえてきたからな。リトリィが苦しんでるって思って、それで走ってきたんだ」
そ、それ……! まさか――
「最後には悲鳴みたいなのだったから、俺、心配したんだ。まあ、無事みたいだったからいいんだけど」
き、聞かれてた? あの声を……!?
うそ、やだ――!
「……もう、お嫁にいけません……!」
「え? あ、おい、リトリィ! 急に走り出すなって、おい――!」
▼ ▽ ▼ ▽ ▼
「お嫁に行けない、か」
あのしみのついたハンカチ。
多分、あのときに、俺のを拭いてついたしみなんだろうな。
今となっては遠い記憶の彼方のはずだが、まるで昨日のことのように甦ってくる。
あいつ、あのときのハンカチ、洗っていなかったのか。
しかも「それ」の臭いを、残ってはいないだろうが、本人の目の前でかいでみせるとか。
……やるなぁ。
あの清楚で可憐だった彼女はどこへ行ってしまったのか。
そう考えて、苦笑する。
彼女が可憐なのは間違いない、今もそうだ。
だが、清楚だったか?
人柄は確かにそうだ。だが、行動はどうだ。
むしろ、俺を籠絡するために、あれこれ必死だったと思う。ほぼ素っ裸で、男がそこにいると分かっている夜の屋敷前に出てくるとか、今のあいつなら死んでもやらないだろう。
当時の俺も、よくもまあ、あそこまで鈍感だったものだ。モテないわけだ。
そんな俺に、諦めずにずっと付いてきてくれた彼女には、感謝しかない。
「ふふ……」
机の引き出しの中から出てきた、黄色いしみのついたハンカチは、二十七になってようやくやってきた、時に甘酸っぱく、そしてあまりにも苦かった日々の象徴なのかもしれない。あの出会いは、まさに運命だったのだろう。
彼女と歩む道は、決して平坦ではなかった。愛すべき者も増え、寂しい思いもさせてしまった。しかし、共に歩むと決めたのは、俺自身だ。
だが、いかに好奇の視線にさらされようと、侮蔑の目に苛まれようと、彼女は俺の、最も愛するひとだ。彼女と共に生きる日々が、いつか次の、またその次の世代を変えると信じて。
今までの日々に、そしてこれからの日々に、ただ、感謝だ。
0
お気に入りに追加
31
あなたにおすすめの小説
[完結]「君を愛することはない」と言われた私ですが、嫁いできた私には旦那様の愛は必要ありませんっ!
青空一夏
恋愛
私はエメラルド・アドリオン男爵令嬢。お父様は元SS級冒険者で魔石と貴石がでる鉱山を複数所有し、私も魔石を利用した魔道具の開発に携わっている。実のところ、私は転生者で元いた世界は日本という国だった。新婚の夫である刀夢(トム)に大通りに突き飛ばされ、トラックに轢かれて亡くなってしまったのよ。気づけばゴージャスな子供部屋に寝かされていた。そんな私が18歳になった頃、お父様から突然エリアス侯爵家に嫁げと言われる。エリアス侯爵家は先代の事業の失敗で没落寸前だった。私はお父様からある任務を任せられたのよ。
前世の知識を元に、嫁ぎ先の料理長と一緒にお料理を作ったり、調味料を開発したり、使用人達を再教育したりと、忙しいながらも楽しい日々を送り始めた私。前世の夫であった刀夢がイケメンだったこともあり、素晴らしく美しいエリアス侯爵は苦手よ。だから、旦那様の愛は必要ありませんっ!これは転生者の杏ことエメラルドが、前世の知識を生かして活躍するラブコメディーです。
※現実ではない異世界が舞台です。
※ファンタジー要素が強めのラブコメディーです。
※いつものゆるふわ設定かもしれません。ご都合主義な点はお許しください🙇♀️
※表紙はヒロインのエメラルドのイメージイラストです。作者作成AIイラストです。
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
【完結】愛したあなたは本当に愛する人と幸せになって下さい
高瀬船
恋愛
伯爵家のティアーリア・クランディアは公爵家嫡男、クライヴ・ディー・アウサンドラと婚約秒読みの段階であった。
だが、ティアーリアはある日クライヴと彼の従者二人が話している所に出くわし、聞いてしまう。
クライヴが本当に婚約したかったのはティアーリアの妹のラティリナであったと。
ショックを受けるティアーリアだったが、愛する彼の為自分は身を引く事を決意した。
【誤字脱字のご報告ありがとうございます!小っ恥ずかしい誤字のご報告ありがとうございます!個別にご返信出来ておらず申し訳ございません( •́ •̀ )】
【完結】「聖女として召喚された女子高生、イケメン王子に散々利用されて捨てられる。傷心の彼女を拾ってくれたのは心優しい木こりでした」
まほりろ
恋愛
聖女として召喚された女子高生は、王子との結婚を餌に修行と瘴気の浄化作業に青春の全てを捧げる。
だが瘴気の浄化作業が終わると王子は彼女をあっさりと捨て、若い女に乗
り換えた。
「この世界じゃ十九歳を過ぎて独り身の女は行き遅れなんだよ!」
聖女は「青春返せーー!」と叫ぶがあとの祭り……。
そんな彼女を哀れんだ神が彼女を元の世界に戻したのだが……。
「神様登場遅すぎ! 余計なことしないでよ!」
※無断転載を禁止します。
※朗読動画の無断配信も禁止します。
※他サイトにも投稿しています。
※カクヨム版やpixiv版とは多少ラストが違います。
※小説家になろう版にラスト部分を加筆した物です。
※二章に王子と自称神様へのざまぁがあります。
※二章はアルファポリス先行投稿です!
※表紙素材はあぐりりんこ様よりお借りしております。
「Copyright(C)2022-九頭竜坂まほろん」
※小説家になろうにて、2022/12/14、異世界転生/転移・恋愛・日間ランキング2位まで上がりました! ありがとうございます!
※感想で続編を望む声を頂いたので、続編の投稿を始めました!2022/12/17
※アルファポリス、12/15総合98位、12/15恋愛65位、12/13女性向けホット36位まで上がりました。ありがとうございました。
記憶喪失の転生幼女、ギルドで保護されたら最強冒険者に溺愛される
マー子
ファンタジー
ある日魔の森で異常が見られ、調査に来ていた冒険者ルーク。
そこで木の影で眠る幼女を見つけた。
自分の名前しか記憶がなく、両親やこの国の事も知らないというアイリは、冒険者ギルドで保護されることに。
実はある事情で記憶を失って転生した幼女だけど、異世界で最強冒険者に溺愛されて、第二の人生楽しんでいきます。
・初のファンタジー物です
・ある程度内容纏まってからの更新になる為、進みは遅めになると思います
・長編予定ですが、最後まで気力が持たない場合は短編になるかもしれません⋯
どうか温かく見守ってください♪
☆感謝☆
HOTランキング1位になりました。偏にご覧下さる皆様のお陰です。この場を借りて、感謝の気持ちを⋯
そしてなんと、人気ランキングの方にもちゃっかり載っておりました。
本当にありがとうございます!
令嬢は大公に溺愛され過ぎている。
ユウ
恋愛
婚約者を妹に奪われた伯爵家令嬢のアレーシャ。
我儘で世間知らずの義妹は何もかも姉から奪い婚約者までも奪ってしまった。
侯爵家は見目麗しく華やかな妹を望み捨てられてしまう。
そんな中宮廷では英雄と謳われた大公殿下のお妃選びが囁かれる。
旦那様が多すぎて困っています!? 〜逆ハー異世界ラブコメ〜
ことりとりとん
恋愛
男女比8:1の逆ハーレム異世界に転移してしまった女子大生・大森泉
転移早々旦那さんが6人もできて、しかも魔力無限チートがあると教えられて!?
のんびりまったり暮らしたいのにいつの間にか国を救うハメになりました……
イケメン山盛りの逆ハーです
前半はラブラブまったりの予定。後半で主人公が頑張ります
小説家になろう、カクヨムに転載しています
〖完結〗幼馴染みの王女様の方が大切な婚約者は要らない。愛してる? もう興味ありません。
藍川みいな
恋愛
婚約者のカイン様は、婚約者の私よりも幼馴染みのクリスティ王女殿下ばかりを優先する。
何度も約束を破られ、彼と過ごせる時間は全くなかった。約束を破る理由はいつだって、「クリスティが……」だ。
同じ学園に通っているのに、私はまるで他人のよう。毎日毎日、二人の仲のいい姿を見せられ、苦しんでいることさえ彼は気付かない。
もうやめる。
カイン様との婚約は解消する。
でもなぜか、別れを告げたのに彼が付きまとってくる。
愛してる? 私はもう、あなたに興味はありません!
設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
沢山の感想ありがとうございます。返信出来ず、申し訳ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる