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第30話:勅使院使の下向と上洛

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 徳川家基の死は誰にとっても青天の霹靂でした。
 一橋と薩摩の暗躍を叩き潰して命を護ったのです。
 実際に命を狙われてからは、家基も本気で身の回りに気をつけていたそうです。
 例え御典医が出した薬であろうと、毒見役が安全を確かめた薬しか飲まないようになっていたそうです。

 家基が死んだ日の行動を聞かされたのですが、朝廷に献上する鶴を狩るために、千住三河島筋に鶴御成りしていたそうです。
 供の者達は御先番、御供番、隅田川組番などに分かれて、事前に十分な準備を行ったうえに、その日も万全の警護を整えて狩りを行ったそうです。
 オランダから輸入したペルシャ馬に騎乗した徳川家基は、終始御機嫌だったそうですが、自ら放った矢が鶴に命中した際に、急に胸を押さえて落馬してしまったそうです。

 幸い馬に蹴られるような事はなかったそうなのですが、昏倒したまま目を醒まさなかったそうです。
 一番近くの農家に運び込まれて、付き添っていた御典医が懸命の治療をしたそうですが、その甲斐無く意識が戻る事はなかったそうです。

 正直私がその場にいれば、助けられたかもしれないと思いました。
 人工呼吸と心臓マッサージを行えば、蘇生出来たかもしれません。
 御典医達に人工呼吸と心臓マッサージを教えておけばよかったとも思いましたが、後で悔やんでも仕方がない事です。
 それに徳川家基に関しては、この世界に来る前とは違って全く思い入れがなくなっています。

「神使様の御力で、大納言様を蘇らせて頂けないでしょうか」

 疱瘡を恐れて私に近づかなくなっていた田沼意次が、徳川家治の命を受けて、老体に鞭打って芝高輪まで馬を駆って来ました。
 その必死の表情は、家基の事などどうでもいい、と思うようになった私でさえ、心動かされそうになるくらい真摯でした。
 しかしどれほど頼まれても、偽神使に死んだ者を蘇らせる事などできません。

「たとえ神仏であろうと、死者を蘇らせることが出来ないのは、神話でも伝えられている事ではありませんか。
 天下の将軍家や老中が口にしていい事ではありませんよ」

 私がそう言って突き放すと、田沼意次も最初から不可能だと分かっていたのでしょう、もうそれ以上は何も言いませんでした。
 もし将軍位を継ぐ者が家基しかいなければ、徳川家治が乱心してしまって、無理矢理江戸城に連行されていたかもしれません。
 軟禁されて、家基を蘇らせろと責められていたかもしれません。

「それよりは和子様達の事を考えるべきではありませんか。
 私の助言通り、白粉を使えなかった貧しい者達を乳母にしていますか。
 折角授かった和子を死なせるような事があれば、愚か極まりないですよ。
 私が神仏の世界に帰れないくらいの御告げをしたのに、それを全て無駄にしてしまっら、それこそ神仏の加護を失うことになりますよ」

 これ以上纏わりつかれるのは嫌なので、大嘘をついてやりました。

「承りました、急ぎ使いの者を送って大和守を登城させ、上様に御裁可して頂きますので、どうか御見捨てなきよう御願い申し上げ奉ります」

 田沼意次も必死です。
 一橋を滅ぼして薩摩に厳しい罰を与えた事で、もうこれ以上子作りを望まない徳川家治を宥めすかして、子作りさせていたのです。
 その甲斐があって、家治は二人の男児を授かりましたが、将軍家の乳幼児死亡率は信じられないくらい高いのです。
 私のアドバイスに従ったとしても、そう簡単に乳幼児死亡率を下げられるとは限らないのです。

 何故なら清水重好も三人の男児を授かっているのです。
 清水重好が一橋治済のようにならないとは言い切れないのです。
 清水重好が善良なままでも、男児の縁戚が将軍位に眼が眩み、徳川家治の子供を殺そうとする可能性があるのです。

「主殿頭殿を見捨てるような事はありません。
 ですが、私が見捨てなくても、主神様が見捨てられるかもしれません。
 まずはやるべき事をやってください。
 それと、私が伏見稲荷大社に行くことを邪魔しないでください」

 私は元の世界に戻りたいのです。
 その為なら嘘だってつきます。
 もう私にやれることはやりました。
 祖父と父の理想を、この世界である程度は進められたと思います。
 恥じる事無く元の世界に戻れます。

「承りました。
 上様には私から御話しさせていただきます」

 田沼意次はそう言ってくれましたが、家基を亡くした徳川家治の恐怖心は、寵愛する田沼意次の言葉も聞き入れない程になっていたようです。
 何が何でも私に奥医師の役目をさせようとしたのです。
 私の助言に従って授かった子供達を、何としても死なせたくないのでしょう。
 私に疱瘡の病に携わる事を禁止したうえに、全く疱瘡と係わっていない、別の屋敷に移動するように命じたのです。

 その移動に携わる警護役の家臣達も、厳しく選ばれました。
 出来るだけ疱瘡に罹った事のある者、痘痕のある者が選ばれたのです。
 その為なら当主交代や別家を立てる事までやってのけたのです。
 徳川家治は、出来るだけ早く私を奥医師として大奥に入れて、大奥を子供が死なない組織にしようとしているようです。
 その為なら形振り構わない精神状態になっていました。

 私の警護役に選んだ痘痕のある者達は、二人の男児が元服したら、小姓や小納戸衆にする心算だと田沼意次が言っていました。
 私と接触した田沼意次も、疱瘡に罹患している可能性が完全に排除できるまでは、江戸城に登城する事は許されません。
 その代わり、伝令役として田沼意知が今まで以上に取立てられました。

 史実のように大名役の奏者番に取立てられたわけではありませんが、実質的には奏者番よりも権力がある、御側御用取次に大抜擢されたのです。
 これは私や田沼意次との連絡を、夜間でもとれるようにする為だと思われます。
 田沼意次の話しでは、これで御側御用取次は、稲葉正明と横田準松に田沼意知を加えた三人態勢となったそうです。

 もう一人、小笠原信喜が御側御用取次なのですが、小笠原信喜は徳川家基付として西之丸にいたので、今後どのような処分を受けるか分からないそうです。
 家基をおめおめと死なせてしまった事は、御側近くで仕えていた身として、処分対象になる可能性が高いそうです。
 責任を問われそうな家基付き家臣は、多額の贈り物を持って田沼意次のもとを訪れていたそうですが、慎重な意次はその贈り物を徳川家治に献上しているそうです。

 徳川家基は、血の繋がった一橋治済に殺されかけているのです。
 今度も誰か身近な者に毒を盛られた可能性があるのです。
 その実行犯や関係者から贈り物を貰っていたと後で分かったら、贈り物が幕府の常識だったとしても、徳川家治から厳しい処分を受ける可能性があるのです。
 田沼意次が慎重になるのも当然のことです。

 ですがそんな事を考えたのは一瞬です。
 私には田沼意次の事を考えている余裕などありません。
 このままでは、一生大奥に押し込まれてしまうかもしれないのです。
 もう元の世界に戻れなくなってしまうかもしれないのです。
 逃れる方法を必死で考えました。

 ですが名案など、そう簡単に思い浮かぶモノではありません。
 思い浮かぶのは、どれも身勝手な策ばかりです。
 当麻殿達に助けて貰って伏見稲荷大社に行くような策しか思い浮かびません。
 ですがもしそんな事と本当に実行したら、私は殺される事がないでしょうが、当麻殿と門弟衆は確実に殺されてしまうでしょう。

 僥倖に恵まれて途中で捕らえられることなく無事に伏見稲荷大社に辿り着けて、私が元の世界に戻れたとしても、当麻殿達が一緒に元の世界に来れるとは限りません。
 一緒に来れたとしても、私の世界に当麻殿達が馴染めるとは限りません。
 そう思って必死で自分の身勝手な考えを押さえました。
 はるさん達に恥じるような行動をしてはいけないと思えました。

 誰かの自由や命を犠牲にして、自分の自由を手に入れるわけにはいきません。
 そんな事をするのではなく、誰も犠牲にする事なく大奥から解放される方法を考えるべきなのです。
 私の知っている事を全て伝えて、徳川家治の子供を無事に成長させれば、冷静になった徳川家治が良心を取る戻して、解放してくれるかもしれません。

 そう半ば諦観の気持ちになって、自分の身勝手さを抑えた時、予想もしていなかった事が起こってくれたのです。
 疱瘡除けの技を京の都でふるって欲しいと、朝廷が差し向けた勅使と院使が江戸に下向してきたのです。

 これには暴走していた徳川家治も冷静さを取り戻したようです。
 なんと家治は、私が京に上る事を許可したのです。
 あれほど執着していた私を手放すことにしたのです。
 私は家治にどんな心境の変化があったのか分からず、田沼意次に聞いてみました。

「それは仕方がない事でございます。
 今上陛下の践祚までは色々とあったのでございます。
 先々代の桃園天皇が若くに崩御されたのですが、今上陛下は未だ幼く、しかも宝暦事件の事もあり、朝廷内で争う事のないように、女性ながら後桜町天皇が今上陛下が成人させるまで帝位を預かられたのです」

 私は宝暦事件の事が全く分からず、その事について説明してもらったのですが、端的に言えば汚職と派閥争いだと思いました。
 そんな争いのある所には行きたくないのが本心ですが、ここで断ってしまうと大奥に閉じ込められるのは目に見えています。
 江戸から離れることが出来れば、伏見稲荷大社に行くチャンスが生まれるかもしれないと思い承諾する事にしましたが、最後まで事情は聞いておくことにしました。

「後桜町天皇が譲位されて今上陛下が即位されたのですが、とても御身体が弱く病がちなのでございます。
 しかも未だに皇子に恵まれれておられません。
 上様はそんな状態で疱瘡など流行っては困ると思われたのでしょう」

 ああ、なるほど、他の理由もあるのですね。
 田沼意次は直接口にしませんが、体質改善と食事療法、早い話が跡継ぎが生まれるようにして欲しいという事ですね。
 ですが跡継ぎ問題なら、私でなくてもなんとかなりますね。

 徳川家治や清水重好に直接鍼を施術して、子供を作らせた奥医師がいます。
 疱瘡除けも杉田玄白達を派遣すればそれで済みます。
 その事に徳川家治が気がついてしまう前に、一分一秒でも早く京都に行かなければいけません。
 そして隙を見て伏見稲荷大社に行くのです。

「分かりました。
 そう言う事情があるのでしたら、直ぐに行った方がいいですね。
 警護は疱瘡屋敷で私を護ってくれていた方々に御願いします。
 この屋敷を護ってくれている方々は、国千代殿と幸松殿の付けられるのでしょう」

 私は田沼意次に直ぐに京に行きたいと訴えました。
 同時に警護が少なくては不安で仕方がないのです。
 心に負担がかかると、乾嘔が再発してしまうかもしれないのです。
 最近ようやく名前を覚えた、徳川家治の男児の事も引き合いに出してみました。
 ですが田沼意次は、私の本心など御見通しだったでしょう。

「はい、神使様には直ぐに京に行って頂いた方がいいですね。
 警護の者達についても、神使様の仰られる通りにした方がいいと思われます。
 直ぐに上様に御伝えさせていただきます」

 私の本心を見抜いているはずの田沼意次が、直ぐに認めてくれました。
 理由は大体分かります。
 祟りが怖かったのでしょう。
 徳川家基が死んだのも、私に無礼を重ねた所為だと思っている節があります。
 信心深い田沼意次なら、そう思っても仕方がない所です。
 だからこそ、その祟りが徳川家に及ぶ事を心から恐れているのでしょう。

 田沼意次は、祟りの事を徳川家治にも伝えたのかもしれません。
 僅か三日で私の京行が決まりました。
 道中の安全を確保するために、徒士組と御先手組が先発してくれました。
 私の側には、常に田沼家番方と当麻殿達がいて、護ってくれます。
 私達の後ろにも、徒士組と御先手組が付いてくれることになりました。

 久左衛門殿の話しでは、一介の奥医師に付ける警護とは信じられないくらい、とても厳重な装備と人数だそうです。
 勅使と院使の願いにこたえる形の、幕府の威信をかけた派遣なのかもしれません。
 これでは勝手に道順を変えるのは難しいかもしれません。
 ですが難しいなどとは言ってられません。
 朝廷に行く事なく、元の世界に戻る強い意志を持って、準備だけはしました。

 でも無責任に逃げる心算はありません。
 私が元の世界に戻れた場合でも、京の町で予防接種ができるように、杉田玄白と助手の医師を連れて行きます。
 子作りが出来るように、田沼家の鍼灸師も連れて行きます。
 とても慌ただしい状態でしたが、事前準備はしっかりとしておきました。

 それと、幸いな事と言ってはいけないのですが、他の役目も与えられました。
 最初その役目を田沼意次から告げられた時は、複雑な心境になってしまいました。
 でも、とても大切な役目のなのは分かりました。
 私以外にも同様の役目を命じられて者がいました。
 徳川家基を看取った奥医師と小笠原信喜が、京に行く理由も分かりました。

 徳川家基の婚約者だった閑院宮典仁親王の第二王女、宗恭女王に徳川家基が亡くなった時の詳しい状況を知らせなかればいけないのです。
 単に知らせるだけではなく、数え年十一歳で婚約者を亡くされた、宗恭女王の今後の事も話し合わなければいけないのです。

 私にはとてもそんな話しはできませんから、長年御傍御用取次をしていた小笠原信喜が伝えてくれるのか、それとも京都所司代がやってくれるのでしょう。
 ですが表向きの正使は、私になっているのです。
 心に負担がかかる役目で、正直な気持ちは断りたかったです。
 ですが幼い頃から決められていた婚約者を亡くされた宗恭女王の気持ちを想うと、何か慰めて差し上げなくてはいけないとも思っていました。

 完全武装の侍達に警護されて、余り不安を感じる事無く、京に出発しました。
 最初の宿は戸塚宿の本陣でした。
 本陣では将軍の正式な代理である私を下にも置かない大歓迎をしてくれました。
 豪華な膳に加えて、戸塚宿名物だという饂飩豆腐を出してくれました。
 戸塚宿までは、安全な旅が出来ると思っていたのですか……
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